2021年10月10日「岩の上に家を建てよ」

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7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。
マタイによる福音書 7章24節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 5章から続くイエス・キリストの山上の説教も7章で終ります。終るにあたり、イエスは13、14節で「狭い門」から入れと命じ、命に至る門と道の狭さを指摘され、次にそれを具体的に展開して、15節「偽預言者」、すなわち、偽牧師に警戒せよと教え、更に21節でキリスト教信仰における自己欺瞞の危険を指摘されました。

 今朝は24~27節の「岩の上に家を建てよ」という譬に進みます。

 念のために言いますが、ここは信者と未信者の比較ではありません。イエスが取り上げられるのは、人を罪と滅びから救う福音を聞き、一応信仰を持ちながらも、なお起りくる二人の人の決定的な違いです。今までの警告同様、ここでも自分はクリスチャンで信仰を持っていると思い、キリスト教信仰から来る恵みや喜びも味わい、しかし、それだけで安心してしまう危険性についてです。

 最初に、二人の共通点と相違点を見ておきます。

 まず共通点ですが、第一に、二人とも同じ願い、同じ希望を持っています。つまり、家族で快適に平穏に過ごせる家を建てることです。二人は同じものに関心を持っています。

 霊的な意味で言いますと、二人とも天国や救い、永遠の命を願っています。救いや天国に決して無関心なのではなく、クリスチャンらしい聖い生活を送ることも望んでいると言えるでしょう。二人に共通のこれらの点は皆、尊いものです。

 第二に、二人は同じ所に家を建てます。一方は岩の上で、他方は砂の上ですので、違う場所のように思えますが、どちらにも、雨、洪水、風が襲っていますので、同じ場所、同じ環境にあったと言えます。この譬を、イエスはルカ6:46以降でもしておられ、そこでは、岩の上に家を建てた人は「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて」とあります。つまり、この人は地面を深く掘り下げて岩の上に土台を据えたのであり、場所は違わないのです。

 霊的な意味で言いますと、彼らは同じ教会で、同じ説教を聞いて育ったと言えるでしょう。

 第三に、二人は同じような種類の同程度の家を好んだと言えます。

 霊的な意味で言いますと、同じようにクリスチャン生活を送り、同じ位、礼拝出席や教会活動もしたと言えます。表向きは殆ど変りません。

 第四に、人生に付き物の試練や辛いことの度合いも変りません。25節と27節のどちらにも「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲」った、とあります。

 霊的に意味で言いますと、同じように、病気、事故、失敗、挫折、誘惑、思いがけない辛い試練にも遭ったと言えるでしょう。

 こうして見ますと、ただ一点を除いて両者は殆ど違いません。しかし、その一点、つまり、岩を土台とするかしないかが、両者を決定的に違わせます。片や倒れませんでした(25節)。岩の上に土台が据えられていたからです。けれどももう一方は倒れ、その倒れ方はひどいものでした(27節)。イエスは、目立たず分りにくい岩を土台とするかしないかが、実は魂の死活問題であることを私たちに悟らせようとしておられるのです。

 15~23節でも学びましたが、ここでも注意すべきことは、本物のキリスト教信仰と上辺だけの信仰とが非常に見分けにくいことです。人間には罪の性質があるため、人を欺くばかりか、自分をも欺きます。この性質は人がクリスチャンになっても残っています。ですから、自分を吟味することが大変重要です。

 ところで、自分の信仰が本物か偽物かは分るのでしょうか。死後、神の前に立つ時まで誰にも分らないのでしょうか。もし分らないのであるなら、私たちは、一生、救いの確信も喜びもなく、不安と恐れの中で過さなければならないでしょう。

 しかし、そうではありません。パウロは高らかに宣言しました。ローマ8:38、39「私はこう確信しています。死も、命も、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にあるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 ペテロも、厳しい迫害下にあったクリスチャンたちにこう言いました。Ⅰペテロ1:8、9「あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、言葉に言い尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなた方が、信仰の結果である魂の救いを受けているからです。」

 このように、まことのクリスチャンは自分の救いを確信でき、自分がクリスチャンとして大丈夫かどうかが分ります。ただ、主は私たちが手遅れになる前に、誤った状態が及ぼす結果から私たちを守るために、こうしてお教え下さるのです。

 そこで、両者の違いについて見ます。まず愚かな人の特徴ですが、第一に、この人はせっかちです。そうでなければ、こんな家の建て方はしなかったでしょう。愚かな人は大抵せっかちです。深く考えるとか待つことを嫌い、早く白黒をつけたがります。物事の土台や根本からじっくり取り組まず、すぐ始めたがります。

 第二に、この人は他人の指導に耳を傾けません。家を建てるなら、この人は当然、建築の専門家に相談し、指導を仰ぐべきでした。それが無理でも、せめて、もう一方の人に聞き、それを参考とすべきでした。そうすれば、こんな愚かな建て方は絶対にしなかったでしょう。霊的な事柄については尚更そうです。

 第三に、この人は結構自信家です。自分の考えこそ一番良いと考え、人から学ぶものは殆どないと考えています。自分の体験や考え方に満足し、それに従うだけです。

 第四に、この人は物事を徹底的に考えません。「今はいいが、大雨や洪水や嵐が襲ってきたら、どうなるだろう」と徹底的に掘り下げて考えません。

 霊的な意味で言いますと、こういう人は歴史の教訓から十分に学ばず、聖書を持っていても本当は余り関心がなく、自分のやり方でいいと思っています。そして、いつか神が根こそぎテストされるかも知れないことなどを徹底的に掘り下げて考えません。

 一方、賢い人は対照的です。この人は慌てません。自分の知識が乏しいことを弁えていて、よく分っている人の指導を仰ぎ、気分や感情、衝動に押し流されるのを自分に許しません。今だけでなく、将来起り得る色々な困難や危険性を深く考えます。

 霊的なことに関しても同じです。絶えず聖書から学び、自分を検討し、信仰の先輩や専門家の指導を仰ぎ、歴史から深く学ぼうとします。聖書に啓示されている神の真理を真剣に学び、特に神からの知恵を貯えます。

 箴言は、単に知識ではなく、信仰による霊的な知恵を求めよ、と繰り返し教えます。3:13~15「幸いなことよ、知恵を見出す人、英知をいただく人は。知恵で得るものは金で得るものにまさり、その収穫は黄金にまさるからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたが喜ぶどんなものも、それと比べられない。」

 では、最も大切な知恵とは、この譬では何でしょうか。砂地を掘り下げ、岩の上に自分の家の土台を据えることです。これを霊的に言い換えますと、イエスの言葉を聞いて行うことです(24節)。要するに、自分をイエスの言葉に適合させ、私たち罪人の唯一の救い主、イエス・キリストに自分の全てを結び付けることです。

 家は土台で決まります。家は土台に合せてしか建てられません。ですから、イエスの教えに合せて人生を建てるのです。拠って立つ土台は、救い主イエス・キリストなのです。Ⅰコリント3:11は言います。「誰も、既に据えられている土台以外の物を据えることはできない…。その土台とはイエス・キリストです。」これが全てです。

 今朝、改めて私たちは、自分によく問うてみたいと思います。自分の土台、自分を常に捉えて離さず、自分の生き方を決めているものは、何でしょうか。お金でしょうか。損得勘定でしょうか。それとも、健康、趣味、家族、仕事、人の評価、あるいは虚栄心でしょうか。

 けれども、そういうものでは、神の最後のテストに耐えられません。私たちは、自分の拠って立つ根本的土台が、永遠の救い主、御子イエス・キリストに本当に結び付いているか否かを、是非検討したいと思います。

 愚かな人に譬えられている人も、平安を求め、自分に満足がないから、教会へ来ます。しかし、それを求めるのは真(まこと)の信者だけではありません。

 この世は厳しいですが、教会は確かに慰めを与えてくれます。教会の清い雰囲気、優しさにも癒されます。しかし、そう思えるだけでは、自分の信仰が本物とはまだ言えません。

 端的に言って、人は偽の赦された意識や救いの確信、平安すら持ち得ます。マタイ25:44以降でイエスが描いておられる人たちがそうです。自分に安心し切っています。「私はクリスチャンとして長年生きてきた。クリスチャンの生き方が一番良いと思っているし、神の恵みも味わい、奉仕もしてきた。だから、当然私は救われている」と。しかし、主によれば、それで安心してはなりません。砂の上にも家は建ち、キリスト教の祝福はそれでも味わえるのです。

 何よりイエスの御言葉、すなわち、イエスご自身に深く結びついていることが大切です。深く結び付いているなら、私たちは確実に救われています。思いがけない試練や神の最後のテストにも耐えられます。ですから、信仰生活の平安や楽しさや満足感など「家」自体ではなく、「岩」であられるイエス・キリスト御自身に根本から結びついていたいと思います。

 私たちを愛する故に、主イエスがここまで語って私たちの信仰を問い、また信仰を守ろうとしておられることに心から感謝し、今日、今、すぐ、これに応えたいと思います。

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