2021年11月21日「キリストの愛を持つ」

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聖句のアイコン聖書の言葉

13:1たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならやみます。知識ならばすたれます。
13:9というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12今、私たちは鏡にぼんやりと映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。コリントの信徒への手紙一 13章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

1.  序論

おはようございます。神戸改革派神学校4年生の伊藤築志と申します。本日はお招きいただき、ともに礼拝をおささげできる機会が与えられたことを神様に感謝しています。

1.1.  パウロが手紙を書いた背景

「コリント人への手紙第一」は、使徒パウロがコリントという大きな港町にある教会に書き送った手紙です。これは、コリントの教会が抱えていた問題を一つ一つ指摘し、それに対する解決を示す、そういう手紙です。ただ、その中で少々特殊なのが先ほど朗読した13章です。

 13章では、教会の具体的な問題は指摘されません。その代わりに、ひたすら、「愛」についての素晴らしさが詠われているのです。ギリシャ語原文はまさに美しい詩文ですし、日本語聖書でも、訳によっては、この御言葉は詩文として訳されています(フランシスコ会訳、など)。また、今日は歌いませんが、讃美歌21の201番は、原文の雰囲気を汲んで、この13章をそのまま歌うような讃美歌です。このように、今の日本の教会にも、第一コリント13章を歌う文化があります。パウロは、コリント教会の問題を指摘する厳しい手紙の中に、美しい歌を差し込んだわけです。

 パウロが示した問題解決の方法は、「愛」を基とする教会を形成することでした。ですから、その「愛」とは何なのかを示すため、また繰り返し歌って記憶させるために、この13章の歌が差し込まれたのではないかと考えられます。

1.2.  真実の愛とは? ~アナ雪に見る一般的理解~

 先日、テレビで、2013年のディズニー映画「アナと雪の女王」が放送されているのを見ました。「アナ雪」と呼ばれて、日本でも大きな反響を呼んだ映画です。この映画のストーリーは、それまでのディズニー映画とは違っていて、男女の愛ではなくて姉妹の愛、主人公のアナとそのお姉さんとの愛をテーマとしたものです。映画のクライマックスで、妹のアナは身を挺して、お姉さんの命を助けます。その、妹の自己犠牲の愛が「真実の愛」だったのだというのが、その映画の結論です。

 一つ、映画が深入りできていなかった問いがあります。それは、「自分を犠牲にして他者を助ける」という妹アナの愛の源泉が、いったいどこにあるのかという問いです。パウロが聖霊に導かれて差し込んだ、13章の美しい詩は、その問いに応えることができる詩です。今日は、この13章の詩を共に味わいたいと願っています。

2.  本論

2.1.  愛を持たなければ…(1-3節)

 1節。「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです」。

 「異言」は、恍惚状態で語る雄弁なスピーチと言い換えてもよいでしょう。

 「人の異言や御使いの異言」。人のスピーチだけでなく、天使のスピーチかと思うような優れたスピーチであっても、語る人に愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバル、つまり美しい音色を奏でない、雑音や騒音と同じなのです。

 2節。「たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」

 預言の賜物は、神の言葉を語る賜物です。使徒パウロも預言をしました。そのような特別な賜物が神から与えられていたとしても、パウロに愛がなかったら、パウロは無価値、なのです。

 「あらゆる奥義とあらゆる知識」。奥義というのは、私たち人間には隠されている、神様だけが知っている事柄です。そして知識は、人間も知ることのできる事柄です。奥義と知識を全部知っていたら、それはもう、人間以上の、まるで神に並ぶかのような存在です。にもかかわらず、そこに愛がなかったら、無価値です。

 「山を動かすほどの完全な信仰」。この表現は、マタイによる福音書17章20節でイエス様が「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」と言われたことに由来します。たとえ神の賜物によって奇跡を起こせたとしても、愛がないなら、パウロは無価値です。

 3節。「たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 自分の持ち物や自分自身を犠牲にして他者を助けたとしても、美しいアナ雪のストーリーのようであっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 パウロはこのように、「たとえ私が」何々だったとしても「愛がなければ」「騒音だ、無に等しい、何の役にも立たない」と言います。パウロの声が美しく響き、パウロに価値があり、パウロが役に立つためには、愛がなければならない、と言うわけです。1節から3節で「愛がなければ」と言われているのは、原文を直訳すると「私が愛を持たなければ」という言葉です。主語は「私」です。愛は、その人が自分で「持つ」ものなのです。「私」と無関係に、愛が居たり居なかったりする、というのではありません。愛の話をするときは、愛する側の「私」の主体性が問われます。

2.2.  愛は私由来のものではない(4-7節)

 さて、4節から7節では、愛の素晴らしい性質が詠われます。

 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」

 この御言葉を読んで、私は、「自分の利益を求めず」という言葉にハッとさせられました。自分を差し置いて人の利益を最優先にすることは難しいことです。早い者勝ちのものには飛びつきたいし、人にゆずるときは厭々・渋々することが多いです。それだけでなく、人に対して寛容か。親切か。妬まず自慢せず高慢でなく無礼でないか。苛立たず、人がした悪を根に持たないか。悪役にぎゃふんと言わせる、半沢直樹のドラマを見てなんだかスカッとする、そういう自分がいるんです。この、4節から7節の愛の行いを詠うたびに、自分の内には愛が決定的に欠けているのだと思い知らされます。真理を喜んで、神様の救いを見据えつつ、どんな時も落胆しないで全てを耐え、信じ、望み、忍んでいるか。このような愛を自分で持つかと問われたとき、「持たない」と告白せざるを得ません。もし「持つ」と答えられるとしたら、その時、既に高慢の罠に堕ちてしまっているのではないかと思います。

 しかし私たちキリスト者は、この愛を持つお方を一人、存じ上げています。イエス・キリストです。キリストは、神の御子〔という神と同等の存在〕として、人々の上に君臨し、ふんぞり返っておられるお方ではありません。キリストは、ご自身がお持ちの、その愛の行いとして、今も私たちに惜しみなくお仕え下さっています。ご自身の命さえも犠牲にして、私たちに永遠の命を与えてくださいました。キリストが愛を持っておられなければ、私たちが救われることはあり得ませんでした。

 先ほども申し上げました通り、パウロは、「私が愛を持つ」という表現で詠っています。「私は罪人のかしらです」と告白するパウロ自身も、「以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者だった(一テモテ1:13)」と告白しています。彼もかつては、この13章で詠われる美しい愛を持たなかったのです。しかし今、彼は「私が愛を持たなければ」と、愛を持つ主体は自分だという表現で詠うことができます。なぜなら、聖霊がパウロに下った時、パウロは聖霊によって、キリストに結びつけられ(ウェストミンスター信仰告白26:1)、キリストにある愛が彼に充ち溢れた(一テモテ1:14)からです。それで、パウロ自身もキリストの愛を持つ、という道が開かれたわけです。

2.3.  愛は永遠に属するもの(8-13節)

 8節から10節。「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」

 ここで愛は、預言、異言、知識と対比されて、「決して絶えることがない」と力強く詠われます。

 パウロは12章や14章で、預言や異言や知識は神様がキリスト者に与えてくださった賜物なのだ、と教えています。教会の中で異言が重んじられることはありませんが、そうであっても、預言も、異言も、知識も、キリスト者が神様から頂く恵みなのです。しかしそれらは、いずれ「完全なものが現れるとき」には、すたれるのです。それらがすたれるのは、悪いものだからではありません。「部分的なもの」だからです。

 「完全なものが現れるとき」が、具体的にどういう時なのかというと、それは「人間に隠されていた奥義が明らかになるとき」です。それをわかりやすく喩えたのが、11節と12節の御言葉です。

 まず、11節。「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。」

 神様しか知らない奥義を、私たちは知りません。それは発達の途上にある子どもたちが、成熟した大人と同じような知識を持たないのと似ています。また、大人になったら、幼なかった時の振舞い、おしゃぶりをなめるとかわがままを言って泣きわめくとかの振舞いは、やめるものです。

 続いて12節。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

 コリントの町の工業製品の一つに、青銅をピカピカに磨いた鏡があったようです。それは手鏡のような大きさで、今私たちが使っている物よりも、おぼろげにしか映せなかったようです。鏡で見る自分の顔は、直接見るのとは違って間接的で、おぼろげで、部分的なものです。同じように、「奥義」が、私たちにはまだ隠されていますので、私たちの知識も部分的でおぼろげです。しかし、顔と顔とを合わせるようにして、神様の御顔までを、また今まで隠されていた奥義までを完全に知り尽くすことができるときが、必ず来ます。その時、今の私たちの預言や異言や知識は部分的ですから、過去のものとして過ぎ去ります。完全なものが現れたら、たとえ預言や知識のような良いものであっても、部分的なものは、すたれるのです。

 しかし、愛は、完全なものが現れても、古いものとして絶えることは決してありません。そういう意味でも、愛は、不完全で部分的な状態にある人間から生じるわけがなくて、完全な、神である、キリストからしか生じないのだと理解することができます。

 13節。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」

 信仰も希望も、愛と同様に、キリストから生じるものです。私たち人間の内から湧き出るものではなく、与えられるものです。この中でも信仰は、人間に義認の恵みを受け取らせる、とても優れた賜物です。信仰のない愛の行いによっては、人が義認され、永遠の命へと導かれることはありませんので、その点で、信仰は愛より優れた賜物だと言えるでしょう。

 しかし、そうであってもなお、パウロは「その中で一番すぐれているのは愛です」と詠いきります。そのこころはつまり、今、問題だらけの教会を再建するという大きな課題に立ち向かう時には、「神への信仰」「神への希望」だけではなく、「神に持たされた愛・キリストの愛」をキリストに結びつけられた者として持つことが不可欠だ、ということです。

 愛は、神だけでなく、人にも向かう行動です。私と神、という二者の関係だけでは、教会は形成されません。人と人同士のつながりがなく、個人プレーの信仰生活となります。しかし、キリストの体・信仰者の居場所であるところの教会は、人と人同士の愛の交わりによって、つまり、互いの益のために愛による行動を行い合うことによって形成されてゆくのです。

3.  結論

3.1.  私たちに愛を持たせてくれる方キリスト

 神様と顔と顔とを向かい合わせて、神様を喜ぶ、終末の完成を私たちキリスト者は待ち望みます。しかし、それまでは、部分的な知識に留まって、忍耐しなければならないことも多くあります。愛に関する知識も今は部分的です。その中で、真実の愛とは何だろうか、という問いは、私たち人間にとって、キリスト者にとっても未信者にとっても普遍的な問いです。それは自分よりも相手を大事にすることだよ、というのが、社会の中での一つの理解であるように思います。しかし、「その愛はどこにあるの?」という問いに、キリスト抜きでは答えられません。愛が、キリストからしか生じないからです。

 「真実の愛はどこにあるの?」、その答えを人間に与えるのは、愛の源泉である神様の御言葉、聖書だけです。そしてその答えは、「愛はどこそこにある」というものではなくて、「キリストに結びつけられた私が、キリストの愛を持つ」のだという事です。

 パウロの営み、そしてコリントの教会が為す営みも同様ですが、キリストの愛を持たなければ、その営みは騒音です。無意味なものです。自分自身にとっても何の利益ももたらさないものです。問題だらけのコリント教会の再建のためには、教会自身が、キリストの愛に満たされる必要がありました。そのことを、パウロはこの美しい詩を用いて教えたのです。

 愛は、人間の内からは生じません。しかし、キリストに結びつけられたキリスト者一人一人は、キリストの愛に満たされて、キリストの愛を持つようにされています。元は愛から程遠い罪人であっても、キリストの愛が、私たちの声を美しくし、私たち自身を価値のある、役に立つものに変えています。愛という、このすぐれた神様からの恵みは、決して絶えることがありません。

 「私たちは、キリストに結びつけられ、愛を持つようにされている。」そうしてくださった神様に感謝しつつ、この週も歩んでまいりましょう。

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