聖書の言葉 1:14 言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネによる福音書 1章14節 メッセージ コロナ禍の1年でしたが、ご一緒にクリスマスを祝うことができ、神に感謝致します。 今日は神の御子イエスが、2千年前、人となって世に来られたことの意義を覚えたいと思います。 14節「言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」 「言葉」とは御子イエスのことです。「言葉は人となって」とあります。ここの「人」という言葉は、元のギリシア語では「肉」です。人間を意味しますが、肉から成る生身の人間というニュアンスがあります。そこで、昔から教会は、神の御子が人となられたことを「受肉」と呼び、その特別な意義を覚えて来ました。 では、それは何でしょうか。一つは、イエス・キリストが真(まこと)の神を見事に現されたことです。ヨハネは言います。14節「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である」と。 ヨハネは数年間イエスと共に過ごし、イエスの聖い(きよい)ご人格と教え、また大勢の病人を癒し、悪霊を追い出し、死者を甦らせるなど、驚くべき力を、間近で目撃しました。ヨハネはこの福音書を紀元1世紀末に書きましたが、かつての主イエスを回想しますと、神の栄光を見事に現された、としか言いようがなかったのでしょう。ですから、14節で「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である」と言います。つまり、神の御子が人となられた最も重要な目的の一つは、万物の創り主で栄光に満ちた真の神を私たちにハッキリ現わすためだったのです。 人間は罪の性質のために、天地を造られた真の神が分らなくなりました。しかし、神を求める気持は残っています。そこで色々な神々を考え出し、形にし、拝んできました。けれども、所詮それらは存在せず、何の力もない偶像に過ぎません。本気で偶像を信じ、依り頼んでいたら、最後はどうなるでしょうか。悲惨極まりないことになるでしょう。 憐れみ深い真の神は、そこで独り子を人間イエスとして世に遣わされ、イエスはその人格、言葉、数々の行いにより、父なる神を現されました。従って、私たちは今や真の神を知るために、むやみやたらな探求や難行苦行をすることなど、必要ありません。聖書が証言するイエス・キリストを、澄んだ心で見れば良いのです。イエスは言われます。ヨハネ14:9「私を見た人は、父を見たのです」と。神の御子が人となられた意義の第一は、罪のために分らなくなった私たちに、真の神を鮮やかに現し、示すためなのです。ここに神の愛があります。 意義の二つ目は、私たちを罪とその結果である永遠の死から救い、永遠の命という最高の宝物を与えることです。14節「この方は恵みとまことに満ちておられた。」 先程、イエスが創り主なる真の神を現すために人となられたことを学びました。しかし、どうでしょう。私たちは真の神を知ると、自分の罪深さを知って苦しくならないでしょうか。使徒パウロは言いました。ローマ7:15、24「私には、自分のしていることが分りません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。…私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」 10代の終りに、私は自分の生きる意味を求め、聖書の示す真の神を知って、神に近づきました。ところが、神のことが分るにつれて、罪の自覚がどんどん深まり、苦しくなりました。「神を知らなければ良かった」と思うことありさえました。 しかし、人となられた御子イエスが、自ら十字架に架かって私の罪を全部償って下さり、イエス・キリストにこそ私の罪の完全な解決があること、また私の生きる意味についての問いへの答のあることを知りました。そこで一切を神に委ねて洗礼を受け、クリスチャンになったのでした。 全知全能にして永遠者、絶対者なる真の神に、自分の将来も死と死後のことも全部委ね、イエスが示された真実な道を踏みしめて行けば良いことを知った喜びは、何物にも代えがたいものです。その喜びを、イエスは次のように例えておられます。マタイ13:44「天の御国(みくに)は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びの余り、持っている物全てを売り払い、その畑を買います。」 神の御子が人となられた意義の二つ目は、私たちを罪と永遠の死から救い、永遠の命と人の生きるべき真実な道という最高の宝物を与えて下さることです。ここにも神の愛があります。 三つ目を見て終ります。14節「この方は恵みとまことに満ちておられた。」 神の御子が人となってこの世に来られたことは、神が恵みとまこと、要するに愛をもって、とことん私たちと向き合い、私たちを理解し、受け入れ、助けて下さることを示しています。 20年近く前の12月の中頃、私は大阪梅田にある阪急グランドビルの上層階でお茶を飲んだ後、家内がお金を払っている間、一番西にある窓から暫く外を眺めていました。夕暮れ時で、遥か遠くに六甲山が黒いシルエットとなって見え、白い雲が淡いピンク色に染まっていました。目の前にはJR大阪駅の南に隣接する高いビルがよく見えました。 視線を下に移しますと、車がおもちゃのように小さく沢山見えました。更に西へ視線を伸ばしますと、大阪中央郵便局とその南にある道路や交差点が見えました。夕暮れ時の少々黄色っぽいピンク色に染まった道路に、人の小さな陰が沢山動き、クリスマス前のイルミネーションも道路に沿って沢山見え、幻想的でした。 私は交差点を渡る人たちの小さな黒い陰を何気なく見ていました。すると多分かなりの高齢者でしょう、ゆっくり渡る人がいました。ところが、途中で信号が黄色に変り、私は思わず心の中で「危ない、早く早く!」と言っていました。すると、おもちゃのように小さく見える自動車も何台か大人しく並び、その人が渡り終ってから静かに動きました。「あぁ、良かった」と思うと共に、私は遥か遠くの小さな陰としてしか見えないその人たちのことが、とても愛おしく思えました。 その時、思いました。「そうなんだ。神様もきっと天から小さな小さな私たちをご覧になり、私たちのことを、今、僕が感じた以上にもっと愛おしく思っておられるのだろうなぁ。」すると胸がジーンと熱くなり、「あぁ、人間は自分のことばかり考えていてはいけない。もっと労り(いたわり)合い、助け合わなければ」と改めて思いました。何か優しい気持になり、神の愛が改めて分ったように思い、平安で幸せな気分でした。 ところが、その後、家内とエレベーターで1階に降り、ドアが開き、大勢の人の前に立った時、私は全く違う感覚に捉えられ、驚きました。というのは、目の前には、一刻も早くエレベーターに乗り込みたくて険しい顔をした人や冷たそうな表情の人、お酒の入った赤い顔の乱暴で粗野な感じの人もいます。愛おしいとは到底思えませんでした。 私は、目の前にいた人たちにも自分自身にもがっかりしました。「あれ、さっきのあの僕の思いは何だったのか」と思いました。上の方から見たウンと遠くの顔の見えない一人一人の小さい人間のことは愛おしく思えても、目の前にいる等身大の生身の人間は全然違う。私は正直、自分自身の気持の変化にガッカリしました。 しかし、そこで改めて私は思いました。「そうなんだ。天の神様は、地上にいるまさにこんな私たちの中に御子イエスを送られ、イエスはこの世の現実の真只中を歩まれ、しかも自分さえ良ければという自己中心な罪人である等身大の私たちに丸ごと向き合い、なお愛して下さったのだ。しかも、私たちを罪と永遠の滅びから救うため、イエスは自ら進んで私たちの罪を背負い、十字架で命を献げて下さったのだ。あぁ、何という神様の愛なのか」と、頭をガーンと殴られたような衝撃を受けました。 遠くのよく知らない人、顔の見えない人間を愛することは簡単です。しかし、顔形も性格も色々なこともよく分っている身近な生身の人間を愛することは、どんなに難しいでしょう。しかし、神が愛しておられるのは、まさしくそういう私たちなのです。何という神の愛でしょうか。 この神の愛を私たちが心底覚える時、きっと私たちの中で何かが変り始めると思います。 御子イエスが人となって世に来られたことの意義を改めて覚え、よく考え、主イエス・キリストに導かれながら、私たちもこの神の愛に応える者に、是非されたいと思います。 関連する説教を探す 2021年の祈祷会 『ヨハネによる福音書』
コロナ禍の1年でしたが、ご一緒にクリスマスを祝うことができ、神に感謝致します。
今日は神の御子イエスが、2千年前、人となって世に来られたことの意義を覚えたいと思います。
14節「言葉は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
「言葉」とは御子イエスのことです。「言葉は人となって」とあります。ここの「人」という言葉は、元のギリシア語では「肉」です。人間を意味しますが、肉から成る生身の人間というニュアンスがあります。そこで、昔から教会は、神の御子が人となられたことを「受肉」と呼び、その特別な意義を覚えて来ました。
では、それは何でしょうか。一つは、イエス・キリストが真(まこと)の神を見事に現されたことです。ヨハネは言います。14節「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である」と。
ヨハネは数年間イエスと共に過ごし、イエスの聖い(きよい)ご人格と教え、また大勢の病人を癒し、悪霊を追い出し、死者を甦らせるなど、驚くべき力を、間近で目撃しました。ヨハネはこの福音書を紀元1世紀末に書きましたが、かつての主イエスを回想しますと、神の栄光を見事に現された、としか言いようがなかったのでしょう。ですから、14節で「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である」と言います。つまり、神の御子が人となられた最も重要な目的の一つは、万物の創り主で栄光に満ちた真の神を私たちにハッキリ現わすためだったのです。
人間は罪の性質のために、天地を造られた真の神が分らなくなりました。しかし、神を求める気持は残っています。そこで色々な神々を考え出し、形にし、拝んできました。けれども、所詮それらは存在せず、何の力もない偶像に過ぎません。本気で偶像を信じ、依り頼んでいたら、最後はどうなるでしょうか。悲惨極まりないことになるでしょう。
憐れみ深い真の神は、そこで独り子を人間イエスとして世に遣わされ、イエスはその人格、言葉、数々の行いにより、父なる神を現されました。従って、私たちは今や真の神を知るために、むやみやたらな探求や難行苦行をすることなど、必要ありません。聖書が証言するイエス・キリストを、澄んだ心で見れば良いのです。イエスは言われます。ヨハネ14:9「私を見た人は、父を見たのです」と。神の御子が人となられた意義の第一は、罪のために分らなくなった私たちに、真の神を鮮やかに現し、示すためなのです。ここに神の愛があります。
意義の二つ目は、私たちを罪とその結果である永遠の死から救い、永遠の命という最高の宝物を与えることです。14節「この方は恵みとまことに満ちておられた。」
先程、イエスが創り主なる真の神を現すために人となられたことを学びました。しかし、どうでしょう。私たちは真の神を知ると、自分の罪深さを知って苦しくならないでしょうか。使徒パウロは言いました。ローマ7:15、24「私には、自分のしていることが分りません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。…私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。」
10代の終りに、私は自分の生きる意味を求め、聖書の示す真の神を知って、神に近づきました。ところが、神のことが分るにつれて、罪の自覚がどんどん深まり、苦しくなりました。「神を知らなければ良かった」と思うことありさえました。
しかし、人となられた御子イエスが、自ら十字架に架かって私の罪を全部償って下さり、イエス・キリストにこそ私の罪の完全な解決があること、また私の生きる意味についての問いへの答のあることを知りました。そこで一切を神に委ねて洗礼を受け、クリスチャンになったのでした。
全知全能にして永遠者、絶対者なる真の神に、自分の将来も死と死後のことも全部委ね、イエスが示された真実な道を踏みしめて行けば良いことを知った喜びは、何物にも代えがたいものです。その喜びを、イエスは次のように例えておられます。マタイ13:44「天の御国(みくに)は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びの余り、持っている物全てを売り払い、その畑を買います。」
神の御子が人となられた意義の二つ目は、私たちを罪と永遠の死から救い、永遠の命と人の生きるべき真実な道という最高の宝物を与えて下さることです。ここにも神の愛があります。
三つ目を見て終ります。14節「この方は恵みとまことに満ちておられた。」
神の御子が人となってこの世に来られたことは、神が恵みとまこと、要するに愛をもって、とことん私たちと向き合い、私たちを理解し、受け入れ、助けて下さることを示しています。
20年近く前の12月の中頃、私は大阪梅田にある阪急グランドビルの上層階でお茶を飲んだ後、家内がお金を払っている間、一番西にある窓から暫く外を眺めていました。夕暮れ時で、遥か遠くに六甲山が黒いシルエットとなって見え、白い雲が淡いピンク色に染まっていました。目の前にはJR大阪駅の南に隣接する高いビルがよく見えました。
視線を下に移しますと、車がおもちゃのように小さく沢山見えました。更に西へ視線を伸ばしますと、大阪中央郵便局とその南にある道路や交差点が見えました。夕暮れ時の少々黄色っぽいピンク色に染まった道路に、人の小さな陰が沢山動き、クリスマス前のイルミネーションも道路に沿って沢山見え、幻想的でした。
私は交差点を渡る人たちの小さな黒い陰を何気なく見ていました。すると多分かなりの高齢者でしょう、ゆっくり渡る人がいました。ところが、途中で信号が黄色に変り、私は思わず心の中で「危ない、早く早く!」と言っていました。すると、おもちゃのように小さく見える自動車も何台か大人しく並び、その人が渡り終ってから静かに動きました。「あぁ、良かった」と思うと共に、私は遥か遠くの小さな陰としてしか見えないその人たちのことが、とても愛おしく思えました。
その時、思いました。「そうなんだ。神様もきっと天から小さな小さな私たちをご覧になり、私たちのことを、今、僕が感じた以上にもっと愛おしく思っておられるのだろうなぁ。」すると胸がジーンと熱くなり、「あぁ、人間は自分のことばかり考えていてはいけない。もっと労り(いたわり)合い、助け合わなければ」と改めて思いました。何か優しい気持になり、神の愛が改めて分ったように思い、平安で幸せな気分でした。
ところが、その後、家内とエレベーターで1階に降り、ドアが開き、大勢の人の前に立った時、私は全く違う感覚に捉えられ、驚きました。というのは、目の前には、一刻も早くエレベーターに乗り込みたくて険しい顔をした人や冷たそうな表情の人、お酒の入った赤い顔の乱暴で粗野な感じの人もいます。愛おしいとは到底思えませんでした。
私は、目の前にいた人たちにも自分自身にもがっかりしました。「あれ、さっきのあの僕の思いは何だったのか」と思いました。上の方から見たウンと遠くの顔の見えない一人一人の小さい人間のことは愛おしく思えても、目の前にいる等身大の生身の人間は全然違う。私は正直、自分自身の気持の変化にガッカリしました。
しかし、そこで改めて私は思いました。「そうなんだ。天の神様は、地上にいるまさにこんな私たちの中に御子イエスを送られ、イエスはこの世の現実の真只中を歩まれ、しかも自分さえ良ければという自己中心な罪人である等身大の私たちに丸ごと向き合い、なお愛して下さったのだ。しかも、私たちを罪と永遠の滅びから救うため、イエスは自ら進んで私たちの罪を背負い、十字架で命を献げて下さったのだ。あぁ、何という神様の愛なのか」と、頭をガーンと殴られたような衝撃を受けました。
遠くのよく知らない人、顔の見えない人間を愛することは簡単です。しかし、顔形も性格も色々なこともよく分っている身近な生身の人間を愛することは、どんなに難しいでしょう。しかし、神が愛しておられるのは、まさしくそういう私たちなのです。何という神の愛でしょうか。
この神の愛を私たちが心底覚える時、きっと私たちの中で何かが変り始めると思います。
御子イエスが人となって世に来られたことの意義を改めて覚え、よく考え、主イエス・キリストに導かれながら、私たちもこの神の愛に応える者に、是非されたいと思います。