魂の医者イエス
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 9章9節~13節
9: 9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「私について来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられた時、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちと共に食卓に着いていた。
9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなた方の先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
9:12 イエスはkぉれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
9:13 『私が喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」マタイによる福音書 9章9節~13節
今朝の聖書箇所は、福音書記者マタイがイエスの弟子にされた出来事を自分で伝えている所です。並行箇所のマルコ2:14以降やルカ5:27以降も参考にしながら、学びたいと思います。
9節「イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、『私について来なさい』と言われた。すると彼は立ち上がってイエスに従った。」
シリアとエジプトを結ぶ交通の要所カペナウムにローマ帝国は収税所を置き、通行税を取っていました。そこに座っていたマタイは、今までもイエスについて噂を聞き、興味を抱いていたかも知れませんが、「私について来なさい」とイエスに言われて彼は立ち上がり、きっぱり決意して従いました。何がそうさせたのでしょうか。
イエスはマタイを「見て」(9節)とあります。この言葉は「観察する、注目する」という意味のギリシア語です。イエスはマタイに注目し、そして「私について来なさい」と言われました。結局、イエスご自身が彼を変えたのでした。
これほど劇的ではありませんが、今の私たちクリスチャンも本質的には同じです。イエスについて幾らか知ってはいても、イエスに従う決断を最終的に促したのはイエスご自身であり、感謝なことに、本当は私たちもイエスに注目され、促され、ついに従う決意をしたのでした。何という恵みであり、光栄でしょうか。従って、私たちはまだまだ信仰の弱い者ですが、安心してイエスに従って行ってかまいません。
さて、マルコとルカによりますと、マタイは自分の家に他の取税人や罪人を大勢呼び、イエスは彼らと親しく食事をされました。所が、これが当時のユダヤ教正統派のパリサイ人たちの神経に障り、彼らは弟子たちを咎めました。11節「何故あなた方の先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか。」これを聞き、イエスは言われました。12節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」
ここに私たちは、魂の医者としてのイエスを教えられます。魂の医者とは、人類全体と自分の罪のために色々な点で苦しみもがく者を、造り主なる真の神との本来の平和で幸いな状態に回復させる者を言います。まさにイエスは魂の医者であられます。
この魂の医者イエスの特徴の第一は、消極面で言いますと、決して罪人を退けず、お見捨てにならないことです。
「取税人」は、当時ユダヤを支配していたローマ帝国の下請けとなって同胞のユダヤ人から税を徴収した上に、税を多く取って私腹を肥やす者もいたため、皆に大変嫌われていました。
「罪人」とは、ユダヤ教正統派のパリサイ人や律法学者の定めた宗教規則を守らず、あるいは守れなかった人たちを指します。そのため、皆から蔑まれていました。
どんな事情で取税人や罪人と呼ばれる者になったかは分りませんが、彼らはマタイに誘われてここへ来ました。人には分らない罪意識や良心の呵責があり、しかし、どうして良いか分らず、噂に聞くイエスに会い、イエスの話を聞きたくて、ここに来たのだと思います。
彼らのこういう魂の苦悩、痛みなどをパリサイ人たちは考えず、頭から汚れた罪人と決めつけ、自分が汚されないために近づきませんでした。しかし、旧約聖書をよく勉強し、一般のユダヤ人に教えていたパリサイ人たちも、実は魂の医者ではなかったでしょうか。でも彼らは、彼らから見て問題のない、いわば丈夫で健康な人たちだけを選ぶ医者でした。ですから、イエスは言われました。12節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。」
確かに非常に危険で感染力の強い病気の場合には、医者も安易に病人に近づいてはなりません。しかし、近づかなくて良いのではありません。防具で十分に身を包み、あくまで病人に近づきます。治療のためには近付かなければならないのです。
イエスはどうでしょうか。全く聖い神の御子イエスからご覧になれば、生れた時から原罪という腐敗した罪の性質を持ち、現実にも思いと言葉と行いにおいて日々罪を犯している私たちは皆、ゾッとするほど汚れた者です。けれども主は、父なる神の御心に従い、罪にまみれたこの世に来られました。MERSやSARS、新型コロナウィルス、エボラ出血熱などより遥かに危険で怖い「罪」という魂の病にかかり、でも、それが分っていない惨めな私たち罪人の真只中に来られました。
主は私たち罪人を憐れみ、ご自分から私たちに近付き、親しく交わられました。私たち罪人に仕え、最後は、私たちを恐ろしい魂の病、罪とそれがもたらした永遠の悲惨から救うために、十字架で自ら命を献げて下さいました。これがイエス・キリストというお方です。ですから、私たちクリスチャンも人を遠ざけず、むしろ人に近づき、親しく交わり、少しでも主の救いを証しさせて頂きたいですね。
第二に積極面で言いますと、魂の医者イエスの最大の特徴は、苦しむ病人への真実な愛にあります。
イエスは言われました。13節「『私が喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」二重鉤括弧の中は、旧約聖書のホセア書6:6の神の言葉、「私が喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」の引用です。「真実の愛」と訳されていますヘブル語ヘセドは、親切、好意、善意、慈悲、憐れみなどの意味を持ちます。要するに、儀式的・形式的なものではなく、神と人への愛、特に弱い人や苦しむ人への真実な愛をこそ、神は喜ばれるということです。
パリサイ人たちはどうか。規則に熱心で、動物犠牲を献げるなど儀式的なことには熱心でしたが、残念なことに、取税人など内面で苦しみもがく人たちへの思いやりや同情など、愛が欠けていました。知識と技術に長けていても、病人への愛がないなら、良い医者とは言えません。
イエスはどうだったでしょうか。罪のために神から離れ、そのままでは永遠に滅んでいく魂を求めて、主は朝から晩までどんなに教え、働かれたでしょうか。ガリラヤ、ユダヤ、サマリアなど、主はご自分の脚でどんなに歩かれたでしょうか。荒れ狂う嵐で沈みそうな舟の中でも眠るぐらい疲れ、枕する所もなく、私たち罪人の救いのために体も時間も献げて下さり、私たちをとことん愛して下さいました。
優しいだけとか、病人の言葉を聞いて言いなりになり、いい顔をするだけでは、良い医者とは言えません。本当に病人を愛する医者は、いやがられても、時に辛い治療もします。時々誤解されていますが、イエスは、ただ人の傍らで人の話に耳を傾けるひたすら優しいだけの方ではありません。時には厳しく鋭く、耳の痛いこともズバリ教えておられます。何のためでしょうか。私たちに自分の罪の病巣を自覚させ、それを根本から治療し、あるいは取り除き、完全に癒すためです。それは私たちを真に愛しておられるからです。これが魂の医者イエスです。
医者と言っても色々ですが、優れた良い医者に当ると、本当に幸せですね。クリスチャンには、今や神の御子イエス・キリストが魂の主治医、またホームドクター(家庭医)になって下さっています。何という幸いでしょう。私たちが諦めずに家族や友人、近所の方を教会に誘うのは、誰にとっても必要な魂の名医イエスを紹介し、是非イエスに会って頂きたいからです。
そこで最後に、魂の医者イエスに救われた人物を一人、ご一緒に見て終りたいと思います。誰でしょうか。この福音書を書いたマタイです。
第一に、彼は感謝に満ちた人になっていました。実はマルコやルカの福音書では、彼の名はレビとなっていますが、マタイ福音書だけがマタイとしています。名前を二つ持つのは昔のユダヤでは普通のことで、「マタイ」とはイエスが付けられたあだ名かも知れません。とにかく彼は、「神の贈り物」という意味のこのマタイという名を自分に使います。彼はイエスによる魂の救いという神の最高の贈り物の故に感謝の人となり、この名前に固執したのだと思います。
第二に、イエスのお蔭で彼は、文書をキチンと書ける取税人としての才能を、今度は福音書を書くことに生かせる者になっていました。クリスチャンになる前から与えられていた賜物を、まさに神の贈り物として、その後は、神の栄光と人の救いという最も尊い目的のために献げる人に変えられていたのでした。
第三に、彼は慎み深い謙遜な人になっていました。実はルカ5:28、29はマタイが「全てを捨てて立ち上がり」「盛大なもてなしをした」と伝えています。けれども、マタイ自身はこの福音書で、自分のそういう点には全く触れていません。
12使徒をイエスが選ばれたことを伝える10:3で、マタイは自分をあくまでも「取税人」マタイと書いています。自分のような取税人をも救って下さったイエスの例えようもない深い愛を伝えたいという、彼の謙虚さが表れています。
それと、四つの福音書には、マタイ自身の言葉は一つも書かれていません。彼は自己顕示欲などからは、ほど遠い、慎み深い、謙遜な人になっていました。彼こそ、魂の医者イエスに存在の根底から救われた人と言えると思います。
今朝、私たちは改めて魂の医者イエスを教えられます。安心してイエスを信じ、依り頼み、教会の定期的な礼拝や祈祷会などを通して、イエスから魂の定期健診や治療やアドバイスを頂き、皆で信仰を励まされ合って、地上の生涯を完成したいと思います。
またマタイのように、友人を家に招き、もてなし、あるいは手紙やメールで主イエスを少しでも紹介し、更にマタイのように、感謝の人であり、自分の賜物を神と人のために喜んで生かし、そして真に慎み深い謙遜な者に、一層変えられていきたいと願います。