2022年04月24日「故人を覚える(召天者記念礼拝説教)」
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故人を覚える(召天者記念礼拝説教)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
詩編 90章10節~12節
聖書の言葉
90:10 私たちの齢(よわい)は70年。
健やかであっても80年。
その殆どは、労苦と災いです。
瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。
90:11 だれがみ怒りの力を
あなたの激しい怒りの力を知っているでしょう。
ふさわしい恐れを持つほどに。
90:12 どうか教えて下さい。自分の日を数えることを。
そうして私たちに、知恵の心を授けて下さい。」
詩編 90章10節~12節
メッセージ
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コロナ禍がなおも続く中、召天者記念礼拝を今年も持ち、特にW.宣子さんのご親族がご出席下さり、本当に感謝でございます。私たち一人一人をご計画に従ってこの世に生れさせ、今まで生かして下さっている天の父なる神と、救い主であられる神の御子イエス・キリストを仰ぎながら、一時お話させて頂きます。
説教題を「故人を覚える」としました。私たちは、自分の大変近しい故人であっても、その人のことを四六時中覚えられるわけではありません。しかし、ひと月に1度であっても、故人を覚えることは、やはり意義深いと思います。
では、どういう意味で意義深いでしょうか。一つは、前にも申し上げたことがありますが、私たちが故人に改めて感謝でき、いわば故人を愛し直せることです。
「故人のことを私は今、それ程思い出さず、余り思わなくなった」と言う人もあるかも知れません。深い悲しみから立ち直り、自分らしさを漸く取り戻せたという意味では、感謝なことです。とはいえ、たまにでも故人を思い出すことは、やはり意義深いと思います。
実際、故人を思い出し、思い巡らすと、どうでしょうか。何一つ欠点のない完全な人など、この世に一人もいません。しかし、亡くなった故人のことを振り返りますと、必ず良い面があることに気付かされます。特に私たち自身が少しずつ歳を取り、色々な経験を積み重ねたことで、故人について新たに気付かされ、再発見できることがあります。
私は22年前の4月と5月に相次いで94歳の父と84歳の母を見送りました。ですから、この季節になると、両親を思い起すことがつい多くなります。亡くなる1年前、彼らと車で桜の花を見に行ったこと、また花菖蒲が見事な菖蒲園に行ったことも思い出します。大変喜んでくれました。目が悪くて余り外に出ることもなかった母が嬉しくてはしゃぎ、父も上機嫌でした。
しかし、そういうことだけでなく、彼らなりに戦前・戦中・戦後の貧しい苦しい時代を一生懸命生き、時には厳しい面もありましたが、彼らの穏やかさ、優しさ、真面目さ、忍耐強さを、改めて思い出します。彼らはクリスチャンではありませんでしたが、私が洗礼を受けることにも牧師になることにも反対せず、むしろ私を信じて静かに見守ってくれていました。近所の人にも、いつも穏やかで誠実でした。
皆様もどうでしょうか。故人についてよく記憶を掘り起しますと、以前とは違い、良い面に新しく気付かされることが、きっとあると思います。すると私たちは「あぁ、そうそう、そうだった!前には余り気付かなくて、ご免ね。もっとその点を心に留め、大切にして上げれば良かった。今更何もして上げられないけれど、本当にありがとう」と改めて故人に感謝し、いわば愛し直すことができます。それ自体、何と尊いことでしょうか。しかもそういう積み重ねは、私たち自身の人間性を謙虚で豊かな者にし、神に喜ばれ、人にも信頼され、多少とも人に寄り添い、人に役立てる者に成長させられます。何と感謝なことでしょう。
2016年4月28日、68歳で天に召されたW.宣子さんのことを思います。ご家族には様々な想い出がおありでしょう。若い頃にはミャンマーで日本の医療ボランティア・チームの栄養士として働かれた位、熱い方で、きっとしっかり者でチャーミングな方だったと思います。彼女の晩年に交流を持った教会員からは、幼子のように素直で感謝を忘れず、温かい方だったと聞いています。また、先程ご一緒に歌いました讃美歌21-227「主の真理(まこと)は」がお好きでした。神の真実と恵みを歌うこの讃美歌を愛された彼女の信仰と人柄を思います。
私たちは、神の計画の中で彼女の家族とされ、或いは彼女と交流を許された者として、辛い闘病中にも最後まで誠実であった彼女を再度心に留めたいと思います。また彼女が私たちの記憶に刻んで下さった、人として大切なものを私たちも尊ぶことで、彼女への感謝と愛を改めて表し、こういう出会いを与えて下さった神を賛美したいと思います。これは、2000年7月4日、81歳で亡くなられたS.花さんや、他の故人についても同じです。そしてもう少し言いますと、今生きている方々を改めて大切にしたいと思います。
故人を覚えることの第一の意義は、故人に改めて感謝でき、故人を愛し直せること、その結果、私たち自身を変えられ、人として成熟させられることです。
二つ目に進みます。それは自分の死という最も厳粛かつ重要な事実を覚えさせられることです。
先程、詩篇90:10以降を読みました。10節は言います。「私たちの齢(よわい)は70年。健やかであっても80年。その殆どは、労苦と災いです。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります。」
この詩篇の作者は、人の命がいつまでも続かず、振り返れば一瞬であり、また人生の殆どが労苦と災いだという厳しい現実をよく知っていました。こういうことを言えたのは、彼自身の経験による点も少しはあったと思いますが、殆どは彼より先に死んでいった他の多くの人とその人生を見ていたからでした。先程読みませんでしたが、4~6節で彼は神にこう告白しています。「まことに、あなたの目には、千年も昨日のように過ぎ去り、夜回りの一時です。あなたが押し流すと、人は眠りに落ちます。朝には草のように消えています。朝、花を咲かせていても移ろい、夕べには、しおれて枯れています。」
つまり、天地を創られた真(まこと)の神を信じていた作者にとって、他の人の死は他人事(ひとごと)ではなく、自分が向き合わなければならない真剣な問題であり課題でもあったのです。実際、特に近しい人の死は、私たち自身の死という最も厳粛かつ重要な事実を覚えさせるものとして、神は私たちにそれを体験させられるのです。
創り主なる真の神への人類全体の不従順の罪と不信仰の結果、死は全ての人に臨み、誰も逃れられず、また人生は労苦と災いの連続という厳しいものになってしまいました。
では、この現実を前に、この詩篇作者はどうしたでしょうか。「こんな人生、意味がない。どうせ死ぬんだから」と言って、好き勝手な生き方や虚無的な人生を選ぶのでしょうか。違います。そういう生き方を、真の神を信じるこの人は選びませんでした。彼はどうしたでしょう。ただ心からの信仰だけで一切の罪をお赦し下さる神の愛を信じ、神の眼差しを覚えて生きる彼は、自分が死後、直ちに天に召され、神の国で永遠に神との親しい交わりの内に生きることを知っていました。
そこで彼は、地上での残された時間を、空しい愚かなことに費やして過ごすのではなく、むしろ、如何にして神に喜んで頂けるように生きられるか、と考えるのでした。そこで彼は神にこう祈ります。12節「どうか教えて下さい。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を授けて下さい。」
「自分の日を数える」とは、自分に残された時間を考え、つまり、自分の死をキチンと自覚することを意味します。いつ死んでも良いように、残された時間を神に喜ばれ、かつ、死後、恐れなく神の裁きの座に立ち、永遠の命に与ることができるために、彼は「知恵の心を授けて下さい」と祈るのでした。
故人を覚えることで、私たちは自分の死をも覚え、またそのことから、私たちは地上での残された時間を、是非、神の下さる知恵により、良く生きる者とされたいと願います。
死をキチンと意識しませんと、つい私たちの生き方は表面的で刹那的なものに陥りやすくなります。しかし、それでは神に喜ばれず、自分でも本当の意味での清い喜びも深い充足感もない空しいものに終り、瞬く間に時間を浪費し、気が付くと人生の終りの断崖絶壁まで来ていた、ということになりかねません。
この点で、昔からヨーロッパの修道院で、修道士たちが庭や廊下ですれ違う度に、「メメント・モリ」と言い交わしてきたことは、大変意義深い習慣だと思います。ラテン語メメント・モリは「死を覚えよ」という意味です。死を覚えることで、自分に残された命の時間を大切にし、特に私たちの罪の赦しのために十字架で命を捧げ、復活された神の御子イエス・キリストと共に、神の御心に喜んで従い、愛をもって人に仕え、丁寧に生きることを励まされました。死を覚えることには、本当はとても積極的な意義があるのです。
今朝、私たちは、故人を覚える意義を、聖書と私たちの体験から振り返りました。私たちの前に世を去り、特に神が世に遣わされた御子であり救い主であられるイエス・キリストを信じて歩み、今、天国で、言葉に表せない喜び、慰め、安らぎの内に、神の御顔(みかお)を仰いで生きておられる信仰の先輩たちを、是非、覚えたいと思います。そして私たちも、苦労と災いは付きまといますが、残された人生をイエス・キリストに手を握られ、聖書から絶えず励ましと知恵を頂きつつ、ご一緒に歩んで行きたいと願います。