主の祈りの学び 8 第二祈願 1
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 6章9節~13節
6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
(新改訳聖書 2017年度版)
マタイによる福音書 6章9節~13節
今日は、主イエス・キリストのお教え下さった「主の祈り」の第二の祈願「御国が来ますように」の学びに進みます。
「御国(みくに)」とは神の国のことですが、国といいますと、私たちはつい国境線のある国土を考えます。しかし、聖書では<支配>を意味します。ある人が遠く離れた国や王の支配に従っているなら、そこに国土はなくても、国はあるのです。神の国も同じです。私たちが罪と悲惨からの救い主イエス・キリストを心から信じ、受け入れ、寄り頼むとは、キリストを通して神に自分を明け渡し、喜んで神のご支配や導きを受け入れることでもあります。その意味で、神の国は私たちに来ているのです。
ある時、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたユダヤ人たちにイエスは言われました。ルカ17:20、21「神の国は、目に見える形で来るものではありません。…神の国はあなた方のただ中にあるのです。」その通り、私たちが神のご支配や導きを喜んで受け入れる時、目には見えませんが、そこに神の国は存在し、私たちの中で神の国は始まっているのです。
ところで、聖書はもう一つ、神の国を教えます。世の終りにその全貌を表す神の国のことです。
この世は永遠に続きません。終りが来ます。但し、それがいつなのかを聖書は語っていません。1980~90年代に、ノストラダムスの終末予言(1999年第7の月が終末!)が話題になりましたが、聖書を良く知っている人は意に介しませんでした。しかし、聖書は終末のあることは明言しています。その時、今の世界は滅び、神の支配が目に見える形で現れ、完成する。その時、生きている人はそのままで、既に死んでいた人は復活して、この世で行ったことの全てに神の審判を受けます。しかし、罪を神の前に悔い改め、謙って救い主イエスを心から信じ、受け入れ、寄り頼んできた人は罪を赦され、新天新地に入れられ、一切の涙を拭われ、この世で行った全ての善い行いに対する報いも受け、永遠に神と共に生きる者とされます。Ⅱペテロ3:12、13は言います。「その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
従って、イエスは、ご自分を信じる人の心と生活の中で直ちに始まる目に見えない神の国、すなわち、神の恵みの支配と、世の終りに目に見える形で到来する永遠の神の国の両方の意味で、「御国が来ますように」と祈ることを教えられるのです。
しかし、そもそも何故こういう祈りが必要なのでしょうか。それは私たち人間に罪の性質があり、その上、悪の力が現にこの世に働いているからです。
一体、何故こんな非人間的なことが平然と行われ、どうしてこんなひどい犯罪が、と思うことが多々あります。人間に罪の性質が生れながらにあるからですが、それは時として恐ろしい形となって現われます。造り主なる真の神から離れた人間の罪深さに、私たちは慄然とします。
それと同時に、私たちは全ての背後に働く悪の力を感じないではおられません。無差別テロや虐殺、怪しい宗教による倫理観の欠如した人格破壊行動、国家権力によるすさまじい思想、言論、信教の自由の弾圧、為政者による罪深いことの繰返しなど、人間の罪を増幅させる恐ろしい悪の力を感じます。
聖書はサタンの存在を教えます。エペソ2:2は「空中の勢力を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」と言い、Ⅱコリント4:4は「この世の神」と呼びます。聖書は、人間の罪とそれを煽るサタンの問題を良く知っています。人間の悪と罪、更に悪魔・サタンの働きを、私たちは決して忘れてはなりません。
しかし、どこまで私たちは自分の力でこれらを阻止出来るでしょうか。誠に私たちは無力な者です。現に私たちは、自分の移ろいやすい感情や口にする言葉一つ、罪深い習慣など、きちんと支配出来ない本当に情ない者です。いいえ、だからこそ、慈しみに満ちた主は「御国が来ますように」と祈り、神のご支配を真剣に求めることを教え、励まして下さるのです。
神の支配といいますと、私たちから自由が奪われるように感じるかも知れません。けれども、事実は全く違います。神は愛と平和と秩序の神、慈しみと憐れみに満ちた神です。そうであるなら、私たち人間の愚かで罪深い欲望や間違いやすい判断力、またそれをずる賢く煽るサタンの悪巧みが、私たち一人一人と世を支配するのと、正しい真実な神が支配して下さるのと、どちらが幸せでしょうか。疑問の余地はありません。その意味で、主のお教え下さった祈りは、むしろ、私たちを最高の自由と希望に生きる者へと解放し、引き上げようとする誠に感謝な祈りなのです。
ご一緒に、私たち一人一人とこの世界に「御国が来ますように」と、心から祈りたいと思います。