2022年02月20日「嵐を静めるイエス」

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8:23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
8:24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けて下さい。私たちは死んでしまいます」と言った。
8:26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
8:27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」マタイによる福音書 8章23節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の聖書箇所は、イエスが周りにいる群衆を見て、弟子たちに向う岸へ渡るように命じられた18節の続きです。彼らは舟で湖へ出ました。そこへ嵐が襲いました。

 ガリラヤ湖は南北約21Km、東西約13Kmで、湖面は海面下212mの低い所にあります。そのため、北にある標高2814mのヘルモン山から冷たい空気が流れ込み、また切り立った崖の多い東側では冷たい空気が急降下して湖の温かい空気と衝突し、時々嵐が起きるといいます。この時も湖は、24節「大荒れとなり、船は大波をかぶった。」

 そこで教えられる一つのことは、私たちがイエスを救い主と信じ、イエスに従い、イエスと共に歩んでいても、大きな試練に遭うということです。

 イエス・キリストを信じるなら、一切問題は起らず、全て巧く行くなどと、安っぽいご利益宗教のようなことを聖書は教えません。イエスを信じ、イエスがそばにおられても、嵐に見舞われることがあるのです。19~22節は、軽い気持でイエスに従おうとした人と、イエスに従うことを先延ばししようとした人を、イエスが諭されたことを伝えていました。しかし、弟子たちは心からイエスに従い、イエスから離れませんでした。ところが、そんな彼らでも嵐に襲われ、波に呑み込まれそうになったのです。しかも彼らの内、数名は漁師でしたのに、この嵐には手も足も出ませんでした。私たちの体験や専門知識、専門能力を遥かに超える試練も襲うのです。

 このことをまずよく心に留め、大きな試練に襲われても、「そうだ。主イエスを信じ、イエスと共にいた弟子たちにも試練は襲った。だから、大変なことが起ったからといって、私はすぐ大騒ぎしてはならない」と、私たちは自分に教え、すぐ神を疑うとか信仰を投げ出すようなことをしてはならないのです。

 二つ目は、嵐や荒れ狂う波など、大自然の脅威をも含む大きな試練も、皆、神の摂理の下にあり、主の支配下にあることを固く心に留めることです。

 弟子たちは動転し、25節「近寄ってイエスを起して、『主よ、助けて下さい。私たちは死んでしまいます』と言った。」並行記事のマルコ4:38によりますと、彼らは「先生、私たちが死んでも、構わないのですか」とまで言いました。それ位、自分を失っていました。

 そこでイエスは言われました。26節「どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち。」そして起き上がり、風と湖を叱りつけられますと、すっかり凪になりました。風が静まっても、波が静まるには時間がかかります。水のエネルギーは、空気のエネルギーより遥かに大きいからです。しかし、この時は風も波もすぐ収まり、凪になりました。イエスの力は完全でした。

 自然界も神の支配下にあります。旧約聖書の出エジプト記14章が伝えますように、神はかつてイスラエルをエジプトから救い出すために葦の海の水を分けられました。またヨシュア記4章が伝えますように、神はイスラエルのためにヨルダン川を堰き止められました。古代人にとって、水は一番支配できないものでしたが、イエスはこれをも完璧に支配されます。イエスがまさに神の力を持つお方であることを、嵐を静めるこの奇跡は雄弁に証ししています。26節「それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。」

 主イエスの御心、御許しがなければ、どんな嵐も起きない!木の葉1枚、私たちの髪の毛1本、地に落ちない!改革派神学者でオランダの首相も務めたアブラハム・カイパーが1880年10月20日、アムステルダム自由大学の開校講演で語りましたように、地球上にキリストの主権が及ばない所など、1インチたりともないのです。

 イエスはどんな嵐や試練であろうと、その強さも長さも支配しておられます。天と地の一切の権能を父なる神から授けられたイエスの力を、改めて固く心に留めたいと思います。

 そこで第三点に進みます。何を教えられるでしょうか。私たちの信仰を大きくすることの大切さです。イエスは言われました。26節「どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち。」

 「薄い」と訳されているギリシア語は、「小さい」というのが本来の意味です。信仰にも大きさがあるのです。8:1以降で見ましたように、イエスは重い病気の人や百人隊長の僕(しもべ)、高熱で寝ていたペテロの姑、病人や悪霊に憑かれた人たちを皆癒され、弟子たちはイエスの力を十分信じることのできる状況にいました。しかし、恐怖のために自分を失いました。信仰を全く失っていたのではありません。ただ小さかった。ですからイエスは、「何故怖がるのか。信仰の小さい者たち」と言われました。信仰はある。だが、小さいため、彼らは恐怖に負けてしまいました。

 信仰は大きくする必要があります。でも、どうすれば大きくできるのでしょうか。

 一つは、神の摂理に対する徹底した認識と信頼です。

 興味深いことに、こんな嵐の中でもイエスは24節「眠っておられた。」連日連夜、主は福音を語り、大勢の病人を癒して疲れ切っておられたのでしょう。しかしそれ以上に、一切が天の父の支配下にあるという確固たる認識と信頼を持っておられたから、この状況でも眠れたのだと思います。そしてここに私たちの信仰を大きくする秘訣の一つがあります。

 信仰は、ただ「大きくなれ」と心の中で念じても大きくなりません。全被造物が父なる神またイエス・キリストの支配下にあるという神の摂理についての明確な認識と徹底した信頼こそが、その秘訣です。

 神の摂理について、あの厳しい宗教改革時代の1563年に作られたハイデルベルク信仰問答の問27、28を見ておきます。大変励まされます。

「問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。

 答 全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地と全ての被造物を、いわばその御手をもって、今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊  作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、全てが偶然によることなく、父親らしい御手によって、私たちにもたらされるのです。

 問28 神の創造と摂理を知ることによって、私たちはどのような益を受けますか。

 答 私たちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については、私たちの真実な父なる神を固く信じ、どんな被造物もこの方の愛から私たちを引き離すことはできないと、確信できるようになる、ということです。何故なら、あらゆる被遣物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは、動くことも動かされることもできないからです。」

 私たちはいつか死にます。予想もしない時に突然死ぬこともあります。しかし、それも御子を賜った程に私たちを愛しておられる神の摂理の中でしか起りません。ですから、パウロはこう語ることができました。ローマ8:38、39「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 信仰を大きくする秘訣の二つ目は、助けを求めてイエス・キリストにハッキリ「叫ぶ」ことです。弟子たちの信仰は小さかった。しかし、彼らはその小さな信仰により、イエスに叫びました。それしかできなかったとも言えます。でも彼らは、他でもないイエスに叫びました。そばで眠り、彼らのことに何も気付いておられないように見えるイエスを起し、イエスに叫び、イエスにすがった。これが大事なのです。

 旧約聖書の詩篇35:23でも作者は神に叫びました。「奮い立って下さい。目を覚まして下さい。」目を覚まし起きて下さいと神に訴え叫ぶ祈りは、詩篇に多く見られます。叫ぶとは、私たちが全身全霊を傾けて訴えることです。何と大切でしょうか。そして実は、主イエス・キリストご自身も叫ばれたのでした。ヘブル5:7「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向って、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを献げ、その敬虔の故に聞き入れられました。」ですから、私たちも神に、主イエスに、本当に叫ぶのです。

 小さな信仰でもそれを使い、主に叫び、訴える!諦めない!すると主は応えて下さる。

 信仰は急には大きくなりません。けれども、既に与えられている信仰を使うのです。信仰は使わないと成長しません。信仰は使うために与えられています。ですから、嵐の中でモミクチャにされ、パニックの中からでも良い。イエスに願い、神に叫ぶのです。出エジプトの時も、イスラエルの民の叫び声を神が聞かれたことを、出エジプト記2、3章は伝えています。

 眠っておられるように思えても、私たちを愛してやまない主は、実は私たちの叫びや呼び掛けを待っておられます。そしてご自分の方法でお応えになります。その積み重ねが、私たちの信仰を大きくし、逞しいものに成長させるのです。このようにして、パウロもピリピ1:20、21「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です」と言える者にされました。

 是非、信仰を大きくされ、私たちの内と外に起るどんな嵐をも静めることのおできになるイエス・キリストの愛と救いの力と平安に、ますます皆で支え合って与れるようになりたいと思います。自分のためにも、また今、辛い試練の中で苦しみ、もがき、自分を失っている方々のために、是非、叫びたいと思います。

 詩篇107:28~30を読んで終ります。「この苦しみの時に、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から導き出された。主が嵐を鎮められると、波は穏やかになった。波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。」

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