誰もが必要
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- 田村英典 牧師
- 聖書
コリントの信徒への手紙一 12章18節~27節
聖書の言葉
12:18 しかし実際、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。
12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
12:21 目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなた方はいらない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
12:23 また私たちは、体の中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするもので覆います。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
12:24 恰好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところところには、見栄えよくするものを与えて、体を組み合わせられました。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
コリントの信徒への手紙一 12章18節~27節
メッセージ
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今お読みした所は、紀元1世紀の中頃、使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙の一部です。彼はこの教会内に見られた残念な対立や溝を覚えて、教会とはキリストの霊的な体であり、各自はその体の一つ一つの部分ではないかと、体の比喩を用いて彼らを諭します。
もう一度20、21節を読みます。「しかし実際、部分は多くあり、体は一つなのです。目が手に向って『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向って『あなた方はいらない』と言うこともできません。」
教会の中で要らない人など、一人もいない。言いかえると、誰もが必要だということです。誰をも必要とせず、自分だけで生きていける人はいません。
これは、直接には神が作られた教会についてのことですが、同じことがもっと広く人と人との色々な関係の中でも言えると思います。とにかく、要らない人など一人もいないし、他の人を必要としない人も一人としていない。このことを深く考えますと、誰もが自分の高ぶりを戒め、謙らないではおれないと思います。
もう10年位前、私は大阪の梅田で、『ヤコブへの手紙』という1970年代のフィンランドの田舎を舞台にした地味な映画を見ました。殺人罪で12年間服役したレイラという女性が出所し、彼女の恩赦を願ったヤコブという知らない人の所へ行きます。実は、ヤコブは田舎に住む盲人の老牧師でした。彼は彼女に、色々な人から来る相談事や祈りを希望する手紙を彼のために朗読することと、彼の返事を筆記して手紙を出してくれる仕事を頼みました。
彼女は気が乗らないのですが、仕方なく、郵便配達夫の持ってくる手紙を一通ずつ読み、また老牧師ヤコブの返事を筆記しては、手紙を出すのでした。
雨漏りのする独り暮しの彼の家には、長年送られてきた手紙の束が、ベッドの下や色々な所にギッシリ積まれ保管されていました。
しかし、レイラはその仕事がイヤでした。そこで、送られて来た手紙を黙って捨てたりします。老牧師ヤコブは手紙が来ないのでガッカリします。
その内に手紙が本当に来なくなりました。彼はすっかり気落ちし、落ち着きを失ってイライラします。しかし、遂にレイラに言います。「私は今まで手紙を送ってくる人たちに返事を書いたり祈ったりして、彼らを支えていると思っていた。しかし、実は私が彼らに支えられていたのだ。私こそ彼らを必要としていたのだ。」
心を痛めたレイラは、郵便配達夫に、どうして手紙を配達しないのかと尋ねました。彼は「送られてこないものは、配達できないさ」と答え、行ってしまいました。
そこで彼女は「手紙が来ました」と嘘を言い、読む振りをして、実は姉に暴力を振う義理の兄を殺してしまった自分の辛い過去を初めて話すのでした。
ヤコブは、いつも通り聖書によって答えます。しかし、それがレイラ自身の話であることは分っていました。そして、涙を流している彼女を慰めます。
彼はやがて死にます。しかし、この盲目の老牧師に信頼され必要とされたレイラは、そのことで深い心の傷も癒され、自分を取り戻し、本当はずっと心配してくれていた優しい姉の許に旅立ちます。
こういう内容でした。特に老牧師ヤコブの言った「私は今まで、手紙を送ってくる人たちに返事を書いたり祈ったりして、彼らを支えていると思っていた。けれども、実は私が彼らに支えられていたのだ。私こそ彼らを必要としていたのだ」という所が深く私の心に残りました。
映画の老牧師ヤコブもそうですが、パウロも人の祈りを必要としていたことが、色々な手紙の終りで「自分のために祈ってほしい」と書いていることから分ります。私たちは皆、誰かを必要とし、人に支えられなくては生きられません。傲慢や独善を戒められます。
と同時に、私たちも必ず誰かに必要とされています。ですから、自分もいて良い。生きていて良い。それを思うと、勇気や元気が少し湧いてこないでしょうか。
20、21節「しかし実際、部分は多くあり、体は一つなのです。目が手に向って『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向って『あなた方はいらない』と言うこともできません。」
私たちは皆、神から見れば情ない罪人です。しかし、そんな私たちをなお愛し、御子イエスを賜った神は、元々人間を互いに必要とする者に造っておられます。ですから、気負うことなく、また自分など必要ないと自分を卑下することもなく、私たちを必要とする人(必ずいます!)のために、天に召される時まで、イエス・キリストに励まされ、用いて頂ければと願います。