2021年10月14日「祈りについて(22) 賛美を歌う 1」

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聖句のアイコン聖書の言葉

 キリストの言葉が、あなた方の内に豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向って歌いなさいコロサイの信徒への手紙 3章16節

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 今日も祈りについて学びます。23回目の今日は、賛美についての学びとなります。

 賛美歌というものを、単にキリスト教礼拝の音楽的要素と思っている人もあるかも知れません。しかし賛美歌は、根本的には、祈りに曲を付けて歌うものであり、曲に合せて歌う祈りと言えます。

 その意味での賛美歌の歴史は非常に古く、旧約時代からありました。例えば、詩篇73篇には「アサフの賛歌」という標題がついています。アサフはⅠ歴代誌25:1によりますと、音楽家としてダビデが任命した人でした。しかし詩篇73篇は、その数百年後に、すなわち、人々がバビロン捕囚から解放され、エルサレム神殿を再建した後の神殿礼拝の際、アサフもしくは彼の子孫の誰かがアサフの名を用いて作った曲に合わせて歌われた賛歌の一つと思われます。

 詩篇77篇の標題は「指揮者のために。エドトンの調べにのせて。アサフによる。賛歌」です。複数の音楽的背景を持つ賛美歌のようです。

 新約聖書からも、詩篇などが初代教会で歌われていたことが分ります。例えば、コロサイ3:16でパウロは「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向って歌いなさい」と言います。

 そのパウロは、かつてシラスと共にピリピの町で伝道し、けれども捕えられ、鞭打たれ、足枷をされて牢に入れられたことがありました。大変な状況にあったのですが、その時の様子を使徒16:25はこう伝えています。「真夜中頃、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。他の囚人たちはそれに聞き入っていた。」祈りと神賛美の歌を歌うことにより、こんな状況でも二人の信仰は全く揺るがず、他の囚人たちが聞き入る位でした。その後、大きな地震が起って牢獄の扉が全部開き、囚人たちの鎖も全部外れましたが、誰一人逃げませんでした。二人の祈りの言葉と賛美の歌に、深い感銘を受けたからかも知れません。

 やがて時代は降り、賛美の伝統もしくは習慣は、東ローマ帝国内、西ローマ帝国内を問わず、キリスト教が拡がっていった各地の教会で受け継がれていきます。古代教会時代、長い中世のローマ・カトリック教会時代を経て、1517年10月31日、ルターがヴィッテンベルクの教会の門扉に95箇条の公開質問状を張り付けたことから宗教改革運動がたちまち全ヨーロッパに広がり、プロテスタントが生れました。

 ルターは、コラール、すなわち礼拝時に歌われる会衆賛美歌を作り、人々の信仰は励まされ、宗教改革運動を支えました。

 スイスのジュネーブでは、カルヴァンの指揮の下、詩篇に曲をつけて会衆で歌うジュネーブ詩編歌が作られました。オランダのプロテスタント教会では、聖書と共に、このジュネーブ詩編歌によって皆が大いに強められ、困難を極めた宗教改革を成し得たと言われます。

 昨年11月に出しました当伝道所の季刊誌「よろこび」第3号に私は書きましたが、ルターはこう言いました。「音楽は神の素晴らしい賜物であり、神学に次ぐものである。…音楽は喜びを引き起す神から与えられた手段である。悪魔があなたを悲しませる時、『悪魔よ、出て行け。私は今、私の主キリストに対して歌わなければならないのだ』と言うが良い。…悲しんでいる人々にとって、音楽は最善の強壮剤である。音楽は心を滑らかにし、元気付け、生き返らせる。」

 またカルヴァンは『ジュネーブ詩編歌』の序文でこう述べています。「人間を元気づけ、楽しくさせるものの内、音楽こそは筆頭のもの、あるいは最も主要なものである。…歌うことにより、言葉が心の中に入る。それは、液体をビンに注ぐ時、じょうごを用いるとうまく入るのと同様である。」つまり、音楽、特に賛美歌により、大事な言葉、祈りの言葉が身につくと言います。これは見事な見識だと思います。

 賛美歌が歌による祈りであることは、私たちに大事なことを改めて教えます。それは、賛美の時、当然、メロディや音程やリズムなどは大切ですが、何よりも歌詞の言葉をよく把握し、味わい、心を込め、つまり、祈る心で歌うということです。それには工夫が必要です。私はそのために、極力、伴奏楽器によって前奏がひかれている間に、歌詞全体に目を通すようにしています。そうしませんと、伴奏楽器と皆の歌声にただ促され、また追われるように歌いかねないからです。それでは、神賛美や信仰の告白、神への訴え、神に栄光を帰する祈りにはなりません。

 皆が少し意識するだけで、岡山西伝道所の賛美は、天の父なる神にまで届く真に芳しい香となり、真に神に喜ばれ、神に受け入れられるものになるでしょう。

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