2022年05月05日「愛と厳しさ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12: 5b 「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。
12: 6  主はその愛する者を訓練し、受け入れる全ての子に、むちを加えられるのだから。」
12: 7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなた方を子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
12: 8 もしあなた方が、全ての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
12: 9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことに従って私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さ(きよさ)あずからせようとして訓練されるのです。
12:11 全ての訓練は、その時には喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後(のち)になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。ヘブライ人への手紙 12章5節b~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は「愛と厳しさ」と題してお話致します。

 愛というと、私たちははつい優しいソフトなものを考えると思います。無論、それも愛の一面です。しかし、聖書は厳しい面のあることをハッキリ教えます。ヘブル12:6は言います。「主はその愛する者を訓練し、受け入れる全ての子に、鞭(むち)を加えられる」と。万物を造り、統(す)べ治めておられる主なる神は、愛する者を厳しく訓練し、鞭打つことさえされる!これは私たちが考えやすい優しさだけの愛とは、かなり違います。

 では、神は何故そうされるのでしょうか。それは、主イエスへの信仰により神の子とされた信仰者の全人格的成長と完成をこそ、主が願われるからです。6節「主はその愛する者を訓練し、受け入れる全ての子に、鞭を加えられる。」神はご自分の愛する者、受け入れる子を、訓練し鞭を加えられるのです。「全て」であり、例外はありません。

 神のこういう愛は、11節が言いますように、誰にとってもその時は大変辛いものです。例えば、紀元1世紀の初代教会時代に伝道者として働き、全ヨーロッパのキリスト教の基盤を築いた人の一人、パウロも、厳しい試練をいくつも味わいました。その一つは、Ⅱコリント12:7に彼が書いている肉体の刺(とげ)です。何らかの辛い病に苦しめられ、辛さの余り、彼はそれを取り除いて下さるように、「三度」(12:7)、つまり、これ以上ない位、懸命に主に祈り願いました。でも、それは取り除かれませんでした。

 では、神はパウロを愛しておられず、気にかけておられなかったのでしょうか。いいえ、パウロ自身述べていますが、彼が伝道者として優れていただけに、Ⅱコリント12:7「高慢にならないように」主はされたのです。こうして、彼は一層謙虚な者にされ、清くされ、また彼の弱い所にご自身の力を表される神の驚くべき恵みを、身をもって体験させられたのでした。主は彼に言われました。Ⅱコリント12:9「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さの内に完全に現れるからである。」

 苦しみの中に神の愛や計画を知らされた人たちは、旧約時代にもいました。例えば、ヨセフは兄たちに妬まれてエジプトに売られ、ひどい苦しみに遭います。しかし、それが彼の信仰を成長させました。のちに大きな飢饉が各地で起り、兄たちが食料を求めてエジプトに来た時、ヨセフにはすぐ兄たちだと分りました。でも、暫くは他人を装いました。しかし、とうとうこらえ切れなくなり、ついに身を証し、「私をここに遣わしたのは、あなた方ではなく、神なのです」と語りました(創世記45:8)。

 イザヤ38:17には、試練を味わったヒゼキヤ王の言葉、「ああ、私の味わった苦い苦しみは、平安のためでした」があり、また詩篇119:71は神にこう告白します。「苦しみに遭ったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」

「あの人はクリスチャンなのに、不幸に遭うのか」という声も時々耳にします。しかし、聖書は言います。「主はその愛する者を訓練し、受け入れる全ての子に、鞭を加えられる。」

 あまりにも辛い目に遭いますと、「神のどこが愛なのか」と、神の愛を信じられなくなりそうなことも私たちにはあるでしょう。しかし、覚えておきたいと思います。神は愛しておられるから、試練を与えられる、と。

 貴金属は火で精練され、不純物を除去されて純度の高いものになることで、尊いことに用いられます。私たちへの神の愛も同じです。私たちの信仰の純度を高め、私たちから肉的な部分を取り除き、主への信頼と清い心だけが残るよう練り清め、また尊いことに用いるために、主は試練を与えられるのです。

 そして、どんな力もこの神の愛から私たちを引き裂くことはできません。試練をいっぱい体験していたパウロは言います。ローマ8:38、39「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後(のち)に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 神の愛と厳しさについての御言葉から、私たちはまた人への愛についても教えられます。愛というと、つい甘い優しいものだけを考えがちですが、真(まこと)の愛は、相手の人格的成長をこそ願い、相手の最善を求める芯のあるものなのです。すなわち、神と人の前に一層謙り、知恵、力、聖さ、正しさ、真実(ウェストミンスター小教理問答 問4)、また人への寛容、親切、善意、誠実、柔和(ガラテヤ5:22、23)などの点で、神の御子・主イエス・キリストに似る者となることだからです。

 神の愛について改めてよく認識し、特に苦しい時、神の愛と御心を深く思い巡らし、「耐え忍び」たいと思います(ヘブル12:7)。とはいえ、私たちは皆、弱い者です。ですから、是非、共に励まし合う者でありたいと思います。

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