新しい歌を主に歌え
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 詩編 33章1節~7節
33:1 正しい者たち 主を喜び歌え。
賛美は 直ぐな人たちにふさわしい。
33:2 竪琴に合わせて 主に感謝せよ。
十弦の琴に合わせて ほめ歌を歌え。
33:3 新しい歌を主に歌え。
喜びの叫びとともに 巧みに弦をかき鳴らせ。
33:4 まことに 主のことばは真っ直ぐで
そのみわざはことごとく真実である。
33:5 主は正義と攻勢を愛される。
主の恵みで地は満ちている。
33:6 主のことばによって 天は造られた。
天の万象もすべて 御口の息吹によって。
33:7 主は海の水をせき止めて集め
湧き出る水を倉に納められる。詩編 33章1節~7節
2022年を迎え二日目の今朝、こうして新年礼拝をご一緒に捧げることができ、心から神に感謝致します。
新年に、私たちには、今年はやってみたいと思うものも色々あると思います。特にクリスチャンは、感謝なことに、信仰と生活の唯一の基準である聖書により、絶えず自分の信仰と生活を振り返り、自分を吟味し、今後のあり方を考えることができます。ですから、チャレンジしようと思うものもあるでしょう。
では、どんなものがあるでしょうか。例えば、朝起きると、すぐその場で神に祈るなど、神との交わりである祈りに去年より多く時間を取るとか、聖書の前に座って御言葉に目を留め、瞑想する時間を去年より毎日5分でも多くするなど、色々あるでしょう。しかし今朝は、「新しい歌を主に歌え」と説教題に掲げましたように、神賛美の歌を歌うことの素晴らしさと大切さを心に留めたいと思います。
これは聖書自身が教えていることです。先程、詩篇33:1~7を読みました。1節は「正しい者たち、主を喜び歌え。賛美は、直ぐ(すぐ)な人たちに相応しい」と言い、喜び歌うことを主の民に命じます。
2節では、声による感謝とほめ歌に、「竪琴」、つまり、昔の小さなハープや、「十弦の琴」、つまり、やや大型で高度な演奏の出来る竪琴・ハープによる楽器演奏も命じます。
3節では「新しい歌を主に歌え。喜びの叫びと共に、巧みに弦をかき鳴らせ」と命じます。「巧みに弦をかき鳴らせ」、つまり、大切な神賛美ですので、より優れた演奏技術による伴奏で、という意味でしょう。また「喜びの叫びと共に」、すなわち、喜んで叫ぶように賛美せよと命じます。
では、旧約時代の主の民に、こうまで力強く神賛美を命じた理由は何でしょうか。それが4節以降に述べられます。今朝は時間の関係でそこには触れませんが、後で是非、読んで頂きたいと思います。
とにかく、今朝覚えたいことは、主を賛美し、特に3節「新しい歌を主に歌」うことです。「新しい歌」については、詩篇40:3、96:1、98:1、144:9、149:1、イザヤ42:10、黙示録5:9、14:3でも言われています。
では、新しい歌を歌うとはどういうことでしょうか。
一つは、文字通り新しく賛美の歌を作って主なる神に歌うことです。
天と地を創り、私たちを御子イエスへの信仰だけで、罪と滅びから永遠に救って下さる真(まこと)の神を信じ、愛し、従う者は、神を讃える歌を常に新しく作り、巡礼者のように歌いつつ人生の旅路を進むのです。
しかし、「私は新しい賛美歌を作ることなどできない。詩の才能も音楽の才能もないんだから」と言う人もあるでしょう。でも、特別な才能などは必要ありません。例えば、「神様、大切なことを私に教え、素晴らしい人や美しいものにも出会わせ、また多くの人の祈りと優しさと励ましを下さり、感謝致します。イエス様、あなたの十字架と復活と再臨こそ、私の希望の全てです」と思うなら、その思いに少し曲を付けて歌えばいいのです。人に聞かれるのが恥ずかしいなら、誰もいない部屋や公園でとか、車の中やお風呂の中でも構いません。声を出し、歌うのです。
ところで、そんなにいつも新しい歌を私たちは歌えるのでしょうか。歌えます!神はその存在、知恵・力・聖さ・正しさ・善と愛、真実、美しさにおいて、無限・永遠・不変のお方ですから、神を新しく賛美することは、永遠に可能なのです。
先程、「新しい歌」に言及している聖書箇所を幾つか挙げましたが、最後の黙示録5:9と14:3は、神のおられる天上の世界におけるものです。言い換えますと、永遠の神の国においてでさえ、新しい歌は永遠に生れ続けることができるのです。神の素晴らしさを歌い尽くすのに、正に永遠を要するのですよね。
実際、その気になれば、私たちは、神への感謝や祈りを口にし、神が下さった音楽により、いつでも新しい歌を主に歌えます。メロディは、新しく作れるならば作るといいですが、知っている曲を借りても構いません。大切なのは賛美の言葉であり内容です。そして賛美しますと、神は一層私たちを励まし、慰め、魂を癒して下さいます。
前にも紹介しましたが、1978年、43歳の若さで肺癌のため、天に召された原崎百子さんは、天に召される10日前、最後の礼拝に出席された日ですが、こんな詩歌を残されました。
「わが呻きよ わが讃美の歌となれ/ わが苦しい息よ わが信仰の告白となれ/ わが涙よ わが歌となれ。」
つまり、「神様への私の訴えや呻き、苦しい息や私の涙さえも、どうか私の信仰告白となり、賛美の歌となりますように」という詩であり歌です。乾く唇でかすかに、あるいは心の中で、彼女がどのように歌われたかは分りません。しかし、主に真直ぐ向い、神を高く仰がれた彼女のこのような信仰を、神はどんなに喜ばれ、温かい御力をもって守り、また天の御国でどんなに豊かにお応え下さっていることでしょう。
マイナンバー制度が始まっていますが、私たちは感謝と祈りの言葉によるマイ賛美歌を、今年、新しく作り、歌えるならば、どんなに素晴らしいでしょう。
さて、新しい歌を主に歌うことには、もう一つ、既によく知り、歌ってきた賛美の歌を、新たな気持で歌うという点もあります。
今、私たちの回りには、賛美歌や聖歌、ワーシップソングなど沢山あります。けれども、それらをただ口ずさみ、何となく歌うのではなく、常に「新しい祈りの心で歌う」ことが大切です。歌い慣れた賛美歌でも、その時の状況でとても深く心に訴え、私たちの魂を癒し、慰め、力づける時があります。
淀川キリスト教病院のホスピスで最後まで関った60代終りのある女性は、ご自分を病気のデパートと呼び、淀キリでは小児科以外全ての診療科で世話になったと笑っておっしゃった位、若い頃から色々な病気で苦しんで来られました。その彼女がある時、「私は讃美歌400番が好きなの」とおっしゃいました。讃美歌Ⅰの400番です。こんな歌です。
「主よ、わが痛みの 抑え難く、苦しみ疲れて 御名(みな)呼ぶ時、嵐を鎮めし 昔のごと、かたえに来りて 助け給え/ 久しき病に 心挫け、御名呼ぶ力も 失せ去る時、み弟子の行末(ゆくすえ) 祈りし主よ、我がため来りて 祈り給え/ 生死を御手(みて)にぞ うち任せて、寝ても覚めても ただ主にあり、病むにも健康(よき)にも 主をば思う、こよなき安けさ 与え給え」
彼女は何度もこれを口ずさみ、主の慰めと平安に与って生きて来られたのだと思います。
9歳で骨肉腫が分り、1982年、11歳で天に召された元宝塚教会員の理里子ちゃんの好きな賛美歌は、讃美歌Ⅰの285番でした。ある長老さんは「これは理里子ちゃんの好きな賛美歌というより、彼女の信仰と人生そのものですね」と涙ぐんで言われたのを思い出します。
「主よ、御手(みて)もて 引かせ給え、ただ我が主の 道を歩まん。如何に暗く 険しくとも、御旨(みむね)ならば 我いとわじ/ 力頼み 知恵に任せ、我と道を 選び取らじ。行くてはただ 主のまにまに、委ねまつり 正しく歩まん/ 主よ、飲むべき 我が杯、選び取りて 授け給え。喜びをも 悲しみをも、満たし給う ままにぞ受けん」 4節は省きます。
私たちを取り巻く状況も私たち自身の状態も常に変り、今は歌う気持になれないと思う時もあるでしょう。しかし、そんな時、昔から歌い、また聞いてきた賛美歌がふと心に浮び、改めてその歌詞を見て、「こんなに素晴らしい歌だったのだ」と私たちは新たな発見をし、新しい歌として歌えることがあります。そうして、困難な状況に立ち向えることがあります。神は、賛美の歌にそんな恵みを与えておられることを改めて思います。
そう言えば、十字架の前夜、弟子たちと最後の食事をされた主イエスも、弟子たちと賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ向われたことを、マタイ福音書26:30は伝えます。
使徒の働き2:47は、初代教会の信徒が実によく賛美したことを伝えています。また16:25は、ピリピの町で迫害され鞭打たれたパウロとシラスが、真夜中頃、一番奥の牢の中で「祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた」と伝えています。二人は歌うことにより、神に強く支えられたのでもあると思います。
時代は下り、厳しい宗教改革時代のことです。ベルギーのプロテスタントたちは、彼ら自身が告白したベルギー信条を何度も唱え、カルヴァンの編集したジュネーヴ詩編歌を繰り返し歌うことで、信仰を励まされ、改革運動を推進できたと言われています。
2022年、教会も一人一人も、尊い恵みの手段である祈りと賛美の豊かな1年に、是非、したいと思います。主が導いて下さいますように!