聖書の言葉 5:19 詩と賛歌と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向って心から賛美し、歌いなさい。エフェソの信徒への手紙 5章19節 メッセージ 祈りについて学んでいます。23回目の今日も賛美について学びます。 前回は、賛美歌が音楽による祈りであり、その歴史は非常に古く、旧約時代、新約時代、古代教会時代、中世、宗教改革時代を経て、今に至っていることなどを見ました。今日は、宗教改革者カルヴァンが、著書『キリスト教綱要』第Ⅲ篇20章で祈りについて書いていることを見ながら、賛美を歌うことについて学びたいと思う。 カルヴァンは20章31、32節で「祈りを口に出すこと、歌うこと、教会が歌唱すること」という内容を書いています。31節はこんな手厳しい言葉で始まります。「声や歌も、心の崇高な感情から迸り(ほとばしり」出るものでなければ、神の前には何の意味もなく糸一本程にも役立たないことは余りにも明白である。」 ここには、当時の教会とその前の中世の時代の状況が背景にあります。賛美はしているが、心がこもらず、神への崇高な感情も伴っていない、という残念な状況です。 カルヴァンは続けて、「せいぜい口先と喉から出るだけのものなら、それは聖なる御名を妄り(みだり」に用い、その尊厳を嘲笑うのであるから、我々に対する神の怒りを引き起す他ない」とまで言います。 彼が宗教改革に奔走したジュネーブの教会でも、最初の頃は、今の私たちには想像もできない位、ひどい様子が見られたことが分っています。カルヴァンがこうまで強く言うことも理解できると思います。 では、今日の教会と私たちはどうでしょうか。賛美の時、それを神への賛美、感謝、信仰告白、神への訴え、或いは嘆願などの祈りとして、本当に心を込め、声と言葉を一人一人が発しているでしょうか。 無論、未信者の方にそれが無理なのは当然です。また信者であっても、歌詞や曲に不慣れな新しい賛美歌の場合も同じく無理でしょう。 しかし、もう何十回も礼拝で歌ってきた賛美歌の場合、私たちの賛美はどうでしょうか。無論、元々音楽がすごく苦手な上に、目も悪く、歌詞を十分に目で追えないとか、その日の体調がひどく悪い時などは、やむを得ません。しかし、そうではなく、歌詞も曲も分っていて、歌おうと思えば、チャンと歌える場合の、自分の様子を振り返ってみたいと思うのです。歌声の大きさや流麗な歌い方以上に、カルヴァンが言いますように、本当に心を込め、また神への崇高な感情をもって歌っているかどうかという点で、改めて夫々が自らに問うてみたいと思うのです。そしてこのことに、今後意識的に努めるならば、私たちの賛美はますます真実な神賛美になり、神はどんなに喜ばれることでしょうか。カルヴァンが厳しい問いかけをしたのも、あくまで私たちの神賛美が、より真実なものとなるために他なりません。 そこで、彼が31節で続けて書いていることをもう少し紹介致します。教えられ、考えさせられると思います。彼は言います。「だが、我々がこう言うのは、声あるいは歌そのものを断罪するためではない。むしろ、心からの感情が伴っているならば、我々はこれを非常に強く推奨する。なぜなら、このようにしてこそ精神を神への思いに修練させ、集中を維持することができるからである。精神というものは、様々の補助手段によって支えられるのでなければ、容易に逆戻りしたりバラバラに引きちぎられたりするほど不確かで移り気なものである。」 カルヴァンは、要するに、神への祈りの集中と持続性という点で、賛美の持つ力を語ります。興味深いですね。続けます。 「なおその上に、神の栄光は我々の身体の一つ一つの部分において多少とも輝き出るべきであるが、わけても舌は、歌ったり語ったりすることによってこの職務に当てられまた奉献されるに相応しい。なぜなら舌は、神の賛美を物語りかつ宣べ伝えるために特別に定められたものだからである。しかし、舌の重要な用益は、信仰者の集いの中で行なわれる公の祈りである。我々が一つの霊・同一の信仰をもって礼拝する時に、この祈りによって声を一つにし、あたかも同じ口のようにして神に栄光を帰するのであり、また公に全ての者が互いにその兄弟から信仰の告白を受け、その模範によって促され、励まされるのである。」 舌は神賛美のために特別に定められた体の器官であること、またその舌による公同の祈りや声を発して歌う賛美により、皆で神に栄光を帰し、私たちは互いに信仰を促され励まされる、と言います。何と大事なことでしょうか。 パウロは言います。エペソ5:19「詩と賛歌と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向って心から賛美し、歌いなさい。」 皆で歌う神賛美を、改めて夫々がハッキリ自分の中に位置づけたいと思います。 関連する説教を探す 2021年の祈祷会 『エフェソの信徒への手紙』
祈りについて学んでいます。23回目の今日も賛美について学びます。
前回は、賛美歌が音楽による祈りであり、その歴史は非常に古く、旧約時代、新約時代、古代教会時代、中世、宗教改革時代を経て、今に至っていることなどを見ました。今日は、宗教改革者カルヴァンが、著書『キリスト教綱要』第Ⅲ篇20章で祈りについて書いていることを見ながら、賛美を歌うことについて学びたいと思う。
カルヴァンは20章31、32節で「祈りを口に出すこと、歌うこと、教会が歌唱すること」という内容を書いています。31節はこんな手厳しい言葉で始まります。「声や歌も、心の崇高な感情から迸り(ほとばしり」出るものでなければ、神の前には何の意味もなく糸一本程にも役立たないことは余りにも明白である。」
ここには、当時の教会とその前の中世の時代の状況が背景にあります。賛美はしているが、心がこもらず、神への崇高な感情も伴っていない、という残念な状況です。
カルヴァンは続けて、「せいぜい口先と喉から出るだけのものなら、それは聖なる御名を妄り(みだり」に用い、その尊厳を嘲笑うのであるから、我々に対する神の怒りを引き起す他ない」とまで言います。
彼が宗教改革に奔走したジュネーブの教会でも、最初の頃は、今の私たちには想像もできない位、ひどい様子が見られたことが分っています。カルヴァンがこうまで強く言うことも理解できると思います。
では、今日の教会と私たちはどうでしょうか。賛美の時、それを神への賛美、感謝、信仰告白、神への訴え、或いは嘆願などの祈りとして、本当に心を込め、声と言葉を一人一人が発しているでしょうか。
無論、未信者の方にそれが無理なのは当然です。また信者であっても、歌詞や曲に不慣れな新しい賛美歌の場合も同じく無理でしょう。
しかし、もう何十回も礼拝で歌ってきた賛美歌の場合、私たちの賛美はどうでしょうか。無論、元々音楽がすごく苦手な上に、目も悪く、歌詞を十分に目で追えないとか、その日の体調がひどく悪い時などは、やむを得ません。しかし、そうではなく、歌詞も曲も分っていて、歌おうと思えば、チャンと歌える場合の、自分の様子を振り返ってみたいと思うのです。歌声の大きさや流麗な歌い方以上に、カルヴァンが言いますように、本当に心を込め、また神への崇高な感情をもって歌っているかどうかという点で、改めて夫々が自らに問うてみたいと思うのです。そしてこのことに、今後意識的に努めるならば、私たちの賛美はますます真実な神賛美になり、神はどんなに喜ばれることでしょうか。カルヴァンが厳しい問いかけをしたのも、あくまで私たちの神賛美が、より真実なものとなるために他なりません。
そこで、彼が31節で続けて書いていることをもう少し紹介致します。教えられ、考えさせられると思います。彼は言います。「だが、我々がこう言うのは、声あるいは歌そのものを断罪するためではない。むしろ、心からの感情が伴っているならば、我々はこれを非常に強く推奨する。なぜなら、このようにしてこそ精神を神への思いに修練させ、集中を維持することができるからである。精神というものは、様々の補助手段によって支えられるのでなければ、容易に逆戻りしたりバラバラに引きちぎられたりするほど不確かで移り気なものである。」
カルヴァンは、要するに、神への祈りの集中と持続性という点で、賛美の持つ力を語ります。興味深いですね。続けます。
「なおその上に、神の栄光は我々の身体の一つ一つの部分において多少とも輝き出るべきであるが、わけても舌は、歌ったり語ったりすることによってこの職務に当てられまた奉献されるに相応しい。なぜなら舌は、神の賛美を物語りかつ宣べ伝えるために特別に定められたものだからである。しかし、舌の重要な用益は、信仰者の集いの中で行なわれる公の祈りである。我々が一つの霊・同一の信仰をもって礼拝する時に、この祈りによって声を一つにし、あたかも同じ口のようにして神に栄光を帰するのであり、また公に全ての者が互いにその兄弟から信仰の告白を受け、その模範によって促され、励まされるのである。」
舌は神賛美のために特別に定められた体の器官であること、またその舌による公同の祈りや声を発して歌う賛美により、皆で神に栄光を帰し、私たちは互いに信仰を促され励まされる、と言います。何と大事なことでしょうか。
パウロは言います。エペソ5:19「詩と賛歌と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向って心から賛美し、歌いなさい。」
皆で歌う神賛美を、改めて夫々がハッキリ自分の中に位置づけたいと思います。