2022年02月06日「私たちの苦痛を負うイエス」

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私たちの苦痛を負うイエス

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章14節~17節

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聖句のアイコン聖書の言葉

8:14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人々を、大勢みもとに連れて来た。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。
8:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
   「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」マタイによる福音書 8章14節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の聖書箇所は、ペテロの姑、また悪霊に取りつかれた大勢の人や病人を癒されたイエスの御業(みわざ)を伝えています。ここから私たちはどんなことを教えられるでしょうか。

 第一は、何と言っても、神の御子イエスの完璧な癒しの力です。

 イエスは、ガリラヤ湖北岸の町カペナウムにあるペテロの家へ行かれました。この場面をマルコ福音書1:29以降とルカ福音書4:38以降も伝えています。それらの並行記事によりますと、イエスは安息日の礼拝のために会堂へ行かれました。そこで汚れた霊につかれた人から霊を追い出し、その後、ここに来られました。昔のユダヤでは、安息日礼拝の後、人々は自分の家に人を招き、食事や交わりをすることがよくあったそうです。イエスもペテロ夫妻に招かれてここに来られたのでしょう。

 ところが、折角イエスが来られたその日、ペテロの姑は熱を出して寝込んでいました。ルカ4:38は「ひどい熱に苦しん」でいたと伝えます。ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込むこの辺りでは、マラリヤ蚊がよく発生したそうです。マラリヤに罹っていたとすれば、彼女は高熱で何日も食べられず、体力を失い、寝込んで足腰も弱っていたでしょう。

 しかし、15節、イエスが彼女の手に触られると熱が引き、彼女は「起きて」イエスをもてなしたのでした。熱が下っただけでもすごいことですのに、その上、体力が落ち、何日か寝込んでいた彼女が起き上がった!ルカ4:39によりますと、彼女は「すぐに」起き上がりました。イエスの癒しは完璧でした。

 更に感謝なことに、彼女は心まで癒されたと言えます。起き上がって、何と彼女は15節、早速「イエスをもてなした」のでした。ここには彼女の娘もいます。病み上がりの彼女がイエスをもてなす必要はありません。でも、彼女はそうしました。彼女は夫に先立たれ、娘の夫、ペテロに呼ばれて同居していたのかも知れません。そうだとしますと、娘夫婦に迷惑をかけまいと、いつも気を遣っていたでしょう。それなのに病気で寝込んでしまい、随分心苦しかったと思います。

 人は病気になりますと、肉体的、精神的、社会的、霊的な四つの痛みを抱えます。彼女もそれらを抱え、気持が塞いでいたとしても変ではありません。でも、彼女はすぐイエスをもてなしました!余程、嬉しかったのでしょう。嬉しさと神への感謝から、そうしないではおれなかったのだと思います。その意味で、彼女は心も癒され、イエスの癒しは完全でした。

 ここにはまた、今の私たちも大切なことを教えられます。医療により多くの病気が治りますが、本当は医療と人間の治癒力を用いて、神が癒されるのです。ですから、病気が治ったからといって、神への感謝を忘れて好き放題に生きるなら、それは神の愛と慈しみを踏みにじることです。むしろ私たちは、癒された体をもって、Ⅰコリント10:31が言いますように「食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すために」生きる者で、是非、ありたいと思います。

 神の御子イエスは、私達の体と心と魂という全人の救いと癒しのために、この世に来られました。従って、そのイエスへの信仰により永遠の命の祝福に与っている私たちも、自分の体を一層よく管理し、そうしてペテロの姑のように喜んで主イエス・キリストに、また人に仕える者でありたいと思います。

 今日教えられるもう一つのことは、イエスの愛です。

 16節「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢、み許(みもと)に連れて来た。イエスは言葉をもって悪霊どもを追い出し、病気の人々を皆癒された。」

 安息日に礼拝を献げた後、人々は家でくつろぎ、或いは人と交わり、神を喜びつつ過ごすことが中心でした。ところが、紀元1世紀のユダヤでは、ユダヤ教の専門家ラビたちの作った色々な規則が旧約律法に付け加えられ、安息日は何もしてはならない日になっていて、皆じっとしていました。

 当時のユダヤでは、夕方から夕方までが一日でした。そこで16節「夕方」となり安息日が終りますと、人々は、この時とばかり、悪霊につかれて苦しむ人や病人をイエスの許にいっせいに連れてきました。マルコ1:33は「町中の人が戸口に集まって来た」と伝えます。

 悪霊つきは、紀元1世紀にはよく見られた現象でした。イエスの救いの力をより鮮やかに示すために、神は悪霊の活発な働きを暫く許されたのでしょう。

 イエスは16節「言葉」をもって悪霊を追い出し、病人を皆癒されました。興味深いことに、マタイはこれを17節「預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『彼は私たちの患いを担い、私たちの病を負った。』」とまとめています。17節の括弧内はイザヤ53:4の引用です。イザヤ53章は旧約聖書の中でも最も不思議な箇所の一つで、将来現れる救い主、神の御子イエス・キリストを預言しています。53章全体を見ますと、人々に苦しめられ、殺され、葬られる「苦難の僕(しもべ)」としての主イエスを、何百年も前に、よくぞ見事に預言できたものだと驚きます。その中の53:4がここに引用されます。「彼は私たちの患いを担い、私たちの病を負った。」

 御霊に導かれて、マタイは何を伝えたいのでしょうか。神の御子イエスが私たち罪人に対して、どんなに慈愛に満ちたお方かということです。マタイは、苦しむ大勢の病人へのイエスの癒しの中に、本来は私たち罪人に臨むはずの神の怒りと呪いを、私たちに代って全て引き受けて下さったイエスの十字架の苦難と死の一部を見たのです。

 病気は、人間が自分の罪のために必ず死ぬことの予兆と言えます。その病をイエスが癒されたということは、私たち罪人のための十字架を、もうこんな時点から担っておられたということなのです。「彼は私たちの患いを担い、私たちの病を負った。」主は、その生涯の全てにおいて私たちの罪故の苦痛を負って下さっていたのです。

 それと同時に、その病気をイエスが癒された事実は、病気の根本原因である罪とその結果である永遠の死からも、確かにイエスが私たちを救えるお方であり、十字架のイエスの無限の愛をも、もう表していたのでした。

 そこで最後にイエスの愛を少し具体的に見て終りたいと思います。

 注目したいことの一つは、イエスの眼差しです。高熱で寝ていたペテロの姑を、イエスは14節「ご覧になった。」ここの「ご覧になる」は、「観察する、よく知る」という意味のギリシア語です。イエスは苦しむ彼女を、深い愛をもってよくご覧になったのでした。

 人間は、関心のない人や嫌いな人には目を向けようともしません。しかし、関心を寄せる人や愛する大切な人はしっかり見つめ、よく知ろうとします。目は愛と関心を表します。主イエスはまさにペテロの姑を、愛をもってご覧になったのです。そしてその主の眼差しは、気付きさえすれば、実は私たち一人一人にも注がれているのです。そのことを、旧約時代の信仰者も、感謝して神にこう告白していました。詩篇139:3「あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道の全てを知り抜いておられます。」この主イエスの眼差しを私たちも決して忘れることなく、信仰を励まし合いたいと思います。

 注目したいもう一つは、イエスの手です。イエスは15節、彼女の「手に触れられ」ました。マルコ1:31は、イエスが「手を取って起こされた」と伝え、ルカ4:40は大勢の病人の一人一人にイエスが「手を置いて癒された」と伝えます。人間は、嫌いな人には手も触れません。けれども、大切な人には手を伸ばし、手で触れます。手は私たちの愛と関心を表しています。神の御子イエスは、言葉だけで人を癒せる方ですが、場合によっては、敢えて手を伸ばし、手で触れて、人を癒されます。ここにも主の温かい愛がよく表れていると思います。

 そして実は、私たちが気付きさえすれば、主は私たちが病気や色々なことで苦しむ時、目には見えませんが、今も手を差し伸べて下さっています。先程の詩篇139:5で、作者は神にこう歌いました。「あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。」

 ご存じのように、病人のお世話をする看護や看取りの「看」という漢字は、手と目という字から成っています。こうして見ますと、人に寄り添う時の大切な眼差しと手について、神は遥か昔から教えておられたことが分ります。

 様々な問題に押し潰されそうになることの多い私たちです。その最も辛いものの一つは重い病気ですが、病気だけでなく私達がひどく弱っている時、温かい眼差しと温もりのある手は、どれ程、私たちを励まし、慰め、力付けることでしょう。また、そこに言葉、特に真実な祈りの言葉があるなら、どんなに感謝なことでしょうか。

 私たちを罪と永遠の死から救うために、2千年前、十字架で命を献げて下さった主イエスは、復活して今、天の父なる神の右で私たちのために、永遠に生きておられます。

 現代医学を如何に駆使しても、私たちは必ずいつか死に、神の法廷に立ち、裁きを受けます。けれども、主イエス・キリストを心から信じる者は、本当にあらゆる罪を赦され、神の子とされ、主と共に、また愛する兄弟姉妹たちと共に、永遠に愛と感謝と賛美の内に生きることを許されます。今朝、私たちは、私たちのために永遠に生きておられるこの主イエスを、改めてしっかり仰ぎたいと思います。また、病を初め、辛い試練の中におられる方々を覚え、私たちも主に倣って、温かい眼差しと手、また言葉、特に真実な祈りをもって、苦痛の一端をでも担わせて頂き、是非、信仰を励まし合う者とされたいと思います。

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