新しいぶどう酒は新しい皮袋に
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 9章14節~17節
9:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスの所に来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。
9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その時には断食をします。
9:16 誰も、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。
9:17 人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋も駄目になります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」
マタイによる福音書 9章14節~17節
新しいぶどう酒は新しい皮袋に!この有名なイエスの御言葉を今朝は学びます。
念のために、前回の学びを少し振り返ります。14節「それから、ヨハネの弟子たちがイエスの所に来て、『私たちとパリサイ人はたびたび断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。」
9~13節が伝える、つまり、マタイの家でイエスと弟子たちが取税人や罪人と呼ばれた人たちと食事を楽しんでいる様子を見て、洗礼者ヨハネの弟子たちは疑問に思いました。これにイエスは喩を用いて答えられました。15節「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。」「花婿」、つまり神の御子イエスへの信仰により救われ、イエスとの親しい交わりに生きるクリスチャンの顕著な特徴の一つは喜びだということ、従って、基本的に断食はそぐわないということです。
無論、クリスチャンも気持がひどく沈む時があり、その時は喜びも無理でしょう。しかし、イエスの十字架の贖いのお蔭で、クリスチャンは永遠の救いに与り、神の子とされ、特にイエス・キリストとの親しい交わりを頂いています。ですから、根底に喜びがあります。これが一つの点です。
もう一つは自発性です。ヨハネの弟子やパリサイ人はよく断食をしました。しかし、いつしか、「あの人は立派な人だ」などという人の褒め言葉を期待し、また徳目の一つと考え、無理をして断食したようです。しかし、クリスチャン・ライフの根本は、信仰に基づく自発性です。断食であれ奉仕や献金であれ、あくまで自発的なものです。イエスとの親しい交わりがクリスチャンに引き起すものは、信仰から来る自発性です。
以上、14、15節を振り返りました。今朝は16、17節に進みます。
イエスの弟子たちが、ヨハネの弟子やパリサイ人のようには断食をしない理由を今振り返りましたが、イエスは更に二つの比喩により、クリスチャンの生き方の特質をお教えになります。まず16節です。「誰も、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。」
真新しい布が古い服の継ぎ当てに使われたら、どうなるでしょうか。新しい布は、水を含むと必ずギュッと縮みます。すると、継ぎ当てをされた古くて弱っている布は、引っ張られて引き裂かれ、破れが一層ひどくなります。
要するにイエスは、愛と赦しに満ちた三位一体の神との生きた交わりに生きるクリスチャンの新しい生き方は、断食に代表されるような古い生き方と相容れず、調和できないと言われるのです。
キリスト教的理念や生き方は、この世界と人間を創られた真(まこと)の神ご自身から来ています。従って、筋が通っていますし、本当は人間の本性に一番適っています。イエスへの信仰とイエスとの交わり、また聖書に基づくキリスト教人生観、世界観は、首尾一貫性と全体性という点で非常に明快です。これは、オランダの有名な改革派神学者でアムステルダム自由大学を創設し、首相も務めましたA.カイパーが名著『カルヴィニズム』で指摘した通りです。
話を戻します。根本的にはクリスチャンになる前の考え方や価値観を持ち、生活の殆どの部分も以前と変らず、ただ部分的にキリスト教的なものを継ぎ足していれば、どうなるでしょう。いつか自分も生活も破綻し、うまく行かなくなることは目に見えています。二元論で、根本的矛盾があるからです。ですから、イエスは言われます。16節「誰も、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。」
私たちは、自分の価値観や物事の優先順位、また実生活の中で、キリスト教的なものを部分的に継ぎ足すのではなく、是非、イエスとの親しい交わりに基づくものや神に真(しん)に喜ばれる神中心のもので満たしたいと思います。物事の考え方、受け留め方、お金や体や時間も、私たちを極みまで愛していて下さるイエスとの交わりに相応しく、主に喜ばれるものでますます満たしていく!これが真(しん)にクリスチャンとして生きることです。ローマ12:1、2は言います。「ですから、兄弟たち、私は神の憐れみによって、あなた方に勧めます。あなた方の体を、神に喜ばれる、聖なる生けたささげ物として献げなさい。それこそ、あなた方に相応しい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えて頂きなさい。そうすれば、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
ローマ14:7、8も言います。「私たちの中で誰一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」
イエスは、もう一つ、弟子たちがヨハネの弟子やパリサイ人のようには断食しない理由を語られます。17節「人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋も駄目になります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」
これはどういう意味でしょうか。主イエスを救い主として心から信じ、受け入れ、依り頼むキリスト教信仰では、イエスとの交わりやそれに伴う喜び、感謝、賛美といった「中身が形を決める」ということです。
ヨハネの弟子やパリサイ人たちの問題は、何だったでしょうか。キリスト教信仰のもたらす喜びや感謝を知らなかったのですが、今の場合、彼らにはまず昔からの断食という形があり、とにかくそれに従うべきだという考えに固く捕われていたことでした。
しかしイエスによれば、神信仰が私たちにもたらす感謝や賛美や喜びなどの「内容」が「形を決める」ということです。神の救いの無限の愛を知ることから来る大きな感謝、主と共にある喜び、平安、感動などのあるキリスト教信仰を、それらのない「断食に代表されるような宗教の型」に閉じ込めることは不可能なのです。
このことは色々な点で言えます。例えば、礼拝ですが、私たちの教会の礼拝も、ある決った形を持っています。これはこれで良いものです。しかし、これしかないとか、これ以外の形は全て間違っている、というのではありません。
1981年11月、私はアメリカ・ジョージア州アトランタに行き、アフリカ系米国人の礼拝にも出ました。説教中でも、会衆は「その通り」と思いますと、至る所で「アーメン!」と元気な声を上げていました。牧師もよほど感謝に満ちた御言葉を語る時だったのでしょう、笑顔でリズムを取って踊りながら説教をすることもありました。
私や一緒に行った他の日本人牧師たちは驚きました。説教は黙って聞き、説教者は動くべきでないと教えられ、自分でもそうだと思っていたからです。しかし、本当に御言葉に励まされ、主の福音に感極まるなら、無論、他の人に迷惑をかけないように配慮しつつですが、「アーメン!」と言って良いですし、説教も様々なスタイルで語られて良いと思います。
私は、大阪の生野区にある長老派の韓国人教会や韓国の長老派教会にも何度か出席し、説教もさせて頂きました。賛美の時、皆が手を前に出し、賛美に合わせて手を動かしながら歌っておられました。また礼拝中に新来会者の紹介があるとか、礼拝中のある部分で皆が一斉に声を出して祈る教会もありました。他の人の祈りの声がうるさく、気になって祈れないと思うかも知れませんが、慣れれば大丈夫で、ちゃんと自分の祈りを献げられます。とにかく、そうして会衆の誰もが礼拝の一つ一つの要素に積極的に参与するのでした。
礼拝形式や内容は、教会の歴史や伝統、また礼拝の神学に基いてよく検討され、秩序あるものでないといけません。しかし根本的には、主との親しい交わりとそこから来る喜び、感謝、賛美、信仰告白、献身の思い、そして悔い改めなど、内容が形を決めるのです。福音が本来持っているその意味での豊かなエネルギーに合せて、礼拝の新しい要素、形、順序などが、十分な検討の下で取り入れられて良いと思います。
教会の諸活動も同じです。十字架で命を献げ、復活され、今や私たちの内に生きておられ、御言葉と御霊により父なる神に喜ばれる者へと私たちを育んで下さる主イエスの豊かな恵みと養いに与(あずか)り、また、より多くの方に与って頂くためなら、古い皮袋ではなく、新しい皮袋という形や方法を模索しても良いでしょう。
主は言われます。17節「人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋も駄目になります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」
どうか。主イエスが私たちを祝福し、喜びや笑顔、感謝、賛美、また真実な悔い改めを更に引き出し、信仰と希望と愛とを増し加え、教会生活を中心とすると全生活を導いて下さり、多くの人々の救いのために私たちを豊かに用いて下さいますように!