2022年02月13日「主イエスに従う」

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8:18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。
8:19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生、あなたがどこに行かれても、私はついていきます。」
8:20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人に子には枕するところもありません。
8:21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ、まず行って父を葬ることをお許し下さい。」
8:22 ところが、イエスは彼に言われた。「私に従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」マタイによる福音書 8章18節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイ8:18~22の箇所から、全世界の救い主、神の御子イエス・キリストに従う弟子としての覚悟について学びたいと思います。

 18節「さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。」福音を語られ、病人や悪霊に苦しむ人たちを皆癒されたイエスを群衆は囲み、よく考えてみれば、これは伝道の絶好のチャンスです。所が、イエスは弟子たちに、ガリラヤ湖の向こう岸に渡るように命じられました。どうしてなのでしょうか。

 第一にイエスには、もっと色々な所で、多くの人に福音を伝えたいという思いのあったことが考えられます。

 前回、イエスがカペナウムでペテロの姑などを癒されたことを見ました。その翌日、マルコ1:35は、イエスが朝早く起きて寂しい所で祈っておられると、弟子たちが追ってきて、「皆があなたを捜しています」と言い、これに対してイエスが「近くにある別の町や村へ行こう。私はそこでも福音を伝えよう。そのために私は出てきたのだから」と答えられたことを伝えています。うまく行きそうな所だけでなく、もっと色々な所で福音を伝え、多くの人に救われてほしい!これが主イエスの思いでした。そのイエスに従って伝道したパウロも言いました。ローマ15:20「キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。」常に色々な所でもっと多くの人に!伝道への非常に大切な姿勢を教えられます。

 しかし第二に、イエスご自身と弟子たちの休息のために、ということも考えられます。

 安息日もその翌日もまたその翌日も働き詰めのイエスは、二性一人格の教理の通り、真(まこと)の神にして真の人でもあります。従って、イエスには当然肉体の限界があり、また弟子たちの疲れ具合もご存じです。ですから、次々と押しかけてくる群衆を離れ、ご自分と弟子たちのために休息を取ろうとされたことも十分考えられます。

 マルコ6:31によりますと、弟子たちの宣教活動報告を受けた後、イエスは「さあ、あなた方だけで、寂しい所へ行って、暫く休みなさい」とおっしゃっています。

 クリスチャンは、主イエスに倣い、必要とあれば、体の限界まで働き、人に仕え、奉仕もします。しかし、それだけが弟子のあり方ではありません。頑張るだけで自分を労(いた)わることを知りませんと、人をも本当の意味で労ることができず、尊い働きや奉仕もより良い状態で続けることができません。

 この時、イエスはどちらのお考えだったのか、それとも両方だったのか。それは分りません。いずれにせよ、私たちも、回りの状況と自分の状態を客観的に冷静によく考え、その時々でより適切と思える方を選び、福音に生きる!これも主イエスに従うことに含まれると思います。

 さて、移動しようとしますと、ある律法学者が来て、19節「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と言いました。これは嬉しい申し出ですね。所がイエスの返事は、20節「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と、どこか素っ気ない感じもします。

 「人の子」とはイエスご自身を指し、「枕する所も」ないとは、楽ではないということです。「こんな私に従う覚悟が、あなたにあるか」とイエスは言われます!しかし、これでは気持を削がれるかも知れませんね。

 この人は、偉い先生たちから旧約聖書をいっぱい学んで来た律法学者でした。彼らの間で、イエスは段々危険人物と見られるようになっていました。そんな中でイエスの弟子になるというのですから、彼には強い覚悟があったと思われます。しかし、主の返事は素っ気ない感じがします。どういうことなのでしょう。

 第一に、彼のイエス理解は、律法学者としてのものに留まっていたと言えるでしょう。彼はイエスを「先生」と呼びます。8:1以降を振り返りますと、重い病の人も百人隊長も、イエスを「主」と呼びました。最高の表現です。しかし、この人は違います。人間を超えたお方というより、律法学者という自分の経験の枠の中でイエスを見、そこでの優れた「先生」という理解に留まっていました。

 その道の専門家だという自負心が強いと、人は往々にしてこうなり易いのかも知れません。しかし、イエス・キリストについては、自分の経験の枠を超えた開かれた心が不可欠です。

 第二に、彼は十分に熟慮した末に決心したのではなかったようです。群衆から離れようとされるイエスを見て、すぐ近寄ってきたからです。

 イエスはクリスチャンをどう描いておられたでしょうか。マタイ5:11「私のために人々があなた方を罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びる時、あなた方は幸いです。」7:13、14「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。命に至る門は何と狭く、その道も何と細いことでしょう。そして、それを見出す者は僅かです。」10:21「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子供たちは両親に逆らって立ち、死に至らせ」ると、肉親でさえクリスチャンを迫害し、死に至らせることがあると言われます。

 無論、イエスに従う人生には、最後には何物にも代えがたい永遠の祝福があり、神と共に生きる栄光の天の国が待っています。とはいえ、そこに至るまでは、この世が罪の下にあり、私たち自身にも罪の性質があるため、苦難は避けられません。イエスは言われました。ヨハネ16:33「世にあっては苦難があります。」

 律法学者がイエスに従おうとしたこと自体は、尊いことです。しかし、それに伴う厳しさの認識は甘く、熟慮した決心ではありませんでした。私たちも改めて心の帯を固く締め直したいと思います。

 第三に、彼は結構自信家だったようです。彼は「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と言い切りました。裕福な家で教養ある律法学者に育ち、実際、彼には能力があったかも知れません。しかし、どんな根拠があって、自分はどこへでも従う、などと言えるでしょうか。

 「どこでも、いつでも、何でも」と、人は時々大げさに言います。しかし、自分の罪と弱さを本当に知る者は、こういうことは言えません。

 彼の弱点と問題点をイエスは即座に見抜き、そこで、「私に従うとはどんなことか分っているのか」と問われたのでした。20節「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

 無論、これは彼を退けるためではありません。彼を愛するからこそ、十分な覚悟と決意の上でクリスチャン生活を始めさせ、神の祝福を真(しん)に体験させたかったのでした。イエスの厳しさは、いつでも私たちのため以外の何ものでもありません。

 さて、次に逆のケースが伝えられています。21節「別の一人の弟子がイエスに言った。『主よ。まず行って父を葬ることをお許し下さい。』所が、イエスは彼に言われた。『私に従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。』」

 この人は既に弟子でした。しかし、イエスがここを去られるというので、ある理由から暫く自分を自由にさせてほしいと言いました。これに対してイエスは、律法学者の時とは逆に、「私に従って来なさい」と言われました。

 こういう正反対で一見矛盾しているとも思える御言葉は、旧約聖書の箴言など、聖書の色々な所に見られます。ですから、どんな場合で、誰に言われているか、をよく見極め、御言葉の適用を間違えないように注意したいと思います。

 さて、イエスの言い方は厳しく、冷たいようにも思えます。事は父親の葬りに関わります。実は彼の父親は、まだ死んではいなかったのです。

 

 改めて言うまでもなく、旧約聖書は両親を大切にせよと教えます。所がユダヤでは、人間の作った儀式や習慣が段々重要視されるようになりました。そして普段は親を大事にしていませんのに、親の死や葬儀となると、急に世間の常識やしきたりなどに捉われ、またそれらを強く主張する。こういう人が、今の日本でも少なくありません。

 細かい説明は省きます。要するに、この人は「父が死んで自由になったら、私はあなたに従います」と言い、イエスに従うことを先に延ばそうとしたのでした。ですから、イエスは即座に22節「私に従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」と言われました。ここで言われる「死人たち」とは、神の教えより、人間の作った規則や習慣や儀式をやたら重んじ、神から離れ、霊的に死んでいるこの世の人を指します。「あなたは、父親がいつ死ぬか分らないのに、今から葬式のことを考え、神の前に最も大事なことを先送りしようとしている。そうではなく、今始めなさい。死者の葬りに関する習慣にうるさく、そういうものをすごく重んじ、そこに意義を感じている人たちがいる。それならば、それは彼らに任せれば良い」とイエスは言われるのです。

 これは、今の私たちも考えるべきことだと思います。特に親の死と葬儀関連のことには、普段は信仰心のない人たちまで色々口を出し、面倒で厄介な場合があります。

 しかし、案外、私たち自身の曖昧さや姿勢の弱さがある時も多いのではないかと思います。早くから「どうしよう」と心配ばかりし、真の神への姿勢を「いつか自由になったら」と先延ばしすることはないでしょぅか。しかし、困難を避けて覚悟や決意を先延ばししても、また新たな問題が起るかも知れないのです。

 無論、事は簡単ではありません。しかし、こんな私たちの罪と弱さをも背負い、私たちに永遠の天の国を只信仰により与えるために甦られた主を仰ぎ、祈って、聖霊による力と勇気を頂き、御国への道を是非、皆で知恵を出し合い、助け合って進んで行きたいと思います。

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