2022年05月15日「イエスに触れた者」

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやって下さい。そうすれば娘は生き返ります」と言った。
9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。
9:20 すると見よ。12年の間、長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒された。
9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
9:26 この話はその地方全体に広まった。マタイによる福音書 9章18節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 今お読みした場面をマルコ5:22以降とルカ8:40以降も伝えていますが、マタイの記述が一番簡潔です。マタイは、伝えたい点を明確にするために、細かい点を省き、大胆に後先(あとさき)のことをまとめて書きもします。今朝は、マルコ福音書とルカ福音書の記述も見ながら、主の愛と御心をここから教えられたいと思います。

 ここは、一人の会堂司が今死んだ自分の娘を生き返らせてほしいとイエスに頼み、その娘をイエスが生き返らせられた出来事が、いわゆる長血の女の癒しの出来事を前後に挟む形になっています。今朝は長血の女性の癒しに注目します。

 昔のユダヤでは、女性の出血は、レビ15章が記しますように、汚れとされていました。彼女は12年間も婦人病を患い、ルカやマルコによりますと、医者に全財産を費やして経済的にも行き詰り、病気はますます悪くなっていました。こういう病人は、神殿に行けず、またこういう人と接触しても汚れるとされていたため、宗教的にも社会的にも孤独の中で、しかも自らの不浄感に彼女はどんなに長い間苦しんで来たことでしょう。彼女が「イエスの後ろから近づいて、その衣の房に触れた」(20節)というのも分ります。辛く悲しい12年間を送って来たのでした。

 そんな彼女がイエスに癒されます!実は、ルカによりますと、彼女はイエスの衣に触れ、癒されますと、群衆に紛れて密かに立ち去ろうとしました。しかし、イエスが「私に触れたのは誰か」と言って群衆の中を捜されたため、隠し切れないと思った彼女は、震えながらイエスの前に出て自分のことを話しました。無論、神の御子イエスに彼女のことが分らないはずがありません。しかし、イエスは敢えてそうなさったのでした。ここに私たちは、主イエスの深い愛を教えられます。

 第一に、彼女の癒しを公に群衆に知らせることで、彼女が宗教的にも社会的にも復帰できるためでした。誰にも知られず密かに癒されたままでは、人々は相変らず彼女を避け続けるでしょう。しかし、こうして公にすることで、彼女はもう安心でした。

 第二に、彼女の信仰には、イエスの衣に触れさえすれば癒されると信じる迷信的要素があったため、そこから彼女を解放するという点もありました。今日でも、何かに触ることで病気が治ると信じる宗教は、世間に少なくありません。長血の女性の必死さは分りますが、迷信的な点は正されなくてはなりません。ですから、イエスは彼女を見てこう言われました。22節「娘よ、しっかりしなさい。あなたの<信仰>があなたを救ったのです。」彼女の<信仰>をイエスは強調されたのでした。

 イエスは「娘よ」と優しく呼びかけられました。マルコとルカもこれを伝えています。聖書を見る限り、イエスが「娘よ」と優しく呼びかけられた例は、彼女一人のようです。この辛く悲しい過去を送ってきた女性を、イエスが如何に深く慈しまれたかが伝わってきます。そのイエスの深い慈しみは、今も変ることなく弱い私たちにも注がれていることを、忘れたくないと思います。

 では、イエスが22節「あなたの信仰があなたを救った」と言われた彼女の信仰とは、どんなものだったでしょうか。

 優れた点から言いますと、彼女の信仰は非常に粘り強く、しぶとい信仰だったと言えます。潰れそうでいて潰れず、望みを失いそうでいて失わない。そういう信仰でした。

第一に、既に申しましたように、彼女は12年間も多くの医者を遍歴し、全財産を費やし、経済的にも行き詰まっていました。期待しては裏切られる経験を何度も繰り返していました。が、それでも救われる望みを捨てず、なおもイエスに手を伸ばしたのでした。ここが大切だと思います。

 多くの人が、生き甲斐や幸せ、平安、救いを求めて様々なものの間を渡り歩きます。しかし、失望を何度も味わう内に、疲れ、心が折れ、意欲を失い、目の前の気晴らしや慰めだけに満足する生活に堕ちて行きます。そして冷ややかで無気力で投げやりな状態になります。そのように堕ちて行きやすい多くの人たちのことを思いますと、失望を繰り返しながらも、なお絶望せず、救いを求め続けたこの女性は、救いを求め続ける人たちのとても優れた模範と言えるでしょう(ルカ18:1~8も参照)。

 第二に、彼女は自分の汚れをよく知りつつも、イエスに近づきました。彼女は正面からイエスに近づくことができません。それ位、自分の汚れをよく意識していました。が、それでも20節、イエスの後ろから近づき、そっと手を伸ばし、イエスの衣の房に触ったのです。

 先程も少し言いましたが、レビ記15章に記されている旧約律法は、出血のある女性に接触する者も汚れると定めていました。ということは、彼女が自分からイエスに触れたことは、非常に大胆な行動だったのでした。

 求道者やクリスチャンの中にも、「自分のような罪深い汚れた人間は、救われるはずがない」と自分で決め込んでいる人もあるのではないでしょう。でも、よく考えたいと思います。

 この時、群衆はイエスを取り囲み、イエスの服や体にも当然触れていたでしょう。ルカ8:40が伝えますように、群衆はイエスを「喜んで」迎え、イエスを待ちわびていたからです。けれども、イエスに真に触れたのは彼らではなく、隠れるようにして後ろから手を伸ばし、イエスの衣にそっと触れたこの女性だけだったのです。

 私たちは礼拝に集い、主の教えを聞く時、自分は洗礼を受けているクリスチャンであり教会員だということで、いわば、主イエスの近くに堂々と陣取っていると思います。しかし、ここでよく覚えたいと思うのです。自分の罪深さ、自分の不信仰、自分のどうしようもない汚れを知っているために、恥じ入り、おののきつつも、信仰の手をイエスにしっかり伸ばす者だけが、真(しん)にイエスに触れ、それ故、イエスから本当に罪の赦しと救いの恵み、また慰めや励ましが与えられるのです。この点を改めてしっかり心に留めたいと思います。

 第三に、彼女は会堂司の娘の所に急がれるイエスを、いわば引き留めるようにして、後ろからイエスの衣の房に手を伸ばし、触れたのでした。

 マルコとルカによりますと、会堂司はヤイロという名前で、娘は12歳でした。彼女は、父親が会堂司といういわば良家の娘であり、花の盛りの12歳でした。最初に申しましたように、マタイは後先(あとさき)のことをまとめて書いていて、少女は死んだものとして伝えています。しかし、マルコとルカによりますと、娘は実はまだ生きていて死にかけており、イエスが長血の女性に時間を割いている間に死にます。ですから、長血の女がイエスに近づいた時、イエスも弟子たちも群衆も、思いは皆、ヤイロの娘のことに集中し、特にイエスはヤイロの家にすごく急いでおられる、と長血の女性には見えたでしょう。ところが、そんなイエスに彼女は思い切って近づき、イエスの衣に、いいえ、本当はイエスご自身に手を伸ばし、自分の救い主としたのでした。

 イエスは、多くの優れた立派な信仰者の救い主でもあられますが、イエスはまた同時に、取るに足りない者の救い主でもあられます。ですから、主イエスは、また天の父なる神は、立派な人たちの救い主であって、私のように取るに足りない人間には関心がなく、他の人に関心をお持ちなのだ、などと決して思ってはなりません。自分を卑下せず、この長血の女性のように、必死の思いで大胆に手を伸ばすのです!伸ばして触って良いのです!そういう信仰こそ、真に主の救いを得る信仰なのです。

 一方、彼女の信仰には弱さと欠点もありました。第一に彼女は、マルコとルカによりますと、人知れず救い主の恵みを受け取り、黙って立ち去ろうとしました。つまり、公の告白を伴わない信仰でした。この彼女を、イエスは敢えて群衆の前に召し出し、告白に至らせられたのです。ローマ10:10は言います。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」イエスは、救いに必要な公の告白をも与えて下さったのでした。

 第二に、これも少し触れましたように、彼女の信仰は、何かに触れると癒されるという迷信とスレスレというか、既に迷信的要素を伴う信仰でした。しかしイエスは、9:22「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、このような迷信から彼女を守られたのでした。

 第三に、彼女は肉体の癒しそのものに思いが集中し、癒しを受け、病気から救われることで満足し、群衆の中に紛れ込み、去って行こうとしました。しかし、これは単なる体の癒しではなく、本当は魂の救いの徴なのです。ですから、イエスは22節「あなたを救った」とお教えになったのです。マルコ5:34もルカ8:48も、癒された彼女にイエスが「安心して行きなさい」(直訳…平安の内に行きなさい)と彼女の魂に語りかけられたことを伝えています。

 体の癒しは、神が本当に救いの神、恵みの神になって下さったことの徴に外なりません。癒された体は再び病み、老い、死んで行きます。しかし、最も素晴らしいことは、恵みの神が彼女に対して永遠に恵みの神、永遠に真(まこと)の父となって下さったことです。

 このように彼女には欠点、弱さもありましが、主はそのような彼女を愛し、深く慈しみ、弱く欠けた信仰をも認め、告白させ、正して下さいました。これが天の父なる神が遣わして下さった私たちの救い主、イエス・キリストというお方なのです。

 ですから、私たちも大胆にイエスに近づき、大胆にイエスに触れ、主イエスの驚くばかり豊かな愛と救いの恵みに、是非、しっかり与りたいと思います。

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