神様、なぜですか。
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- 堂所大嗣 神学生
- 聖書 詩編 22篇1~21節
22: 1 わが神、わが神
どうして私をお見捨てになったのですか。
私を救わず 遠く離れておられるのですか。
私の呻きの言葉にもかかわらず。
22: 2 わが神 昼に私はあなたを呼びます。
しかし あなたは答えてくださいません。
夜にも私は黙っていられません。
22: 3 けれども あなたは聖なる方
御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。
22: 4 あなたに 私たちの先祖は信頼しました。
彼らは信頼し あなたは彼らを助け出されました。
22: 5 あなたに叫び 彼らは助け出されました。
あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。
22: 6 しかし 私は虫けらです。人間ではありません。
人のそしりの的 民の蔑みの的です。
22: 7 私を見る者はみな 私を嘲ります。
口をとがらせ 頭を振ります。
22: 8 「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。
主に救い出してもらえ。
彼のお気に入りなのだから。」
22: 9 まことに あなたは私を母の胎から取り出した方。
母の乳房に依り頼ませた方。
22:10 生まれる前から 私はあなたにゆだねられました。
母の胎内にいたときから あなたは私の神です。
22:11 どうか 私から遠く離れないでください。
苦しみが近くにあり
助ける者がいないのです。
22:12 多くの雄牛が私を取り囲み
バシャンの猛者どもが私を囲みました。
22:13 彼らは私に向かって 口を開けています。
かみ裂く 吼えたける獅子のように。
22:14 水のように 私は注ぎ出され
骨はみな外れました。
心は ろうのように
私のうちで溶けました。
22:15 私の力は 土器のかけらのように乾ききり
舌は上あごに貼り付いています。
死のちりの上に あなたは私を置かれます。
22:16 犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。
22:17 私は 自分のみな数えることができます。
彼らは目を凝らし 私を見ています。
22:18 彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。
22:19 主よ あなたは離れないでください。
私の力よ 早く助けに来てください。
22:20 救い出してください。私のたましいを剣から。
私のただ一つのものを犬の手から。
22:21 救ってください。獅子の口から 野牛の角から。
詩編 22篇1~21節
今朝お読みした詩篇22編は、私たちキリスト教会で最もよく親しまれてきた詩篇の一つです。この詩は大きく前半と後半の二つに分ける事が出来ます。前半は、迫りくる苦難に恐れおののきながら、必死に神の助けを呼び求める嘆きの詩です。しかし後半はうって変わって、神様の救いに対する喜びと讃美の歌になります。
そしてこの詩篇の前半の嘆きの詩は、新約聖書においてイエス・キリストの十字架の受難の場面に数多く引用されている事でもよく知られています。
特に冒頭の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という言葉は、イエス様が最後に十字架の上で叫ばれた、あの「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という言葉の引用元としてよく知られています。
昨年後半には、日本国内においては少しずつコロナ・ウイルスの感染が落ち着いてきていましたけれども、しかし今また、新しいオミクロン株が現れて、再び感染者が拡大しつつあります。
世界中で多くの人を苦しめているこの病を、神様はどうして一日も早く収束させてくださらないのでしょうか。
私たち信仰者が教会に集まって礼拝することも、交わりを持つことも出来なくなっている、そのような状況を、どうして神様は今も見過ごしておられるのでしょうか。この出来事には一体どんな意味があるのでしょうか。
コロナが発生してから今日まで、私たちはこの「神様、なぜですか」という問いをずっと問い続けています。しかし神様は、この出来事の意味や理由について、何も答えては下さいません。
「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか 」
この詩人もまた、そう叫ばずにはいられない大きな苦しみと嘆きの中にあります。けれども神様はその詩人の問い掛けに、やはり何もお答えにはなりません。
詩人が今、直面している最大の問題、それは実は苦難そのものよりも、その苦しみの中でいくら呼び求めても神様が何も答えてくださらないという「神の沈黙」にあります。
この詩の冒頭には「ダビデの賛歌」という表題が付けられています。しかしこの詩を書いたのがダビデ本人であるかどうかははっきりとは分かりません。あるいはこの詩は、ダビデを偲んで、後の時代の人が読んだものかも知れません。
もしこの詩がダビデに由来する詩であるとしたら、ここに書かれているようなダビデの苦難として当てはまるのは、サウル王に命を狙われて逃亡生活を送っていた時、あるいは息子アブサロムの反乱によって都エルサレムを追われた時が思い浮かびます。しかし、そのようなダビデの苦難とこの詩を直接結びける事が出来るような描写を見つけるは出来ません。
そこである聖書研究者は、14、15節の「水のように私は注ぎだされ、骨はみな外れました。心は蠟のようにわたしのうちで溶けました」「私の力は土器のかけらのように乾ききり、舌は上あごに貼り付いています」という描写から、この詩人は何か重い病に犯されて死に瀕していた人ではないか。22節以降は、その死の淵から回復したことを感謝しているのではないか、と推測しています。
また別のある研究者は、18節の「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」という言葉を、死刑執行人が死刑囚の衣服を分け合う様子と考えて、この詩は無実の罪で捕えられた人が、今まさに処刑されようとしている場面なのではないかと想像しています。
しかしそれらの理解もあくまで一つの可能性に過ぎません。聖書に書かれている描写から、この詩人が遭遇している苦難が何であるかを具体的に特定する事は困難です。むしろ私たちは、ここに書かれている苦難を何か特定の人物の苦難や、特定の出来事に限定する必要はないのだと思います。
私たちは本当に悲しい時、どん底の苦しみを経験する時、言葉を失います。頭が真っ白になり、心が固く強張って、何の感情も浮かんでこなり、涙を流す事も出来なくなります。聖書を開く気力もなく、御言葉を聞いてもそれが虚しく響きます。「神様、なぜですか」と祈ることさえ出来ずに、ただ膝を抱えてうずくまる事しか出来ない時があります。
この詩で描かれているのはそのような、暗い現実の中で絶望している私たち自身の姿です。そして詩人の「神様、どうしてですか」という叫びは、私たち自身が人生の不条理に直面した時に、心の中で神様に問い掛けた言葉です。今朝の詩篇はそのように、私たち自身が味わってきた人生の苦しみの時を重ね合わせながら読まれるべき詩篇なのだと思います。
最初に申し上げましたように、この詩篇は前半と後半で二つに分けられますが、今日お読みした前半部分においても、詩人の心は激しく揺れ動いています。
1節から2節の神への訴えに続いて、3節から5節で詩人は、かつて神様が自分たちの祖先であるイスラエルの民にしてくださった御業に想いを馳せています。
「けれども あなたは聖なる方 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。あなたに叫び 彼らは助け出されました。あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした。」
恐らく、詩人はこの時、幼いころから何度も聞かされてきたであろう、あの出エジプトの物語を思い起こしていたのではないでしょうか。彼は自らの祖先にしてくださった神様の御業を思い起こして、そこに希望を見出そうとします。
しかし、6節以下で再び詩人の心は現実の苦しみに引き戻されます。
「しかし 私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的 民の蔑みの的です。
私を見るものはみな 私を嘲ります。口をとがらせ 頭を振ります。
『主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。』」
確かに過去にイスラエルの父祖たちは神様から様々な恵みを与えられてきたかも知れません。しかし、詩人自身の現実はそうではありません。彼は人々の嘲りの対象となり、不当な扱いを受けています。しかも彼の神様に対する信頼さえ、詩人に対する嘲りの原因となっています。
そこで詩人は9、10節で、今度は祖先の民ではなく、詩人自身がこれまで与えられてきた恵みを思い起こします。
「まことに あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房により頼ませた方。
生まれる前から 私はあなたに委ねられました。母の胎内にいたときから あなたは私の神です。」
詩人はこれまでの人生を振り返り、自分が生まれて間もない幼い頃から、いや母親の胎内にいるときからずっと神様に守られてきたと告白します。そのように過去の神様の恵みを一つ一つ思い起こして、詩人は何とか自分を神様に対する信頼に繋ぎとめようとします。そして「あなたはわたしの神です」と必死に呼び掛けます。
しかし、尚も詩人を取り巻く状況は少しも変わりません。12節から18節で、詩人は必死に迫りくる危機の恐ろしさを訴えます。
そして19節でとうとう「主よ あなたは離れないでください。私の力よ 早く助けに来てください」と悲痛な叫びを上げる事しか出来なくなります。
詩人は、神の沈黙に直面する中で、おぼれた人が水面に顔を出そうとしてもがくように必死に神に信頼しようとしますが、しかしそこでまた現実の恐れの中に引きずり込まれていく、そのような心の動きを繰り返します。
私たちの信仰生活もまた、そういう神様への信頼と恐れの間を振り子のように行ったり来たりしながら、必死にもがき苦しむ心の浮き沈みを繰り返すのではないでしょうか。
「あの時、助けてくださった神様は、きっとこれからも私を助けてくださるに違いない。」そう自分を励ましながら、しかし一方では「いくら祈っても、私を取り巻いている苦難は何も変わらないではないか。」そういう不安や疑いの思いに囚われてしまう。
ここで詩人が辿っている心の動きは、私たち自身もまた苦難の中にいる時に何度も繰り返した事がある心の揺らぎです。
しかしこの詩人は絶望に沈みそうになる魂を抱えながら、決して神様の存在を疑ったり、神様に呼び求める事を止める事はいたしません。旧約聖書ヨブ記の義人ヨブが、自分の身に起こった苦難の理由を激しく神様に問い詰めながら、しかし決して神という存在そのものを否定する事はなかったように、この詩人もまた、苦難の中で沈黙しておられる神様に対して、尚「主よ、あなたは離れないでください」と呼び続けています。
小さな子どもは、周りに人がいようが、誰かの迷惑になろうが、そんな事にはお構いなく、何か痛みや不満を感じたらすぐに大声で泣いてその事を訴えます。そんな風に人目も憚らずに涙を流して訴える子供の姿を見て、お父さんやお母さんは大変だろうなと思う反面、どこかそんな風に自分の悲しみを包み隠さず、正直に訴える事が出来る子どもを羨ましいとも思うのです。
私たちは大人になると、子どものように悲しみや痛みを誰かに素直に訴える事が難しくなります。特に私のような中年男性にとっては、人前で涙を流すという事はとても難しくなります。
しかし私は若い頃、そういう辛い出来事や、悲しい出来事があっても、その気持ちをグッとしまい込んで、感情を表に出さずに黙って耐え忍ぶ事が出来る人、それが強い人間であると考えていました。
けれども最近になって、そんな風に自分の嘆きや辛さを誰かに素直にさらけ出すことが出来ないのは、私の弱さではないかと考えるようになりました。そして自分の弱さを正直に認めて、痛みや辛さを訴える事が出来る人の方が、本当は強い人なのではないかと思うようになりました。
この詩人もまた、決してどんな苦しみや悩みの中にあっても動じることない、そういう強さを持った人物では決してありません。むしろ彼は現実の苦難に恐れ戦き、人々の言葉や嘲りに傷つく弱さを持っていました。しかしこの詩人は迫りくる敵に恐れ戦きながら、その自らの弱さを素直に認めて、自分にはどうすることも出来ない事を正直に告白して、神様にその恐れや嘆きを小さな子供のように正直に訴え続けるのです。
詩篇という書物は、それ自体が「祈りの書」であります。しかしそこに書かれている内容は、決して麗しい讃美や感謝の言葉だけではありません。むしろその多くは、今朝のこの詩篇のように苦難を訴える嘆きの歌です。あるいは、およそキリストの愛の教えとは相容れないような、敵に対する呪いの歌も含まれています。聖書はそのように、この世の苦く苦しい現実と、そこで生きる人間の涙や怒りをありのままに記しています。
神様は単に耳触りの良い、美辞麗句を並べた祈りを喜ばれるのではありません。むしろ、私たちが正直に嘆きや怒りを神様に訴える時に、神様は親が子どもの訴えに耳を傾けて、その子をしっかりと抱きとめるように、私たちの涙や怒りの訴えを「祈り」として聞いてくださる、その事を詩篇全体が証ししています。
神様に苦難を訴え、救いの手を必死に求め続けるこの詩の前半の中で、特に印象的なのが6節の「虫けら」という言葉です。「しかし わたしは虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的 民の蔑みの的です。」
16節や20節では「犬ども」「犬の手」という表現が使われていますが、ユダヤ人が相手を蔑む際に用いる表現がこの「犬」という呼び方です。パウロも手紙の中で、自らの敵対者をそう呼んでいる箇所があります。
しかし6節で詩人が自らに用いている「虫けら」という表現は、「犬」どころではありません。
この中にも虫が苦手という方もきっといらっしゃると思いますが、「虫けら」とは、私たち人間から見て最も遠い存在です。居ても居なくてもよいような存在、いやむしろ居ない方が好ましいと思える存在です。人々から忌み嫌われ、たとえそれを踏みつぶしても気にも留めないし、罪悪感を抱くこともない。それが「虫けら」という存在です。
詩篇の中でこの「虫けら」という表現が使われているのはこの箇所だけです。ましてや自らを自虐的に「虫けら」と呼んでいるのは、旧約聖書全体を見渡しても、この箇所しかありません。
この詩人の苦しみの第一は、神様が祈りに何も答えて下さらないという「神の沈黙」であります。そして詩人のもう一つの苦しみは、彼が道端の虫けらか何かのように人々から顧みられず、誰も詩人の痛みや涙に目を向けてはくれないという事です。
東日本大震災の時に盛んに「絆」という言葉が使われました。確かに私たちは、あのような大きな災害が起きたときに、その被害を受けた人達がどれ程大変な想いをしているかを思い、その人たちの苦しみや涙に共感しようと努める事が必要です。
しかしいくら誰かの苦しみや悲しみを想像してみても、自分が実際にその苦難を体験したわけではありませんし、苦しんでいる方がどのような思いを持ち、どのような痛みを抱えておられるのか、その事を本当の意味で理解することは出来ません。また簡単にそれに理解できると思ってはならないのだと思います。
同様に、たとえ愛する家族や友人であっても、この私の痛みを私と同じように感じる事が出来る人はどこにもいません。私が感じている嘆きや怒りを私と同じように感じて、共感する事が出来る人は、この世の中には一人もいないのです。その意味で、私たちは誰もがこの詩人と同じように「誰も自分の心を分かってはくれない」という孤独を抱えてい生きているのではないでしょうか。
しかし、ここにただ一人、私たちの心の嘆きを知り、その苦しみと涙をご自分の涙として流して下さった御方がおられます。それがあの十字架の上で、今朝の詩篇の祈りを祈って下さったイエス・キリストという御方です。
イエス・キリストは十字架刑という、当時のローマにおいて最も残酷で屈辱的な刑に処せられました。そしてその十字架の上でイエス様は「わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。
ある人は、その箇所を読んだ時に「神の子なのにみっともない」と感じたそうです。日本の昔の武士には、死を前にしても取り乱すことなく、堂々と死んでいった人が大勢います。それなのに、神の子と呼ばれている人が最後に「神様、どうしてですか」と泣き叫ぶのかと、その人は思ったのです。
人々に捕らえられて、罪人として裁かれて、罵られ、殴られて、そして最後には泣きわめいて死んでいく。それは、神の御子としての威厳や栄光などみじんもない、全く弱弱しい姿です。
しかしそのキリストの十字架での弱くみじめな姿は、本来、罪人であるこの私たちが背負うべき弱さでありました。「どうして私をお見捨てになったのですか」という嘆きは、最後に神に見捨てられ、永遠の暗闇に落とされた私たちが泣き叫ぶはずの言葉でした。
しかしイエス様は神の御子としての栄光を脱ぎ捨てて、私たちの代わりに弱さとみじめさをその身に背負って下さいました。
父なる神様から完全に見捨てられて、裁きとしての死を受けるという、人類がまだ誰も経験したことのない苦しみをその身に受けて、本来私たちが叫ばなければならなかった嘆きを代わりに嘆いてくださったのです。このイエス・キリストにおいて、神様は確かに私たちに答えてくださったのです。
人生の中で、全く光の見えないような暗闇の中に立たされた時、「神様、どうして私をお見捨てになったですか」と私たちが問い掛ける時、しかしそこにも「私はあなたを見捨てない。必ずあなたと共にいる」と答えて下さるイエス・キリストがおられます。
私たち信仰者は、このイエス・キリストが共に祈ってくださるからこそ、私たちは「神様、なぜ」という言葉を、世をはかなむ嘆きとしてではなく、キリストにある嘆きの祈りとして祈る事が出来るのです。
そして私たちのその祈りは、決して嘆きによって終わるのではありません。嘆きは今朝の詩篇で言えば、詩の前半部分にしか過ぎません。嘆きを経験したその私たちの祈りは、やがてその涙の先にある真の喜びと感謝の詩へと変えられていくのです。そして地上の苦難の生涯が終わった時には、私たちは天の御国で、私たちの愛する主イエス・キリストの御前に共に集い、愛する人達と声を合わせて感謝と喜びの歌を歌う日が来るのです。