2022年04月10日「イエスの十字架と神の愛」

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イエスの十字架と神の愛

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヨハネの手紙一 4章7節~13節

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4:7 愛する者たち。
   私たちは互いに愛し合いましょう。
   愛は神から出ているのです。
   愛がある者はみな神から生まれ、
   神を知っています。
4:8 愛のない者は神を知りません。
   神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、
   その方によって
   私たちに命を得させて下さいました。
   それによって、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
   私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
   ここに愛があるのです。ヨハネの手紙一 4章7節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今日は、昔からの教会歴で「棕櫚の日曜日」と呼ばれ、今日からイエス・キリストの十字架を特に覚える受難週に入り、来週の主の日はイエスの復活を祝うイースターとなります。そこで今朝はⅠヨハネ4:7以降から、イエスの十字架が私たちへの神の愛をどんなに表しているかを、改めて学びたいと思います。

 7節から始まりますこの部分は、クリスチャンに互いに愛し合うようにと教えています。紀元1世紀の終り頃、神秘的な神体験や神秘的な神知識を主張する異端の人たちが入って来て、教会は乱され、教理的にも信仰的にも未熟な人たちは、異端の人たちに同調したり振り回されたりしたでしょう。すると、対立や不信感が生れ、愛が冷えます。ですから、ヨハネは聖霊に導かれて7節のように書き、イエス・キリストにおいて表された神の愛を確認するのです。

 創り主なる真(まこと)の神の愛をよく知りませんと、人間は必ず自意識過剰になり、広い心で赦したり支え合うこともできなくなります。神の愛を知ることは、とても大切です。

 とはいえ、神の愛はどこにあるのでしょうか。この世には、人間の罪の結果、悲惨なことが余りにも多く、一体どこに神の愛が見られるのでしょうか。9節は言います。「神はその独り子を世に遣わし、その方によって、私たちに命を得させて下さいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。」

 ある神学者は言います。「イエスの来臨こそ、神の見えない愛の、私たちの間における見える徴である」と。その通り、神がイエスを世に遣わされたことこそ、神の愛の最高かつ決定的徴なのです。

 そこで、神の愛を9、10 節から学びたいと思います。

 第一に、神の遣わされたイエスが神の独り子であることに、神の愛は見事に示されました。9節「神はその独り子を世に遣わ」されました。「独り子」と訳されているギリシア語は、「愛する子」という特別な意味も持ちます。

 もし私たちが一番大切なものを誰かに上げるとするなら、それは自分の一番大切な人に対してではないでしょうか。が正(まさ)に神は私たちにそうして下さったのです!何と神は、他でもないご自分の最愛の「独り子」を世に遣わされたのでした!それ程、神は私たちを愛して下さっているのです。何という神の愛でしょう。

 しかも第二に、神はその独り子を十字架で死なせるために遣わされました。10節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥め(なだめ)の捧げ物としての御子を遣わされました。」

 「宥めの捧げ物」とは、人間の醜い罪に対する神の怒りを宥めるために、誰かが命を捧げることを意味します。何と神はご自分の独り子イエスを、人が千回死ぬより苦しいと言われた十字架につけられたのです。一体、誰が、人のために自分の愛する独り子を、それも残酷な十字架で殺されることが分りながら、差し出せるでしょうか。

 カトリック教会には、昔から「十字架の道行」という習慣があります。イエスに死刑が宣告され、十字架を担がされ、十字架に釘づけされ、息を引き取り、埋葬されるまでの14の場面と復活を加えた15の場面(留と呼びます)が書かれた絵やレリーフが置かれた教会があります。場面毎に解説があり、信徒は立ち止まってはそれを読み、主の十字架の苦難を具体的に覚えて祈ります。それらを順番に見て行きますと、主の苦しみがどれ程であったかが、心に迫って分ります。が正に神は、私たちのために御子を宥めの捧げ物とされたのです。何という神の愛でしょう。ですから、10節の最後は言います。「ここに愛がある」と。

 第三に、神が御子を死に至らせた程に愛しておられるその私たち自身がどんな者かを考えますと、一層神の愛が分ると思います。

 9節、神は独り子を「世」に遣わされました。聖書で「世」という言葉は、神に逆らう罪深い不信仰な世という意味も持ちます。2:15~17は言います。「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もし誰かが世を愛しているなら、その人の内に御父の愛はありません。全て世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。」

 「世」は、神に背き、自分の思い通りに生きたい私たち罪人を指しています。罪はドラマや小説では美しく魅惑的に描かれることもあります。しかし、罪って、本当は何と醜く、汚いものでしょう。

 こんな私たちは、神から見て愛らしいでしょうか。むしろ神にとって、どんなに不快で怒りを覚える存在でしょうか。ですから、エペソ2:3は「私たちも皆、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉のままに生き、肉と心の望むことを行い、他の人たちと同じように、生れながら御怒り(みいかり)を受けるべき子らでした」と言うのです。自己中心に生きている時、私たちは実は知らないで神に敵対し、神の怒りこそが相応しい者なのです。

 ところが、何とそんな私たちの罪を全部償い、永遠の滅びから救うために、神は御子を世に遣わし、それも人間の手で殺されることを承知の上で、そうされたのです!何という神の愛でしょう!ですから、ローマ5:8は言います。「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」

 第四に、神の愛の目的が素晴らしいですね。それは、私たちに罪の赦しを与え、私たちが永遠に、それも本当の意味で生きることができるためなのです。9節「神はその独り子を世に遣わし、その方によって、私たちに命を得させて下さいました。」

 皮肉屋で有名な小説家S.モームは「この世で100%確かなこと、それは人間が必ず死ぬことだ」と言いました。しかし、彼の言葉を待つまでもなく、人は必ず死にます。秦の始皇帝のように不老不死の薬を必死になって捜しても、人は必ず死にます。ローマ6:23の言う通り、「罪の報酬は死」なのです。

 イエスは言われました。マタイ16:26「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。その命を買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」万一、全世界を手に入れ、富も権力も名声も全部獲得できても、神に背き、愛をもって人に仕えることもせず、自己中心の罪のために永遠の地獄に至るならば、何という悲惨でしょう!

 けれども、ここに福音があります!自分の罪を心から悔い改め、私たちのために命を捧げて下さった御子イエスを、心から信じ、受け入れ、依り頼むなら、私たちはあらゆる罪を赦され、神の子とされ、永遠の命を頂けるのです。

 ところで、永遠の命とは何でしょうか。ヨハネ17:3でイエスは天の父にこう祈られました。「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」こういう場合の「知る」は、知的な面以上に、体験する程の知り方、つまり、親密な交わりを指します。永遠の命とは、その存在・知恵・力・聖・義・善・真実において、無限・永遠・不変の神の素晴らしさ(参照 ウェストミンスター小教理問答 問4)を味わいながら、神とのこれ以上ない親しい交わりの中で、神と共に生きる最高の命のことなのです。

 イエスの十字架の究極の目的はここにあります。私たちを愛する故に、神はこの命を、イエスへの信仰だけで私たちに与え、しかも神との親しい交わりの中で今現在も生きることができるようにして下さっているのです。

 S.モームはこうも言いました。「思い煩うことはない。人生に意味はないのだ。」何と虚無的でしょうか。確かに真の神を知らなければ、本当の意味での喜びも充足もありません。ですから、手を変え品を変えて心の空洞を埋めようとしている内に、もう人生の終りに来ていたという人が、何と多いでしょうか。

 しかし、真の神との交わりという命には、絶えず神の愛と恵みについて新たな発見があり、空しさを凌駕する清い喜び、感動、感謝があります。今、草木の新芽がほころび、可愛い花があちこちに咲き出しているのを見ますが、真の信仰者は、それらを単に美しいと思うだけでなく、そこに神の余りにも麗しい愛や知恵、力、美しさなどを見出し、感動し、嬉しくて嬉しくて、神を賛美しないではおられません。

 この命は、私たちがイエス・キリストを心から信じ、受け入れ、依り頼む時、私たちの内で始まり、私たちが主イエスに従う時、私たちの内でいよいよ確かになります。

 人は必ずいつか死にます。しかし、イエスを心から信じる者の魂は、死の瞬間に全く清められ、神の御許(みもと)で永遠に安らぐことができます。また主イエスに倣って私たちも世の終りに復活し、神から新しい完全な体を与えられ、神の国で、清められた全ての神の子たちと共に、永遠に神を喜ぶことを許されるのです。

 しかも信仰者の内に始まっているこの命により、私たちはこの世でも徐々に主イエスの麗しいご性質に似る者とされます。その幸せは、肉体の死を超えて永遠に続きます。これがイエスの十字架に表された神の愛です。

 私たちは情ない罪人です。一体、神はどうしてここまで良くして下さるのでしょうか。8節は答えます。「神は愛だから。」そうなのです!これが神というお方なのです。

 今日から始まる受難週の一日一日を、私たちの罪のために世に来て下さいましたイエス・キリストの苦難、いわゆる「十字架の道行」に表されている神の計り知れない愛を、改めて一つ一つ思い巡らし、瞑想し、一層イエス・キリストへの信仰を強められたいと思います。

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