聖書の言葉 2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えて下さいました。エフェソの信徒への手紙 2章10節 メッセージ 今日の祈祷会から十戒について学びたいと思います。私たち個々人にとっても、キリストの体なる教会を堅固に建て上げる上でも、十戒は極めて重要なものです。 ご承知のように、十戒は、古代イスラエル民族が紀元前千数百年頃、エジプトでの奴隷状態から救われて神の民とされた時に、神がモーセを通して授けられたものであり、「モーセの十戒」と呼ばれることもあります。しかし、これではモーセが作ったような誤解を与えます。単に十戒と呼ぶか、神の十戒、もしくは、神からの道徳律法と呼ぶ方が良いでしょう。 とにかく十戒は、人間が作った戒めではありません。神に造られた人間が、神と人の前に正しく、かつ真(しん)に幸いに生きるために、神が下さったものです。道徳律法の中心にあるこの十戒を少しずつ学ぶことに致します。 十戒は、第四戒と第五戒を除く他の八つは「何々してはならない」という否定的表現ですので、罪や悪をただ厳しく戒めているという印象を持たれることもあります。そのため、「キリスト教はイヤだ。アレをするな、コレをするなと、厳し過ぎる」と言う人たちもいます。しかし、感情的にこれを拒むのではなく、是非、十戒の大切な意義を知りたいと思います。 さて、この世界と私たち人間を創られた生ける真(まこと)の神が私たちに下さった十戒には、大きく三つの大切な目的、あるいは役割があります。教理的に、これを律法の三効用と言います。 第一は、神の嫌われる罪が何であるかを指摘し教えることです。 人間は神に背き、神から大きく離れてからは、罪と罪でないものとの違いがよく分らなくなりました。そこで、自分に都合の悪いものを罪とし、そうでなければ罪とせず、規準は人間の都合になりました。そのため、善悪の規準は、時代、場所、文化、状況により、異なるという現実があります。中には、悪どいことをしておきながら、「これのどこが悪いのか」と開き直る人も団体も企業も国もあります。世代間でも道徳感覚のずれがあります。人間を規準にすると、どうしてもこうならざるを得ないでしょう。 しかし、こんな曖昧なことを神はお許しになりません。人がどうごまかし、言い繕うとも、神からの道徳律法の中心である十戒は、罪をハッキリ指摘し、罪の自覚を人に与えます(ローマ3:20「律法を通して生じるのは、罪の意識です。」参照)。そして、たとえこの世でうまく逃げおおせても、死後、神の裁きからは絶対に逃れられません。ヘブル9:27は言います。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…。」十戒は、何が神の嫌われる罪であるかないかを示します。 第二に十戒は、自己中心で、しかし決して自分で自分を救い得ない惨めで情けない私たち罪人を、救い主イエス・キリストへ導き、連れて行きます。 私たちの行いも言葉も隠れた心の中の思いも、神は全てご存じです。やがて死後、私たちは一人一人神の法廷に立ちます。誰が大丈夫でしょうか。 またそうであるなら、どうして私たちは、私たちを本当に罪と滅びから救える救い主を求めないでおれるでしょうか。十戒を真剣に自分に当てはめる時、私たちは、私たちの罪を全て背負い、私たちの身代りとなって十字架で神の刑罰を受け、命を献げて下さった神の独り子、救い主イエスを必要としないではおれなくなると思うのです。こうして十戒は、私たちを完全に救うことのおできになる神の御子イエス・キリストに導いていきます。ですから、ガラテヤ3:24は「律法は私たちをキリストに導く養育係」となったと言うのです。 第三に十戒には、救い主イエス・キリストへの信仰により罪と永遠の死から救われ、イエスの命に与った信仰者を、今度は神に喜ばれる者へと清め、成長させ、神の栄光を表し、神を喜ぶことのできる者にするという積極的な役割があります。これが第三効用と呼ばれるものです。 お読みしましたエペソ2:10は「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いを予め備えて下さいました」と言います。私たちを神の作品として神に喜ばれるように育て、真の幸いに与らせる上で、具体的な指針となるのも十戒であり道徳律法なのです。ハイデルベルク信仰問答は三つの部分からなっていますが(第一部…人間の悲惨さについて、第二部…人間の救いについて、第三部…感謝について)、その第三部「感謝について」の中で十戒が扱われているのも、この意味においてです。 十戒は、イエスを信じ恵みの契約に入れられても、なお罪の汚れを持つ私たちを、罪とそれがもたらす悲惨から守り、感謝の生活の中で、すます主イエスに似る者へと清め、祝福するという大変積極的な目的をももって、神が下さったものなのです。 以上のことを改めて深く心に留め、主イエスの下さる聖霊に導かれ励まされて、共に喜んで十戒に生きる者とされたいと思います。 関連する説教を探す 2022年の祈祷会 『エフェソの信徒への手紙』
今日の祈祷会から十戒について学びたいと思います。私たち個々人にとっても、キリストの体なる教会を堅固に建て上げる上でも、十戒は極めて重要なものです。
ご承知のように、十戒は、古代イスラエル民族が紀元前千数百年頃、エジプトでの奴隷状態から救われて神の民とされた時に、神がモーセを通して授けられたものであり、「モーセの十戒」と呼ばれることもあります。しかし、これではモーセが作ったような誤解を与えます。単に十戒と呼ぶか、神の十戒、もしくは、神からの道徳律法と呼ぶ方が良いでしょう。
とにかく十戒は、人間が作った戒めではありません。神に造られた人間が、神と人の前に正しく、かつ真(しん)に幸いに生きるために、神が下さったものです。道徳律法の中心にあるこの十戒を少しずつ学ぶことに致します。
十戒は、第四戒と第五戒を除く他の八つは「何々してはならない」という否定的表現ですので、罪や悪をただ厳しく戒めているという印象を持たれることもあります。そのため、「キリスト教はイヤだ。アレをするな、コレをするなと、厳し過ぎる」と言う人たちもいます。しかし、感情的にこれを拒むのではなく、是非、十戒の大切な意義を知りたいと思います。
さて、この世界と私たち人間を創られた生ける真(まこと)の神が私たちに下さった十戒には、大きく三つの大切な目的、あるいは役割があります。教理的に、これを律法の三効用と言います。
第一は、神の嫌われる罪が何であるかを指摘し教えることです。
人間は神に背き、神から大きく離れてからは、罪と罪でないものとの違いがよく分らなくなりました。そこで、自分に都合の悪いものを罪とし、そうでなければ罪とせず、規準は人間の都合になりました。そのため、善悪の規準は、時代、場所、文化、状況により、異なるという現実があります。中には、悪どいことをしておきながら、「これのどこが悪いのか」と開き直る人も団体も企業も国もあります。世代間でも道徳感覚のずれがあります。人間を規準にすると、どうしてもこうならざるを得ないでしょう。
しかし、こんな曖昧なことを神はお許しになりません。人がどうごまかし、言い繕うとも、神からの道徳律法の中心である十戒は、罪をハッキリ指摘し、罪の自覚を人に与えます(ローマ3:20「律法を通して生じるのは、罪の意識です。」参照)。そして、たとえこの世でうまく逃げおおせても、死後、神の裁きからは絶対に逃れられません。ヘブル9:27は言います。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…。」十戒は、何が神の嫌われる罪であるかないかを示します。
第二に十戒は、自己中心で、しかし決して自分で自分を救い得ない惨めで情けない私たち罪人を、救い主イエス・キリストへ導き、連れて行きます。
私たちの行いも言葉も隠れた心の中の思いも、神は全てご存じです。やがて死後、私たちは一人一人神の法廷に立ちます。誰が大丈夫でしょうか。
またそうであるなら、どうして私たちは、私たちを本当に罪と滅びから救える救い主を求めないでおれるでしょうか。十戒を真剣に自分に当てはめる時、私たちは、私たちの罪を全て背負い、私たちの身代りとなって十字架で神の刑罰を受け、命を献げて下さった神の独り子、救い主イエスを必要としないではおれなくなると思うのです。こうして十戒は、私たちを完全に救うことのおできになる神の御子イエス・キリストに導いていきます。ですから、ガラテヤ3:24は「律法は私たちをキリストに導く養育係」となったと言うのです。
第三に十戒には、救い主イエス・キリストへの信仰により罪と永遠の死から救われ、イエスの命に与った信仰者を、今度は神に喜ばれる者へと清め、成長させ、神の栄光を表し、神を喜ぶことのできる者にするという積極的な役割があります。これが第三効用と呼ばれるものです。
お読みしましたエペソ2:10は「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いを予め備えて下さいました」と言います。私たちを神の作品として神に喜ばれるように育て、真の幸いに与らせる上で、具体的な指針となるのも十戒であり道徳律法なのです。ハイデルベルク信仰問答は三つの部分からなっていますが(第一部…人間の悲惨さについて、第二部…人間の救いについて、第三部…感謝について)、その第三部「感謝について」の中で十戒が扱われているのも、この意味においてです。
十戒は、イエスを信じ恵みの契約に入れられても、なお罪の汚れを持つ私たちを、罪とそれがもたらす悲惨から守り、感謝の生活の中で、すます主イエスに似る者へと清め、祝福するという大変積極的な目的をももって、神が下さったものなのです。
以上のことを改めて深く心に留め、主イエスの下さる聖霊に導かれ励まされて、共に喜んで十戒に生きる者とされたいと思います。