2022年01月20日「祈りについて(27) 兄弟姉妹たちを覚えて」
問い合わせ
祈りについて(27) 兄弟姉妹たちを覚えて
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
哀歌 3章11節~24節
聖書の言葉
3:11 主は私を道から外れさせ、私を引き裂き、無残な姿にされた。
3:12 弓を引き絞り、私を矢の的のようにして、
3:13 矢筒の矢を、私の腎臓に射込まれた。
3:14 私は一日中、民全体の笑いもの、彼らの嘲りの歌となった。
3:15 主は私を苦菜で満腹にし、苦よもぎで酔わせ、
3:16 私の歯を砂利で砕き、灰の中で私を踏みつけられた。
3:17 私の魂は平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった。
3:18 私は言った。「私の誉れと、主から受けた望みは消え失せた」と。
3:19 私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
3:20 私の魂は、ただこれを思い出しては沈む。
3:21 私はこれを心に思い起す。それ故、私は言う。『私は待ち望む。
3:22 主の恵みを。』実に、私たちは滅び失せなかった。主の憐れみが尽きないからだ。
3:23 それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は偉大です。
3:24 主こそ、私への割り当てです』と、私の魂は言う。それ故、私は主を待ち望む。哀歌 3章11節~24節
メッセージ
関連する説教を探す
今日も祈りについて学びます。27回目となります。副題は「兄弟姉妹たちを覚えて」です。
今日は、自分をあくまでも神の民の中に置き、彼らの罪に激しく憤り、けれども、彼らへの神の厳しい裁きをも自分のこととして受け止め、悲しみ、そして皆のために、皆に代って神に信仰を告白し、罪の赦しと助けを心底願う祈りもあります。哀歌がそうです。
哀歌は、紀元前586年のバビロンによる攻撃とシオン、つまり、エルサレムの陥落の後、早い時期に作られたと思われます。読んでいきますと、胸が詰まる所が幾つもあります。少し見てみます。
第一に、作者は人々に臨んだ神の厳しい刑罰とその原因である彼らの罪を語ります。1:4で作者は歌います。「シオンへの道は喪に服し、例祭に行く者は誰もいない。その門は皆荒れ果て、その祭司たちは呻く。乙女たちは憂いに沈む。シオンが苦しんでいるのだ。」8節「エルサレムは罪に罪を重ねた。そのため、汚らわしいものとなった。」9節「彼らの汚れは裾に付いている。」
しかし作者は、不快で腹立たしい彼らの罪を指摘するだけではありません。第二に彼は、こんな彼らの中に尚も自分を位置づけ、彼らと一つとなり、彼らの痛みを自分の痛みとして受け止め、涙を流します。作者は歌います。1:16「これらのことで、私は泣いている。私の目、この目から涙が溢れる。」
2、3章でも同じです。彼は歌います。3:1「私は、主の激しい怒りの鞭を受けて、苦しみに遭った者。」4節「主は、私の肉と皮をすり減らし、私の骨を砕き」と。
先程読みました3:11~17はこうです。「主は私を道から外れさせ、私を引き裂き、無残な姿にされた。/弓を引き絞り、私を矢の的のようにして、/矢筒の矢を、私の腎臓に射込まれた。/私は一日中、民全体の笑いもの、彼らの嘲りの歌となった。/主は私を苦菜で満腹にし、苦よもぎで酔わせ、/私の歯を砂利で砕き、灰の中で私を踏みつけられた。/私の魂は平安から見放され、私は幸せを忘れてしまった。」
哀歌の作者は、長年にわたるひどい不信仰と罪のために神から恐ろしい罰を受けているエルサレムやユダの住民と、主の律法を守ってきた自分とは無関係、とはしません。気持ちの中で、彼らを切り捨てることもしません。むしろ、彼らがどんなに罪深く不信仰で愚かであっても、尚、今彼らが苦しんでいるその痛み、悲鳴、叫び、呻き、涙を思い、一緒になって苦悩し、一緒になってその苦痛を担うのです。まさにローマ12:15「泣いている者たちと共に泣」くのでした。
しかも、これだけではありません。第三に、彼は尚も彼らの一員として、彼らを代表するような思いで神に信仰を告白します。皆で絶望しないためですが、この告白の中に素晴らしく慰めに満ちた福音が見られます。3:21後半~24を読んでみます。「それ故、私は言う。『私は待ち望む。/主の恵みを。』実に、私たちは滅び失せなかった。主の憐れみが尽きないからだ。/それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は偉大です。/主こそ、私への割り当てです』と、私の魂は言う。それ故、私は主を待ち望む。」
25~33節も読みます。「主は慈しみ深い。主に望みを置く者、主を求める魂に。/主の救いを静まって望むのは良い。/人が、若い時に、軛を負うのは良い。/それを負わされたなら、独り静まって座っていよ。/口を土の塵につけよ。もしかすると希望があるかも知れない。/自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。/主はいつまでも見放してはおられない。/主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人を憐れまれる。主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。」
40、41節も読みます。「自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。/自分たちの心を、両手と共に、天におられる神に向けて上げよう。」
実際にはまだ明るい兆しが見えず、絶望的とも思える厳しい現実を、作者は4、5章で語り、気が滅入りそうなのを告白し、そして5:20~22で、主に切々と憐れみを訴えて祈りを終ります。そこも読んでみます。「なぜ、いつまでも私たちをお忘れになるのですか。私たちを長い間、捨てておかれるのですか。/主よ、あなたのみもとに帰らせて下さい。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新たにして下さい。/あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。」
祈りは神との対話、交わりです。しかし、それは個人的なものだけではありません。神の民、神の家族とされている特に教会の兄弟姉妹たち皆を覚え、どう見ても不信仰で罪を犯している者がいても、直ちに彼らを切り捨てるのでなく、尚、彼らを覚え、呻きつつ祈る!そういう神との対話、交わりでもあることを教えられます。
主イエス・キリストが、主の祈りの中に「我ら」という言葉を繰返し入れておられることの深い意味を、また当教会の今年の標語であります「互いに信仰を励まし合う」ということを、改めて教えられ、考えさせられます。