2022年01月30日「日々、互いに信仰を励まし合おう」

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日々、互いに信仰を励まし合おう

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
ヘブライ人への手紙 3章12節~15節

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3:12 兄弟たち、あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
3:13 「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、誰も罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。
3:14 私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。
3:15 「今日、もし御声を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない。神に逆らった時のように」と言われているとおりです。ヘブライ人への手紙 3章12節~15節

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 今日は午後、定期会員総会を開く予定でしたので、説教では今年の教会標語について話そうと考えました。コロナ感染者が増え、会員総会は延期しましたが、説教ではそのまま今年の教会標語を扱います。客員や求道者の皆様にも、心に留めて頂ければと思います。

 今お読みしましたヘブル3:13は、「『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、誰も罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」と言います。標語はここから取り、「教会設立を目指して-日々、互いに信仰を励まし合おう-」にしました。

 当伝道所はずっと教会設立を目指して来ました。長老たちを選出し、長老と牧師とで成る小会と呼ぶ会議で、教会運営全般を聖書と教会規定に則って正しく行ない、長老も皆の魂のケアに関わり、また中会・大会にも出席し、広く多くのことに貢献します。教会設立とは、こういう目的で自律した教会になることです。

 しかし、コロナ禍で丸2年、学びを初め様々な準備の機会を失いました。無論、教会設立は目指します。しかし、今、神は何か大切なことを私たちに望んでおられるのではないかと考え、そこで最も基本的な信仰に的を絞り、それも特に信仰を励まし合うという点を取り上げたわけです。

 では、こうまで言う信仰とは何でしょうか。第一に三位一体の真(まこと)の神と特に御子イエスによる救いの御業(みわざ)・ご計画についての知識、第二に聖書全体に示された神の御心への服従もしくは従順の意志、第三にイエスを通しての神への心からの信頼が、信仰の基本的要素と言えるでしょう。

 これら全てを含む、ただイエス・キリストへの信仰により、私たちは罪を全部赦され、義とされ、神の子とされ、素晴らしい永遠の命に与る(あずかる)というのが福音です。また私たちは、信仰という土台の上に、自分の人格と人生全体を神に喜ばれるものとして、丁度家を建てるようにしっかり建て上げるのです。

 信仰が何かについては、これぐらいで終りますが、今朝特に覚えたいのは、この信仰をヘブル3:13が「日々互いに励まし合って」と言いますように、「励まし合う」ことの大切さです。

 何故励まし合う必要があるのでしょうか。今の言葉のすぐ後に「誰も罪に惑わされて頑なにならないように」とあります。今朝の聖書箇所の前後からも、私たちの経験からも分りますように、折角(せっかく)神から頂いた大切な信仰を弱らせ、駄目にしてしまう危険性が誰にもあるからです。

 歴史を振り返りますと、どんなに多くの人が信仰を痩せ衰えさせ、ついには失い、救いから落ちて行ったことでしょう。3:13は、その原因として「罪に惑わされて頑なに」なったことを指摘します。

 ここで忘れてはならないのは、サタン・悪魔のことです。Ⅰペテロ5:8は「あなた方の敵である悪魔が、吼え猛る獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回って」いると言います。サタンは、私たちが順調な時には私たちを傲慢にさせ、うまく行かず気持が滅入る時には私たちを自暴自棄にさせるなど、どんな時にも私たちに働きかけ、信仰を失わせようと働いています。サタンを侮ることは危険極まりないことです。

 しかし根本的な、また最終的な原因は、3:13が言いますように、人が罪に惑わされて「頑な」になることにあります。折角信仰を持っても、私たちには腐敗した罪の性質が残っています。ですから、私たちは分っていて罪を犯しますし、人から注意されても頑なに自分を変えず、我を通し、良心の呵責を覚えても、自分のやり方に固執します。

 頑なさは誰にもあります。子供にも老人にも、知識のある人にもない人にもあります。実に厄介で罪深いものです。

 危険なのは、ここから信仰が潰されて行くことです。頑なですと、神知識は身に着かず段々失われ、神への従順な意志も薄れ、神への信頼も細ります。教会のことも鬱陶しく(うっとうしく)なります。私たちには皆このような弱さがあり、誘惑にさらされています。ですから、信仰を常に互いに励まし合う必要があるのです。

 そこで「励まし合う」という点を少し考えます。これは積極的な行為であり、とても大切なものです。信仰生活を続けていますと、不信仰で、あるいは信仰が弱いために、十戒に代表される神の戒めを破り、自分勝手な言動をする信者にも、時々出会います。そういう時、私たちは、往々にして自分の不信仰は棚に上げ、そういう人たちの不信仰を非難し批判ばかりすることも起り得ます。

 無論、問題点を見抜き、批判し、問題のある人たちを戒め諭すことは、とても大切です。ローマ15:14で使徒パウロは、ローマ在住のクリスチャンたちが「互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています」と述べ、互いに戒め諭し合えることを高く評価しています。そういう意味でクリスチャンが、御言葉に基づいて互いに正しく批判できることは大切です。しかしそれは、「あの人は駄目だ」とバッサリ切り捨てることではありません。その人の不信仰や罪を悲しみ、その人がイエス・キリストへの信仰を失わないように、むしろ信仰を励ますことを聖書は教えます。

 罪を犯した教会員に執行される戒規も同じです。Ⅰコリント5:5でパウロは、淫らな罪を犯した信徒を「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」と述べています。怖い表現ですが、これは教会からの除名を指します。厳しい罰です。しかし、その目的は「それによって彼の霊が主の日に救われるためです」とすぐ書いていますように、いつかその人が悔い改め、信仰に立ち帰り、最後にはイエス・キリストによって救われることを願ってのことなのです。

 話を戻します。こうして見てきますと、信仰を互いに、それも日々励まし合うことの大切さを、私たちは改めて強く教えられます。私たちは今年、この点で共によく励みたいと思うのです。

 ところで、信仰はそれ程大切なものなのでしょうか。大切です!

 第一に、信仰は生れながらに不信仰な私たち罪人を、本当に罪と永遠の裁きから救います。そう言って良ければ、天国行きの切符、天国行きのクーポンを私たちに与えます。イエス・キリストの十字架による贖いが、信仰者には確実に適用されるのです。

 第二に、信仰は私たちを、罪の赦しと慈愛と憐れみに満ちた神の御子イエス・キリストの所有にし、私たちを永遠に神の子供にします。これも何という幸せでしょうか!

 第三に、信仰によりイエスに繋がっているならば、神に喜ばれる麗しい霊の実を私たちは自分の内面に結ぶことを許されます。霊の実とは、ガラテヤ5:22、23が言います「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」などです。何と感謝なことでしょう。

 第四に、信仰は私たちに死を超えた神の絶対的愛を確信させ、私たちを強くします。パウロはローマ8:38、39でこう語ることができました。「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、深い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 第五に、信仰は、マイナスと思えるものもプラスに変える力を持ちます。常に命を狙われ、その上、辛い病で苦しんでもいたパウロですが、ローマ5:3~5でこう言います。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終る事がありません。何故なら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

もういいでしょう。信仰を励まし合うことには、ものすごく意味があるのです。

 そこで最後に、私たちは教会でどうやって信仰を励まし合うかを三つだけ見て終ります。

 一つは、ヘブル3、4章が警告しますように、終末、つまり世の終りが、また個々人の死が、いつ突然来るかも知れないことを、しばしば互いに口にして信仰を励まし合うことです。「今日」という日の間に信仰を励まし合い、永遠の安息に確実に入れるように、互いに世の終りと自分の死にしっかり備えたいと思います。

 第二に、誰かに問題があっても何も言わないというのは良くありませんが、相手が頑なにならないように、軽率にではなく、よくよく考えて、戒め諭す言葉を選びたいと思います。箴言12:18は言います。「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし、知恵のある人の舌は人を癒す。」

 第三は、コミュニケーションを絶やさないことです。従って、まず挨拶が大切です。信仰を励まし合うためには、コミュニケーションによって、互いに親しい関係にあることが不可欠です。そのためには、いつも笑顔で、キチンと声を掛け合う挨拶が、とても大切です。それができない時には、手紙やメール、LINE(ライン)などのコミュニケーションのための道具を、よく活用したいと思います。

 昔、コリント教会には不信仰で問題のある人たちがいました。パウロはⅡコリント13:5で「あなた方は、信仰に生きているかどうか、自分を試し、吟味しなさい」と厳しく言いました。しかし終りの方の13:12では、「聖なる口づけをもって互いに挨拶を交わしなさい」と、挨拶を教えます。皆が信仰を励まし合うためです。挨拶から始まるコミュニケーションの何と大切なことでしょう。結局、思うのは愛ですね。

 今年はどんな年になるのでしょうか。そのことは、ご自分を愛する者のためには万事を益として下さる神に委ね、私たちは大切な信仰をこそ日々励まし合い、イエス・キリストを見上げて、堅固で豊かな信仰へと成長することを、是非ご一緒に許されたいと思います。

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