聖書の言葉 3:13 互いに忍耐し合い、誰かが他の人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなた方もそうしなさい。コロサイの信徒への手紙 3章13節 メッセージ 今年最後の祈祷会である今日は、「互いに忍耐し合い、赦し合う」ということを心に留めたいと思います。 改めて言うまでもなく、聖書は人間の本性に見られる自己中心の罪を鋭く暴きます。罪にも色々ありますが、その一つは、人から不快で嫌(いや)な思いをさせられ傷つけられたことなどを、なかなか赦せないことでしょう。本当は、自分も人を傷つけ、不快な思いをさせ、我慢してもらい、赦してもらっていることが多いですのに、そのことは忘れ、人への否定的な思いを自分はしつこく抱き続ける!身勝手ですね。 先程のコロサイ3:13は「互いに忍耐し合い、誰かが他の人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなた方もそうしなさい」と言います。「互いに」であり、片方だけではありません。また忍耐し合い、赦し合う理由として、「主が」、すなわち、神の御子イエス・キリストが「あなた方を赦して下さったように」と言います。ですから、これは誰もが覚えるべきとても大切なことと言えます。 2005年のヨーロッパ緩和医療学会の基調講演で、ロバート・トゥワイクロス氏が次のように話されたことを、神戸アドベンチスト病院のホスピス医であり院長でもあられた山形謙二医師から伺いました。 「人は治って死ぬことはできないが、癒されて死ぬことはできる。癒されるとは、自分自身と、他者、自分を取り巻く者、そして神との正しい関係を回復することである。…癒されて死ぬことは、次の五つの重要な言葉を表現することを含む。I love you(あなたを愛している); forgive me(私を赦してほしい); I forgive you(あなたを赦します); thank you(ありがとう); goodbye(さようなら)という言葉である。」 人生最後の、その意味では最も大切な時に、私たちが互いに表現すべき言葉として「赦してほしい」と「あなたを赦します」が入っていることは、大変興味深いと思います。互いに忍耐し合い、赦し合うことは、それ程大切だということを、改めて教えられます。 忍耐し、赦し合うということに関連して、私はポルトガルで作られたという作者不明の手紙を、もう大分前になりますが、人から教えられました。心に深く響きましたので、ご紹介します。すっかり年老いた親から、もう中年になっていると思われる子供たちに宛てた手紙です。 「 手紙 -親愛なる子供たちへ- 年老いた私が、ある日、今までの私と違っていたとしても、どうか、そのままの私のことを理解してほしい。私が服の上に食べ物をこぼしても、靴紐を結び忘れても、あなたに色んなことを教えたように、見守って欲しい。 あなたと話す時、同じ話を何度も何度も繰り返しても、その結果を、どうか、さえぎらずに頷いてほしい。あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本の温かな結末は、いつも同じでも、私の心を平和にしてくれた。 悲しいことではないんだ。消え去ってゆくように見える私の心へと、励ましの眼差しを向けてほしい。 楽しいひと時に、私が思わず下着を濡らしてしまったり、お風呂に入るのを嫌がる時には、思い出してほしい。あなたを追い回し、何度も着替えさせたり、様々な理由をつけて、嫌がるあなたとお風呂に入った、懐かしい日のことを。 悲しいことではないんだ。旅立ちの前の準備をしている私に、祝福の祈りを捧げてほしい。 いずれ歯も弱り、飲み込むことさえできなくなるかもしれない。足も衰えて立ち上がることすらできなくなったら、あなたが、か弱い足で立ち上がろうと、私に助けを求めたように、よろめく私に、どうか、あなたの手を握らせてほしい。 私の姿を見て悲しんだり、自分が無力だと思わないでほしい。あなたを抱き締める力がないのを知るのは辛いことだけど、私を理解して支えてくれる心だけを持っていてほしい。きっとそれだけでそれだけで、私には勇気が湧いてくるのです。 あなたの人生の始まりに、私がしっかりと付き合ったように、私の人生の終りに少しだけ付き合ってほしい。 あなたが生れてくれたことで私が受けた多くの喜びと、あなたに対する変らぬ愛をもって、笑顔で応えたい。 私の子供たちへ、愛する子供たちへ。 」 如何でしょうか。 ただただ私たち罪人を赦し、永遠の命を与えるために、神は御子イエスを十字架に付け、復活させられました。何という神の愛でしょうか。 ですから、私たちも、親子関係であれ、どんな関係であれ、責めるべきことがあっても、「互いに忍耐し合い、赦し合う」ということを深く胸に刻み、事実そうならせて頂きたいと思います。 1年を振り返り、新しい年を迎える今、特にこのことを覚えたいと思います。 関連する説教を探す 2021年の祈祷会 『コロサイの信徒への手紙』
今年最後の祈祷会である今日は、「互いに忍耐し合い、赦し合う」ということを心に留めたいと思います。
改めて言うまでもなく、聖書は人間の本性に見られる自己中心の罪を鋭く暴きます。罪にも色々ありますが、その一つは、人から不快で嫌(いや)な思いをさせられ傷つけられたことなどを、なかなか赦せないことでしょう。本当は、自分も人を傷つけ、不快な思いをさせ、我慢してもらい、赦してもらっていることが多いですのに、そのことは忘れ、人への否定的な思いを自分はしつこく抱き続ける!身勝手ですね。
先程のコロサイ3:13は「互いに忍耐し合い、誰かが他の人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなた方を赦して下さったように、あなた方もそうしなさい」と言います。「互いに」であり、片方だけではありません。また忍耐し合い、赦し合う理由として、「主が」、すなわち、神の御子イエス・キリストが「あなた方を赦して下さったように」と言います。ですから、これは誰もが覚えるべきとても大切なことと言えます。
2005年のヨーロッパ緩和医療学会の基調講演で、ロバート・トゥワイクロス氏が次のように話されたことを、神戸アドベンチスト病院のホスピス医であり院長でもあられた山形謙二医師から伺いました。
「人は治って死ぬことはできないが、癒されて死ぬことはできる。癒されるとは、自分自身と、他者、自分を取り巻く者、そして神との正しい関係を回復することである。…癒されて死ぬことは、次の五つの重要な言葉を表現することを含む。I love you(あなたを愛している); forgive me(私を赦してほしい); I forgive you(あなたを赦します); thank you(ありがとう); goodbye(さようなら)という言葉である。」
人生最後の、その意味では最も大切な時に、私たちが互いに表現すべき言葉として「赦してほしい」と「あなたを赦します」が入っていることは、大変興味深いと思います。互いに忍耐し合い、赦し合うことは、それ程大切だということを、改めて教えられます。
忍耐し、赦し合うということに関連して、私はポルトガルで作られたという作者不明の手紙を、もう大分前になりますが、人から教えられました。心に深く響きましたので、ご紹介します。すっかり年老いた親から、もう中年になっていると思われる子供たちに宛てた手紙です。
「 手紙 -親愛なる子供たちへ-
年老いた私が、ある日、今までの私と違っていたとしても、どうか、そのままの私のことを理解してほしい。私が服の上に食べ物をこぼしても、靴紐を結び忘れても、あなたに色んなことを教えたように、見守って欲しい。
あなたと話す時、同じ話を何度も何度も繰り返しても、その結果を、どうか、さえぎらずに頷いてほしい。あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本の温かな結末は、いつも同じでも、私の心を平和にしてくれた。
悲しいことではないんだ。消え去ってゆくように見える私の心へと、励ましの眼差しを向けてほしい。
楽しいひと時に、私が思わず下着を濡らしてしまったり、お風呂に入るのを嫌がる時には、思い出してほしい。あなたを追い回し、何度も着替えさせたり、様々な理由をつけて、嫌がるあなたとお風呂に入った、懐かしい日のことを。
悲しいことではないんだ。旅立ちの前の準備をしている私に、祝福の祈りを捧げてほしい。
いずれ歯も弱り、飲み込むことさえできなくなるかもしれない。足も衰えて立ち上がることすらできなくなったら、あなたが、か弱い足で立ち上がろうと、私に助けを求めたように、よろめく私に、どうか、あなたの手を握らせてほしい。
私の姿を見て悲しんだり、自分が無力だと思わないでほしい。あなたを抱き締める力がないのを知るのは辛いことだけど、私を理解して支えてくれる心だけを持っていてほしい。きっとそれだけでそれだけで、私には勇気が湧いてくるのです。
あなたの人生の始まりに、私がしっかりと付き合ったように、私の人生の終りに少しだけ付き合ってほしい。
あなたが生れてくれたことで私が受けた多くの喜びと、あなたに対する変らぬ愛をもって、笑顔で応えたい。
私の子供たちへ、愛する子供たちへ。 」
如何でしょうか。
ただただ私たち罪人を赦し、永遠の命を与えるために、神は御子イエスを十字架に付け、復活させられました。何という神の愛でしょうか。
ですから、私たちも、親子関係であれ、どんな関係であれ、責めるべきことがあっても、「互いに忍耐し合い、赦し合う」ということを深く胸に刻み、事実そうならせて頂きたいと思います。
1年を振り返り、新しい年を迎える今、特にこのことを覚えたいと思います。