2022年05月01日「喜びと自発性」

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスの所に来て、」私たちとパリサイ人は度々断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。
9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その時には断食をします。
9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。
9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋も駄目になります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」マタイによる福音書 9章14節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 クリスチャンの生き方の根本的な特徴とは、イエス・キリストによるとどういうものでしょうか。色々ある中で、今朝は二つの点を改めて心に留めたいと思います。

 14節「それから、ヨハネの弟子たちがイエスの所に来て、『私たちとパリサイ人は度々断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。」

 「それから」とあります。この断食問答は、直前の9~13節、つまり、取税人マタイをイエスが弟子にされた出来事の続きです。並行箇所のマルコ2章とルカ5章でも、二つの記事は続いています。マタイの家でイエスと弟子たちが取税人や罪人と呼ばれる人たちと食事を楽しむのを見て、洗礼者ヨハネの弟子たちは疑問に思ったのでした。

 これにイエスは答えられます。15節「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。」「花婿」とはイエスご自身のことです。旧約聖書のイザヤ62:5は「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ」と言います。旧約時代から、神とイスラエルの関係は、花婿と花嫁の関係に喩えられていました。黙示録19:7でも同じです。

 イエスは何をお教えになるのでしょうか。一つは、御子イエスへの信仰により、罪と永遠の滅びから救われた人の最も顕著な特徴の一つは、喜びだということです。

 洗礼者ヨハネの弟子やパリサイ人たちも神を信じ、真面目でした。しかし、その信仰の性質からして、どちらかというと神を、また神の下さる救いの恵みを、喜び楽しむということが少なかったようです。そんな彼らからしますと、色々な人たちとの食事や交わりを大らかに喜ぶイエスと弟子たちは、きっと不謹慎に思えたでしょう。

 しかしイエスは、ご自分が旧約聖書の約束していた救い主であり、神の民の花婿なのですから、そのご自分に付き添い、ご自分との交わりを今喜んでいる弟子たちは、どうして暗い顔で断食などできようか、と言われるのです。

 ここに、クリスチャンは、神また御子イエス・キリストとの親しい交わり故の「喜び」という特徴を持つ者であることを改めて教えられます。事実、旧約聖書のネヘミヤ8:10は「主を喜ぶことは、あなた方の力だ」と言い、新約聖書のⅠテサロニケ5:16以降も「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられること」だと言います。このことを私たちも改めて覚えたいと思います。

 無論、私たちには、心配や不安のために気持がひどく落ち込み、時には絶望的な思いになることもあると思います。そういう時には、喜ぶことは難しいですね。

 しかし、主イエスはマタイ6:25以降の「心配するな。思い煩うな」という教えの中で、「空の鳥をよく見なさい。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい」と言われます。ここで教えられることは、視点を変えることの重要性です。

 私たちは、非常に辛い目に遭いますと、そのことにすっかり心を奪われ、他のことが考えられず、深い穴に落ちたように絶望的な気持になることがあります。しかしイエスは、「空の鳥、野の花を見なさい」と教え、心を一旦、自分自身から離し、神のご支配、神の世界に向けなさい、と言われます。すると私たちは心の深呼吸ができ、全知全能の神とその救いの御業やご計画などに、改めて心が開かれます。そして実際、そこから自分が変えられることがよくありますね。

 私自身は、辛い時、父なる神、御子イエス、また私の内におられる聖霊なる神に順次祈ることがあります。そうして三位一体の神が、全ご存在を上げ、私のような小さな者の救いに関って下さっていることを思いますと、嬉しくて、とても励まされ、元気が出ることがよくあります。神が私たちに、ご自分が三位一体の神であられることを自己紹介しておられることは、理由のないことではありません。御子イエスを通しての真(まこと)の神との豊かな交わりの喜びを味わわせ、そうして私たちを慰め、力付けるためです。

 イエス・キリストと共に生きるクリスチャンの最も顕著な特徴の一つは喜びです。断食問答を通してイエスがお教え下さる一つのことは、これです。

 もう一つは、私たちの自発性を主が喜ばれることです。

 洗礼者ヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは、14節「度々断食している」といいます。旧約聖書のレビ記23:27は「第七の月の十日は宥めの日」だと言います。これはイスラエルの民が、最低でも年に1日は罪を悲しみ、自分たちを贖って下さった神の憐れみを覚える断食を命じたものです。命令ではありましたが、自分を深く省みますと、皆自ずと断食する気になったと思います。士師記20:26やⅠサムエル7:6は、人々が神に罪を犯した時や他の折りにも断食したことを伝えています。それらも真剣に自分の罪を悔い、神に赦しを願う祈りと一体となった自発的な断食でした。

 しかし、残念なことに、時代が下るにつれ、いつしか偽善的なものが入ってきました。マタイ6:16でイエスは「あなた方が断食する時には、偽善者たちのように暗い顔をしてはなりません。彼は断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせる」と言い、問題点を指摘しておられます。つまり、皆に分るように断食をし、「あの人は敬虔で立派な信仰者だ」などと、人からの賞賛を期待することが起っていました。

 ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちが皆そうだったのではありません。しかし、いつしか断食が習慣化し、それも立派な徳目のように考える人たちも生まれていたようです。すると今度は、断食をせず、大らかに食事を楽しんでいるイエスや弟子たちを見ますと、不信仰で不謹慎に思えたでしょう。

 イエスの弟子たちも断食をしないのではありません。イエスは15節後半で「彼らから花婿が奪い取られる時が来ます。その時には断食をします」と言われます。マタイ福音書では初めてですが、これはイエスの十字架の死の時のことを予告しています。聖書は一々伝えていませんが、その時には、弟子たちもショックと悲しみのあまり、食事が喉を通らなかったでしょう。しかし、イエスが復活して彼らに現われられ、天に戻られても、御霊によりイエスがいつも彼らと共におられるようになりますと、彼らは余程大事な時、例えば、使徒13:3は、パウロとバルナバを宣教旅行に送り出す際に、教会が断食して祈ったことを伝えていますし、使徒14:23は、新しく伝道して生まれた教会に長老を立てる時、断食祈祷をしていますが、そういった時以外、断食しなくなります。

 大事なことは、悔い改めや時には断食祈祷、また祈りや賛美、交わりや奉仕、更には献金など、クリスチャン・ライフの全ては、救い主イエス・キリストへの信仰に基づく自発的なものだということです。それらは単に習慣的なものではなく、まして一つの徳目でもなければ、人の評価を得たくて人に見せるためのものでは、全くありません。キリスト教信仰が私たちの生活に引き起す全ては、自発的なものなのです。

 断食問答を通して今日学んだ喜びと自発性は、16節の布切れの譬、17節のぶどう酒と皮袋の譬で教えられることと併せて、クリスチャン・ライフのとても顕著で大切な特徴と言えます。

 現実には、私たちも喜びと自発性だけでなく、仕方なくすることもあれば、時には人の褒め言葉を期待することも無意識の内にあるかも知れません。この世が罪に満ち、サタンが働き、私たちにも罪の性質が沢山残っているからです。

 とはいえ、喜びや自発性がクリスチャン・ライフを貫く大きな特徴であることを心に留めることは、とても大切で感謝なことだと思います。というのは、これらは正(まさ)にイエス・キリストご自身が父なる神の前に歩まれたその生き方を貫くものだったからです。例えば十字架について、イエスは言われました。「誰も、私から命を取りません。私が自分から命を捨てるのです。」(ヨハネ10:18)

 イエスは、私たち罪人を罪と滅びから救うために、仕方なく人となって世に来られ、罪人たちの反抗を耐え忍び、十字架で死ぬ道を歩まれた、というのではありません。全くそうではありません!主は喜んで自発的に父なる神の御心に従われました!そしてピリピ2:8が言う通り、「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われ」ました。それは、ただただ私たちへの愛の故でした!何という主の愛でしょうか!一体、どれだけ私たちは主に愛されているのでしょうか!

 ですから、私たちも主の計り知れない愛と私たちの前に歩まれたお姿をしっかり覚え、喜びと自発性を中心とする信仰生活を、改めてまた送りたいと思うのです。そうして、耐えず主イエスと共にあり、救いの恵みを更に味わい、また主の聖(きよ)いお姿に似る者とされ、神の栄光を表すことに、ますます用いられたいと思います。

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