最も幸いな道
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 13章1節~7節
13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。コリントの信徒への手紙一 13章1節~7節
コロナ禍が続く中、本日はようこそお越し下さいました。心より感謝致します。「最も幸いな道」と題して、ひと時、お話させていただきます。
「幸いな道」と申しました。たまたま私たちがすごく美味しい物や美しい景色に巡り合い、あるいは素敵な人に会い、「あぁ嬉しい、ラッキー」と思うのも幸いですが、今心に留めたいのは、真(しん)に幸いな「歩み方、生き方」のことです。
これは人によって異なり、同じ人でも若い時と歳を取ってからでは違いますが、今考えたいことは、本当は誰にとっても大切で、しかも私たちの一生を通じて変らない真(しん)に幸いな生き方についてです。
そこで、いきなりですが、聖書がどう教えているかを見たいと思います。
先程、Ⅰコリント13:1~7を読みました。ここは、天地を創られた真(まこと)の神を無視し、自己中心に生きる私たち人間を罪と永遠の死から救うためにこの世に来られた神の御子イエスを救い主と信じるコリント教会の人々に、パウロが書いた所です。
色々なことを教えて来たパウロは、12:31の最後に「私は今、遥かにまさる道を示しましょう」と書き、神から示されたことを13:1から書きます。では、「遥かにまさる道」、つまり、人として最も幸いなあり方とは何でしょうか。もうお分りのように、それは結局「愛」なのです。ここでは特に人への愛の決定的重要性を教えます。
まず1、2節で色々なことを言いますが、要は宗教的にどんなに優れた力があり、神知識も見事で、すごく強い信仰があったとしても、「愛がないなら、私は無に等しい」と、自分を例に挙げてパウロは教えます。
また3節では、普通の人には到底真似のできない、例えば、自分の大切な持物を全部人に分け与え、それどころか、自分の命を献げる程の犠牲的行為をしたとしても、「愛がなければ、何の役にも立ちません」と言います。
こうして、神に導かれたパウロは、1~3節で、普通は人からすごく立派なことと言われ、賞賛されるようなことであっても、愛がなければ、私たちが行うことは全て、無意味で自己満足に過ぎないと、力を込めて語ります。
ここを読んで私たちは少々驚き、「ここまで言うのか」と思うかも知れません。しかし同時に、私たち人間の行いの本当の所を深く考えさせられると思います。つまり、恐らく誰の内にも大なり小なり潜む、人から高く評価され、誉められたいという自分中心な思いから行う、その欺瞞性とか、ただ義務感だけで何かをする冷たさ、空虚さについて考えさせられます。
次にパウロは、愛を具体的に教えます。4節「愛は寛容であり、愛は親切です。」確かに愛はすぐ人を裁いたり切り捨てたりせず、寛容です。困っている人に手を差し伸べ、優しく親切です。
しかし4節後半から、パウロは愛について否定的な角度から語ります。すなわち、愛は「人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜」びません。この通りですね。人を妬み、自慢し、高慢で、礼儀に反することをし、自分の利益を求め、よく苛立ち、人がした悪をしつこく心に留め、良くないことをして喜ぶ。ここには、人への愛はなく、自分のことしか頭にありません。これらは、天の父なる神が私たちに期待しておられる愛とは真逆(まぎゃく)です。利己的で罪深いです。
ここまで来て、パウロは6節後半から再び愛の積極的な面を語ります。愛は、6節「真理を喜びます。全てを耐え、全てを信じ、全てを望み、全てを忍びます。」確かに自分に愛がある時、私たちは真理を尊び、人に対して真実です。また狭くて性急な心でではなく、大きな心でゆっくり忍耐し、期待しながら、人を待って上げ、受け入れて上げられます。愛は、こうして私たちに温かく穏やかで、また積極的な心で人を尊ぶことを可能にします。
これは人間として何と美しく真実で、私たちにとっても何と幸いでしょうか。聖書によれば、これこそ、人間を愛をもって造られた真(まこと)の神が、私たちに最も期待し、喜ばれることなのです。
実はパウロはこの後も書き、最後の13節はこうです。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番優れているのは愛です。」
神が下さる信仰と希望と愛は、いつまでも残る本当に尊いものであり、特に私たちが人と共に生きる上で最も尊いのは愛だと言います。天国は愛に満ち満ちた世界に他なりません。
こうして色々なことが起る日常のことはともあれ、愛こそが私たちの一生を貫き、また絶えず私たちが立ち戻るべき、最も幸いな道であることがよく分ると思います。このことを聖書全巻は教えています。
では、愛は何故これ程尊いのでしょうか。それは人間を創られた神御自身がそうだからです。Ⅰヨハネ4:8~11は言います。「神は愛だからです。/神はその独り子を世に遣わし、その方によって私たちに命を得させて下さいました。それによって、神の愛が私たちに示されたのです。/私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥め(なだめ)の捧げ物としての御子を遣わされました。ここに愛があります。/愛する者たち。神がこれ程までに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」
私たちの全生涯を通じて最も幸いな道が、結局、愛であることを、聖書は教えます。
世間でしばしば考えられている幸いな人生は、どういうものでしょうか。好きな物を食べ、好きなことができ、毎日元気で楽しい!仕事もでき、社会的地位を得、人から一目置かれる!顔もスタイルも良く、皆に人気がある!こういうことでしょうか。
それらも悪くはありません。しかし、それらはやがて全部失われます。Ⅰペテロ1:24は言います。「人は皆草のよう。その栄えは皆草のようだ。草はしおれ、花は散る。」
生き甲斐がそれだけなら、何と空しいでしょうか。また、それらは自分を喜ばせるだけで、人のことは二の次です。自分のことだけです。実は、こういう生き方は私たちの人間性を低め、その貧弱さは長い間に私たちの顔にも現れます。怖いです。
一方、私たちが自己中心の罪を認め、悔い改め、イエス・キリストを心から信じて神の子とされ、イエスに導かれて少しでも愛に生きるなら、どうでしょうか。神は、第一に、私たちの人格を高め、徐々に清めて下さいます。第二に、何らかの理由で深く傷つけられた私たちの心も神は癒し、健やかなものに回復して下さいます。第三に、そんな私たちの愛を用いて、神は更に他の人にも手を差し伸べ、慰め、信仰と希望と愛に生きる幸いな人に導いて下さいます。
大分前になりますが、テレビでアメリカのある少年院での話が放映されていました。職員の皆が、何とか更生させたい少年がいました。しかし、彼の心は荒れていて、しょっちゅう他の少年と喧嘩をし、手がつけられない状態でした。
ある時、彼に1匹の捨て犬の世話をさせました。彼は、犬の世話など馬鹿らしくて、当然、いい加減にやっていました。その犬は前の持ち主に虐待されていたため、彼になかなか近づきません。しかし、徐々に近づき、彼を頼るようになりました。すると、彼も自分に信頼を寄せるその犬が段々可愛くなり、世話をするようになりました。そうすると、いつしか彼自身が癒され、変えられたのでした。最後に現在の彼が登場し、いい顔に変っていましたし、今は人を助ける良い働きをしていました。
私は、愛に生きることは他者を支え、救い、癒すだけでなく、自分自身の傷ついた心も癒され、人格的に成長させられることを改めて教えられました。
またⅠコリント13:7に「愛は全てを耐え、…全てを忍」ぶとあります。愛は私たちを人のために本当に強くします。淀川キリスト教病院に勤めていた時に私が関ったある女性は、ホスピスでイエス・キリストを信じ、洗礼を受けて亡くなりました。ご自分のことは全て神に委ねておられましたが、残される夫を心配し、最後の最後まで祈り続けられました。本当に強かった。
愛のないことは何と不幸でしょうか。人への関心は薄れ、人と共に喜び、共に泣くという幸いも遠のきます。人の良い点も神のことも分らなくなり、真、善、美への感動や喜びも薄れ、人は段々離れ、寂しい終りを迎えざるを得ません。何と不幸なことでしょう。
一方、私たち罪人を尚も愛して下さる神の御子イエスを幼子のように信じ、常に人のことを思い、愛に生きた人はどうでしょうか。ヒトラーに抵抗し、1945年4月9日、フロッセンビュルク強制収容所で処刑された牧師ボンヘッファーの最後の言葉はこうでした。「これが最期です。私にとっては命の始まりです。」
2005年のヨーロッパ緩和医療学会の基調講演でR.トゥワイクロス博士(オクスフォード大学緩和ケア学講座初代教授)は、人が人として完成されて死ぬための重要な言葉を五つ上げました。I love you(愛している、好きだよ); forgive me(赦してね、ご免ね); I forgive you(赦すよ、もういいよ); thank you(ありがとう); goodbye(さようなら。Goodbyeの本来の意味は「神が共におられるように」)です。人間の一番大切な人生最期の時に最も尊いこと!結局、それも愛だということが、よく分ると思います。
御子イエスをプレゼントして下さった程に、私たちを愛しておられる天の父なる神を仰ぎ、神の子とされ、また聖書からいつもイエス様に教えられ、手を握られ、励まされながら、この最も幸いな道を、是非、ご一緒に歩みたいと思います。