Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 8:31 イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。8:32 あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」ヨハネによる福音書 8章31節~32節 メッセージ 「真理は私たちを自由にする」と題して、ひと時、お話させて頂きます。 時々、次のように言う方がおられます。「私は、キリスト教は多くの宗教の中では良い方だと思うけれど、クリスチャンになると、何かと拘束され、不自由になりそうだから、私はやめておく。」 実は、私もクリスチャンになる前はこれに近かったと思います。「洗礼を受けてクリスチャンになると、どうも考え方や生き方が狭くなるように思える。キリスト教の教えと生き方には魅力を感じ、正直な所、心を引かれる。しかし…。」これが、イエス・キリストを救い主として受け入れる前の私でした。 しかし、これは私の思い過ごしであり、誤解でした。20歳で洗礼を受け、クリスチャンになって54年が過ぎましたが、少なくとも私に関する限り、本当に自由です。むしろ、とても自由になったと心から感謝しています。お読みしましたヨハネ8:32で、神の御子イエスが言われた通りです。 無論、ここでイエスが言われる自由は、何でも自分の思い通りにできるという意味ではあります。そもそも好き勝手に罪深いことや利己的で無責任なこともできる自由などは、自由の名に値しませんね。論外です。 それと、イエスは31節で「私の言葉に留まるなら」と言われます。すなわち、私たち人間を創り主なる真(まこと)の神に立ち返らせる救い主イエス・キリストを証しするその聖書の教えに留まっているなら、という条件があります。そして、留まっているなら、私たちは32節「真理」を知り、真理は私たちを自由にするということです。 では、真理とは何でしょうか。聖書の言う真理は、難しい哲学的思索を究めて、漸く達することのできる高遠な道理とか神秘的な奥義といったものではありません。もっと実践的で命の通った温かいものです。すなわち、万物を創られた真の神のこと、それと私たち罪人に対する神の愛による救いに関する神の御心(みこころ)のことです。 もう少し言いますと、利己的な罪のために神から離れ、そのままでは永遠の死に至る私たちが、救い主イエスを心から信じることで、罪を全て赦され、神の子とされ、神と共にこの世でも彼(か)の世でも、真(しん)に生きる者とされるという、いわゆる福音のことです。 では、イエスの言葉に留まって真理を知るなら、何故私たちは自由になるのでしょうか。 私たちは、私たちを真に生かし導く絶対的なものを知りませんと、どうしても他のものに捉われ、縛られてしまいます。けれども、私たち一人一人をご計画をもって造られた真の神とその清い御心、特に愛と憐れみをもって神がプレゼントして下さった御子イエスを心から信じることで与えられる永遠の救いを知りますと、必然的に私たちは空しいものから自由になります。本物を知ると、人はそうでないものを見抜き、そこから自由になりますね。イエスは言われます。32節「真理はあなた方を自由にします。」 そこで、イエスの言葉、つまり聖書の福音に留まる信仰者に神が下さる自由について、少し具体的に見たいと思います。 第一に、この世の無意味な因習や慣習、迷信、また薄っぺらな価値観や人生観からの自由があります。Ⅰペテロ1:18に「先祖伝来の空しい生き方」という表現があります。実際、私たちには、幼い時から周りの人に「これは昔からの大切なものだ」と言われ、そこでよく調べることも考えることもなく、ただそう思い込んでいるものも少なくないと思います。中にはお粗末なものもあります。 日本では常識で当然と言われていることでも、世界ではそうでないものもあります。 もっと卑近なことを言いますと、ご利益を謳い(うたい)文句とするような宗教とか占い、また富や地位、名声、権力、権威、学歴、快楽や欲望の虜(とりこ)となる人もいます。これらが満たされませんと、欲求不満や苛立ちを起し、満たされたら満たされたで、奢り高ぶりの虜となります。何と不自由で不幸なことでしょう。 しかし、私たちをお造りになり、今日まで生かして下さった真(まこと)の神を知り、何が神の喜ばれる真(しん)に価値あるもので、何が神の嫌われるものであるかを聖書から知りますと、私たちは自ずと空しいものや無意味なことから、徐々にでも離れて自由になります。何と感謝なことでしょう。 第二に、自分自身からの自由があります。私たちは案外、自分について自分が抱く先入観や固定観念、思い込みなどに捉われ、自我というか自分自身に縛られ、自分を窮屈にし、不幸にしていることがないでしょうか。自分で設けた基準に自分が達していないと落ち込み、やたら人と比べて卑屈になり、劣等感を抱き、逆に何故か自分を優秀と思い込んで愚かにも優越感に浸り、そのために自分で自分を駄目にする人もいます。 しかし、私たちの一切をご存じの神の御言葉(みことば)・聖書を鏡として自分を見つめ、慈しみに満ちたイエス・キリストの前に居続けますと、頑なな自我や劣等感、優越感、自分についての思い込みからも徐々に解放され自由になります。 もう一つ言いますと、苦しい罪意識からの解放という本当に嬉しい軽やかな自由をイエスは信仰者に与えて下さいます。私たちには、人に知られず、また人には言えませんが、過去に自分が犯した過ちや罪が多かれ少なかれあり、それを思い出すと胸がキューッと痛むということがないでしょうか。恥ずかしくて情けなくて辛い。それが無意識にも自分の心に重しとなり、色々なことにネガティヴ(消極的、否定的)になる。 これが全て悪いのではありません。罪意識や良心の痛みが心の奥にあり、そのために色々なことで自分にブレーキをかけることは悪くありません。しかし、それが度を越しますと、苦しい喜びの少ない人生となります。不幸ですね。 しかし、イエスの言葉に留まりますと、神の愛と赦しに満ちた明るい福音の光の中で、私たちは自分を見つめさせて頂けます。そうです。イエスは私たちの救いのために十字架でご自分の命を献げ、私たちのあらゆる罪を償って下さいました。その救いの力は、全世界を救って余りある程豊かで、イエス・キリストを心から信じ、受け入れて、なお赦されない罪などありません。 悪いことをして心が重苦しい幼い子供が、親から「~ちゃん、分ったよね。だから、もういいよ!赦して上げる!」と優しく言われたら、どんなに嬉しく、心が軽くなることでしょうか!飛び跳ねたいぐらいです。 私たちも同じです。イエス・キリストへの信仰だけで私たちのあらゆる罪を赦して下さる神の絶大な愛を知る時、良心の痛みからも解放され、魂の素晴らしい自由を味わうことを許され、私たちは神から自分に与えられている良い点も生き生きと発揮できます。何と感謝なことでしょう! 第三に、人生最後で最大の問題である死の不安と恐怖からの自由があります。 死への不安と恐怖!それは結構私たちを縛っていて、私たちの生き方、考え方に影響を与えていると思います。 動物も本能的に死が怖いですので、抵抗します。しかし、人間はそれだけではありません。善悪を弁える倫理的、道徳的な者として造られた私たちは皆、死んだ後、自分の一生の行いを裁かれることを薄々感じています。実際、新約聖書のヘブル9:27は「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と言います。これは正に人生最後で最大の問題です。イヤだからといって、この事実から目を背け、他のもので気を紛らわしても意味がありません。 ですから、ここでこそ、ヨハネ8:31、32のイエスの言葉、「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」に注目したいと思うのです。 大事なことは、必ず迎える自分の死を直視し、けれども同時に、私たちをご計画によって造り、今日まで生かして下さった天の父なる神と、ただイエス・キリストへの信仰により私たちを永遠に救って下さる神の愛による福音、すなわち、真理をしっかり確認するのです。その時、死さえも奪うことのできない魂の自由を、私たちは体験することを許されるでしょう。 ヒトラーに抵抗し、1945年4月9日未明に処刑され、39歳で殉教したドイツ人の牧師D.ボンヘッファーが最後に語った言葉はこうでした。「これが最後です。私にとっては命の始まりです。」 20世紀最大の説教者の一人と言われ、ロンドンのウェストミンスター・チャペルで牧師を長年勤め、1981年2月28日に天に召されたM.ロイドジョーンズが、死の二日前に家族に述べた言葉はこうでした。「私の癒しのために祈るな。私が栄光に入るのを止めてはならない。」 色々な人から心ないことも言われ、でもイエス・キリストに導かれ励まされて、インドのコルカタで貧しい人たちに最後まで仕えたM.テレサは、どんなに自由だったでしょう。 そして使徒パウロは言いました。ピリピ1:21「私にとって生きるとはキリスト、死ぬことは益です。」何という自由でしょう。 「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」 イエス・キリストが、ご自分の言葉に留まる者に与えて下さる、この世が与えることも奪うこともできないこの幸いな自由に、是非、ご一緒に与りたいと思います。そして神から、暫くの間、預かっています大切な命を、イエス・キリストに励まされて、神と人のために自由に喜んで使い、天の父なる神にますます喜ばれる者へ変えられて行きたいと思います。 関連する説教を探す 2022年の日曜朝の礼拝 『ヨハネによる福音書』
「真理は私たちを自由にする」と題して、ひと時、お話させて頂きます。
時々、次のように言う方がおられます。「私は、キリスト教は多くの宗教の中では良い方だと思うけれど、クリスチャンになると、何かと拘束され、不自由になりそうだから、私はやめておく。」
実は、私もクリスチャンになる前はこれに近かったと思います。「洗礼を受けてクリスチャンになると、どうも考え方や生き方が狭くなるように思える。キリスト教の教えと生き方には魅力を感じ、正直な所、心を引かれる。しかし…。」これが、イエス・キリストを救い主として受け入れる前の私でした。
しかし、これは私の思い過ごしであり、誤解でした。20歳で洗礼を受け、クリスチャンになって54年が過ぎましたが、少なくとも私に関する限り、本当に自由です。むしろ、とても自由になったと心から感謝しています。お読みしましたヨハネ8:32で、神の御子イエスが言われた通りです。
無論、ここでイエスが言われる自由は、何でも自分の思い通りにできるという意味ではあります。そもそも好き勝手に罪深いことや利己的で無責任なこともできる自由などは、自由の名に値しませんね。論外です。
それと、イエスは31節で「私の言葉に留まるなら」と言われます。すなわち、私たち人間を創り主なる真(まこと)の神に立ち返らせる救い主イエス・キリストを証しするその聖書の教えに留まっているなら、という条件があります。そして、留まっているなら、私たちは32節「真理」を知り、真理は私たちを自由にするということです。
では、真理とは何でしょうか。聖書の言う真理は、難しい哲学的思索を究めて、漸く達することのできる高遠な道理とか神秘的な奥義といったものではありません。もっと実践的で命の通った温かいものです。すなわち、万物を創られた真の神のこと、それと私たち罪人に対する神の愛による救いに関する神の御心(みこころ)のことです。
もう少し言いますと、利己的な罪のために神から離れ、そのままでは永遠の死に至る私たちが、救い主イエスを心から信じることで、罪を全て赦され、神の子とされ、神と共にこの世でも彼(か)の世でも、真(しん)に生きる者とされるという、いわゆる福音のことです。
では、イエスの言葉に留まって真理を知るなら、何故私たちは自由になるのでしょうか。
私たちは、私たちを真に生かし導く絶対的なものを知りませんと、どうしても他のものに捉われ、縛られてしまいます。けれども、私たち一人一人をご計画をもって造られた真の神とその清い御心、特に愛と憐れみをもって神がプレゼントして下さった御子イエスを心から信じることで与えられる永遠の救いを知りますと、必然的に私たちは空しいものから自由になります。本物を知ると、人はそうでないものを見抜き、そこから自由になりますね。イエスは言われます。32節「真理はあなた方を自由にします。」
そこで、イエスの言葉、つまり聖書の福音に留まる信仰者に神が下さる自由について、少し具体的に見たいと思います。
第一に、この世の無意味な因習や慣習、迷信、また薄っぺらな価値観や人生観からの自由があります。Ⅰペテロ1:18に「先祖伝来の空しい生き方」という表現があります。実際、私たちには、幼い時から周りの人に「これは昔からの大切なものだ」と言われ、そこでよく調べることも考えることもなく、ただそう思い込んでいるものも少なくないと思います。中にはお粗末なものもあります。
日本では常識で当然と言われていることでも、世界ではそうでないものもあります。
もっと卑近なことを言いますと、ご利益を謳い(うたい)文句とするような宗教とか占い、また富や地位、名声、権力、権威、学歴、快楽や欲望の虜(とりこ)となる人もいます。これらが満たされませんと、欲求不満や苛立ちを起し、満たされたら満たされたで、奢り高ぶりの虜となります。何と不自由で不幸なことでしょう。
しかし、私たちをお造りになり、今日まで生かして下さった真(まこと)の神を知り、何が神の喜ばれる真(しん)に価値あるもので、何が神の嫌われるものであるかを聖書から知りますと、私たちは自ずと空しいものや無意味なことから、徐々にでも離れて自由になります。何と感謝なことでしょう。
第二に、自分自身からの自由があります。私たちは案外、自分について自分が抱く先入観や固定観念、思い込みなどに捉われ、自我というか自分自身に縛られ、自分を窮屈にし、不幸にしていることがないでしょうか。自分で設けた基準に自分が達していないと落ち込み、やたら人と比べて卑屈になり、劣等感を抱き、逆に何故か自分を優秀と思い込んで愚かにも優越感に浸り、そのために自分で自分を駄目にする人もいます。
しかし、私たちの一切をご存じの神の御言葉(みことば)・聖書を鏡として自分を見つめ、慈しみに満ちたイエス・キリストの前に居続けますと、頑なな自我や劣等感、優越感、自分についての思い込みからも徐々に解放され自由になります。
もう一つ言いますと、苦しい罪意識からの解放という本当に嬉しい軽やかな自由をイエスは信仰者に与えて下さいます。私たちには、人に知られず、また人には言えませんが、過去に自分が犯した過ちや罪が多かれ少なかれあり、それを思い出すと胸がキューッと痛むということがないでしょうか。恥ずかしくて情けなくて辛い。それが無意識にも自分の心に重しとなり、色々なことにネガティヴ(消極的、否定的)になる。
これが全て悪いのではありません。罪意識や良心の痛みが心の奥にあり、そのために色々なことで自分にブレーキをかけることは悪くありません。しかし、それが度を越しますと、苦しい喜びの少ない人生となります。不幸ですね。
しかし、イエスの言葉に留まりますと、神の愛と赦しに満ちた明るい福音の光の中で、私たちは自分を見つめさせて頂けます。そうです。イエスは私たちの救いのために十字架でご自分の命を献げ、私たちのあらゆる罪を償って下さいました。その救いの力は、全世界を救って余りある程豊かで、イエス・キリストを心から信じ、受け入れて、なお赦されない罪などありません。
悪いことをして心が重苦しい幼い子供が、親から「~ちゃん、分ったよね。だから、もういいよ!赦して上げる!」と優しく言われたら、どんなに嬉しく、心が軽くなることでしょうか!飛び跳ねたいぐらいです。
私たちも同じです。イエス・キリストへの信仰だけで私たちのあらゆる罪を赦して下さる神の絶大な愛を知る時、良心の痛みからも解放され、魂の素晴らしい自由を味わうことを許され、私たちは神から自分に与えられている良い点も生き生きと発揮できます。何と感謝なことでしょう!
第三に、人生最後で最大の問題である死の不安と恐怖からの自由があります。
死への不安と恐怖!それは結構私たちを縛っていて、私たちの生き方、考え方に影響を与えていると思います。
動物も本能的に死が怖いですので、抵抗します。しかし、人間はそれだけではありません。善悪を弁える倫理的、道徳的な者として造られた私たちは皆、死んだ後、自分の一生の行いを裁かれることを薄々感じています。実際、新約聖書のヘブル9:27は「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と言います。これは正に人生最後で最大の問題です。イヤだからといって、この事実から目を背け、他のもので気を紛らわしても意味がありません。
ですから、ここでこそ、ヨハネ8:31、32のイエスの言葉、「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」に注目したいと思うのです。
大事なことは、必ず迎える自分の死を直視し、けれども同時に、私たちをご計画によって造り、今日まで生かして下さった天の父なる神と、ただイエス・キリストへの信仰により私たちを永遠に救って下さる神の愛による福音、すなわち、真理をしっかり確認するのです。その時、死さえも奪うことのできない魂の自由を、私たちは体験することを許されるでしょう。
ヒトラーに抵抗し、1945年4月9日未明に処刑され、39歳で殉教したドイツ人の牧師D.ボンヘッファーが最後に語った言葉はこうでした。「これが最後です。私にとっては命の始まりです。」
20世紀最大の説教者の一人と言われ、ロンドンのウェストミンスター・チャペルで牧師を長年勤め、1981年2月28日に天に召されたM.ロイドジョーンズが、死の二日前に家族に述べた言葉はこうでした。「私の癒しのために祈るな。私が栄光に入るのを止めてはならない。」
色々な人から心ないことも言われ、でもイエス・キリストに導かれ励まされて、インドのコルカタで貧しい人たちに最後まで仕えたM.テレサは、どんなに自由だったでしょう。
そして使徒パウロは言いました。ピリピ1:21「私にとって生きるとはキリスト、死ぬことは益です。」何という自由でしょう。
「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」
イエス・キリストが、ご自分の言葉に留まる者に与えて下さる、この世が与えることも奪うこともできないこの幸いな自由に、是非、ご一緒に与りたいと思います。そして神から、暫くの間、預かっています大切な命を、イエス・キリストに励まされて、神と人のために自由に喜んで使い、天の父なる神にますます喜ばれる者へ変えられて行きたいと思います。