Youtube動画 Youtubeで直接視聴する 聖書の言葉 8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。8:32 あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」ヨハネによる福音書 8章31節~32節 メッセージ コロナ禍にありますが、今日は月の第4日曜日ですので、いつものように、クリスチャンではない皆様にキリスト教を少しでも知って頂けますように、少し自由にお話させて頂きます。 説教題を「信仰に伴う神の祝福」としました。色々な祝福がありますが、その一つを私自身の経験を交えてお話致します。それは私たちに「自由」が与えられるということです。 ヨハネ福音書8:31、32で、イエスはご自分を信じた当時のユダヤ人たちにこう語られました。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」 この少し前に、当時のユダヤ教指導者たちとイエスとの遣り取りがあり、それを聞いた多くの人が、イエスを信じました(30節)。しかし、それはまだ表面的な信仰ですので、彼らが本当の信仰者になることをイエスは願われました。 そういう文脈におけるものですが、31、32節には大変重要なことが言われています。イエスの言葉、イエスの教えに留まるなら、人は本当にイエスの弟子になることができ、また真理を知り、真理は人を自由にするということです。 ここの真理は、天地の創り主にして万物の根源者、また御子イエスを通してご自分を鮮やかに現された真(まこと)の神と、その神の私たちへの救いの福音と言えます。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」とイエスは言われます。でも、これは本当でしょうか。 私は20歳の学生の時に洗礼を受け、クリスチャンになりましたが、その前にはやはり迷いました。というのは、自分にはまだ洗礼を受けられる程のチャンとした信仰がなかったからです。 聖書の言うように、自分が罪人であることはよく分っていましたし、神を完全に否定することも当然できませんでした。かといって、100%信じられるかというと、モヤモヤしていました。 それともう一つ、クリスチャンになることを躊躇させることがありました。それは、クリスチャンになると、考え方や生き方が狭まり、自由がなくなるのではないかという点でした。 洗礼を受け、クリスチャンになれば、当然、聖書の色々な教えや戒めに従うことになります。今まで自由に過ごしていた日曜日も、礼拝を第一とすることになります。物事の考え方も生き方も全て聖書に聞き、聖書と照らし合わせ、聖書に従うことになります。こういうことを考えますと、何か拘束され、不自由で、生き方が狭くなるように思えました。 それにも関らず、私が洗礼を受け、クリスチャンになったのは、後から考えますと神の導きでしかないのですが、結局、全ては神がおられるか、おられないかにかかっていたからです。 つまり、天地の創り主にして万物を支配しておられる真(まこと)の神がおられないならば、人は皆、死ねば永遠に消滅するだけで、どう生きようがかまいません。 しかし、神がおられるなら、そうはいきません。聖書が言うように、人は死んだ後、皆自分のこの世での思いと言葉と行いが全てあらわにされ、神の審判を受けます。私は自分が裁かれることは、よく分っていました。罪人だからです。 しかし果たして、神はおられるのか、おられないのか。答はどちらかであり、どちらでもないということはあり得ません。では、どちらなのか。 私は考えました。まず神がおられる方に賭けて生き、それで私が死に、神がおられなかったなら、どうなのか。特に問題はありません。それと、イエス・キリストによって示された生き方、つまり、神を信じ、神に従い、愛をもって人に仕える生き方は、苦労があっても、私が納得する真実な生き方です。ですから、後悔することは何もありません。 一方、神がおられない方に賭け、今まで同様、自分の好きなように生きたとします。で、私が死に、神がおられたなら、どうでしょうか。自分でもやや不本意で、神を無視し気ままに生きて来た私は、裁かれて当然です。 となると、答は一つしかありません。私は、神がおられ、御子イエスを救い主と信じ、依り頼む生き方のほうに賭け、洗礼を受け、クリスチャンになったのでした。 実は、クリスチャンになり、大分経ってから知ったのですが、17世紀のフランスの科学者、数学者、哲学者であったB.パスカルも、著書『パンセ』によると同じように考えたのでした。「人は同じだなぁ」と思ったものです。 さて、クリスチャンになった後、私はどうだったでしょうか。主観的ではありますが、私は以前より本当に自由になったと思います。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」とイエスは言われます。イエス・キリストと共に生きるクリスチャンは皆、そうだと思います。 無論、自由と言っても、何をしても良いというのではありません。神の御心に背き、不信仰で利己的で低俗なことまで勝手気ままにして良い自由ではありません。そんなものは、そもそも自由の名に値しませんね。 また、この世は創り主なる真(まこと)の神を無視し、神でもないものを神とし、偶像を拝み奉(たてまつ)る世であり、クリスチャンはそれをしませんから、苦労はあります。 更にイエス・キリストを信じても、罪の性質は自分の内に残っていますから、自分を律し、自分と戦わなければならないという点もあります。 しかし、そういうこと以外では、「真理はあなた方を自由にします」とある通り、本当に自由だと思います。 では、どんな自由があるでしょうか。色々あります。 例えば、第一に、罪と死からの自由があります。真のクリスチャンでも罪の残り滓がありますから、この世にいる間は、完全に罪から自由というのではありません。自分の不信仰と罪に泣き、自分が呪わしい時もあります。 しかし、心から悔い改め、主イエスの言葉に留まり続けるなら、私たちは必ず罪を赦され、感謝なことに徐々に罪を犯すことが減り、罪から解放されます。特にイエスの福音の故に、色々なことで感謝すればする程、罪から解放され、そして罪の結果である死後の裁きと恐怖からも解放されます。むしろ、死は私たちの完成の時であり、永遠の安息に主イエスによって入れられる解放の時となります。何と感謝なことでしょう! 第二に、この世の因習やしきたりなどから自由になります。もっと言えば、この世の精神から解放されます。 この世には、挨拶や礼儀も含めて昔からの良い習慣や良いものが沢山あります。神が許しておられるのであり、それは大切にしたいですね。しかし、真理そのものであられる神の御心と照らし合せると、無意味で空しいものや罪深いものもあります。しかし、世間体を気にし、世間の評価が怖く、またよく分らず、よく考えもせず、それらに縛られている人も多いですね。 しかし、神と共に生きる時、私たちは色々なことを神の前に一旦相対化でき、本当に良いものなら行い、良くないならやめる、という判断と選択の自由を与えられています。 実際には、神の前で判断する時も周囲に配慮しますが、少なくとも主体性をもって自分で考え、判断し、選び取ることのできる自由があることは、やはり尊いと思います。 第三に、古い自我からの解放と自由があります。自分の面子(めんつ)やプライドに、人間はどんなに縛られやすいでしょうか。頑なな自我のために人を傷つけ攻撃し、家庭を壊し、自分を滅ぼす人も少なくありません。マタイ5章から始まりますイエスの山上の説教を主の日の礼拝で学んで来ましたが、その中で自我がどれほど厄介かを、私たちは繰返し教えられました。 しかし、それでも私たちがイエスの言葉に留まっているなら、御言葉と共に働かれる聖霊が私たちを古い自我から少しずつでも解放して下さり、要するに自分自身からの解放と自由を味わわせて下さいます。本当に感謝なことです。 第四に、今のこととも関係しますが、神が喜んで下さる本当に善いことのために自分を差し出すことのできる自由と主体性を、イエスは与えて下さいます。 単に自分のしたいことができるのが真(しん)の自由ではありません。神の喜ばれる真に正しいこと、善いことができてこそ、真に自由なのです。 宗教改革者M.ルターは1520年に書いた有名な『キリスト者の自由』の冒頭でこう書いています。「キリスト者は全てのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は全てのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。」本当にこの通りだと思います。クリスチャンは、究極的には神とイエス・キリスト以外の何ものにも支配されない自由な者ですが、同時に、神の御心に従い、誰に対しても自分を低くし、喜んで自由に人に仕える者だということです。本当にそうだと思います。 最後ですが第五に、幼子が自分を愛してくれている親の懐(ふところ)に安心して飛び込むように、クリスチャンは最終的には天の父なる神に「お父様」と呼びかけ、イエス・キリストのお蔭で、おおらかに自由に神に近づき、永遠の神の懐に飛び込むことができます。神御自身を喜ぶことができます。神の子としての魂の自由です。何と感謝なことでしょうか。 イエスは言われます。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」この祝福に一人でも多くの皆様と是非ご一緒に与り(あずかり)、これを味わいたいと願っています。主の導きをお祈り致します。 関連する説教を探す 2021年の日曜朝の礼拝 『ヨハネによる福音書』
コロナ禍にありますが、今日は月の第4日曜日ですので、いつものように、クリスチャンではない皆様にキリスト教を少しでも知って頂けますように、少し自由にお話させて頂きます。
説教題を「信仰に伴う神の祝福」としました。色々な祝福がありますが、その一つを私自身の経験を交えてお話致します。それは私たちに「自由」が与えられるということです。
ヨハネ福音書8:31、32で、イエスはご自分を信じた当時のユダヤ人たちにこう語られました。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」
この少し前に、当時のユダヤ教指導者たちとイエスとの遣り取りがあり、それを聞いた多くの人が、イエスを信じました(30節)。しかし、それはまだ表面的な信仰ですので、彼らが本当の信仰者になることをイエスは願われました。
そういう文脈におけるものですが、31、32節には大変重要なことが言われています。イエスの言葉、イエスの教えに留まるなら、人は本当にイエスの弟子になることができ、また真理を知り、真理は人を自由にするということです。
ここの真理は、天地の創り主にして万物の根源者、また御子イエスを通してご自分を鮮やかに現された真(まこと)の神と、その神の私たちへの救いの福音と言えます。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」とイエスは言われます。でも、これは本当でしょうか。
私は20歳の学生の時に洗礼を受け、クリスチャンになりましたが、その前にはやはり迷いました。というのは、自分にはまだ洗礼を受けられる程のチャンとした信仰がなかったからです。
聖書の言うように、自分が罪人であることはよく分っていましたし、神を完全に否定することも当然できませんでした。かといって、100%信じられるかというと、モヤモヤしていました。
それともう一つ、クリスチャンになることを躊躇させることがありました。それは、クリスチャンになると、考え方や生き方が狭まり、自由がなくなるのではないかという点でした。
洗礼を受け、クリスチャンになれば、当然、聖書の色々な教えや戒めに従うことになります。今まで自由に過ごしていた日曜日も、礼拝を第一とすることになります。物事の考え方も生き方も全て聖書に聞き、聖書と照らし合わせ、聖書に従うことになります。こういうことを考えますと、何か拘束され、不自由で、生き方が狭くなるように思えました。
それにも関らず、私が洗礼を受け、クリスチャンになったのは、後から考えますと神の導きでしかないのですが、結局、全ては神がおられるか、おられないかにかかっていたからです。
つまり、天地の創り主にして万物を支配しておられる真(まこと)の神がおられないならば、人は皆、死ねば永遠に消滅するだけで、どう生きようがかまいません。
しかし、神がおられるなら、そうはいきません。聖書が言うように、人は死んだ後、皆自分のこの世での思いと言葉と行いが全てあらわにされ、神の審判を受けます。私は自分が裁かれることは、よく分っていました。罪人だからです。
しかし果たして、神はおられるのか、おられないのか。答はどちらかであり、どちらでもないということはあり得ません。では、どちらなのか。
私は考えました。まず神がおられる方に賭けて生き、それで私が死に、神がおられなかったなら、どうなのか。特に問題はありません。それと、イエス・キリストによって示された生き方、つまり、神を信じ、神に従い、愛をもって人に仕える生き方は、苦労があっても、私が納得する真実な生き方です。ですから、後悔することは何もありません。
一方、神がおられない方に賭け、今まで同様、自分の好きなように生きたとします。で、私が死に、神がおられたなら、どうでしょうか。自分でもやや不本意で、神を無視し気ままに生きて来た私は、裁かれて当然です。
となると、答は一つしかありません。私は、神がおられ、御子イエスを救い主と信じ、依り頼む生き方のほうに賭け、洗礼を受け、クリスチャンになったのでした。
実は、クリスチャンになり、大分経ってから知ったのですが、17世紀のフランスの科学者、数学者、哲学者であったB.パスカルも、著書『パンセ』によると同じように考えたのでした。「人は同じだなぁ」と思ったものです。
さて、クリスチャンになった後、私はどうだったでしょうか。主観的ではありますが、私は以前より本当に自由になったと思います。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします」とイエスは言われます。イエス・キリストと共に生きるクリスチャンは皆、そうだと思います。
無論、自由と言っても、何をしても良いというのではありません。神の御心に背き、不信仰で利己的で低俗なことまで勝手気ままにして良い自由ではありません。そんなものは、そもそも自由の名に値しませんね。
また、この世は創り主なる真(まこと)の神を無視し、神でもないものを神とし、偶像を拝み奉(たてまつ)る世であり、クリスチャンはそれをしませんから、苦労はあります。
更にイエス・キリストを信じても、罪の性質は自分の内に残っていますから、自分を律し、自分と戦わなければならないという点もあります。
しかし、そういうこと以外では、「真理はあなた方を自由にします」とある通り、本当に自由だと思います。
では、どんな自由があるでしょうか。色々あります。
例えば、第一に、罪と死からの自由があります。真のクリスチャンでも罪の残り滓がありますから、この世にいる間は、完全に罪から自由というのではありません。自分の不信仰と罪に泣き、自分が呪わしい時もあります。
しかし、心から悔い改め、主イエスの言葉に留まり続けるなら、私たちは必ず罪を赦され、感謝なことに徐々に罪を犯すことが減り、罪から解放されます。特にイエスの福音の故に、色々なことで感謝すればする程、罪から解放され、そして罪の結果である死後の裁きと恐怖からも解放されます。むしろ、死は私たちの完成の時であり、永遠の安息に主イエスによって入れられる解放の時となります。何と感謝なことでしょう!
第二に、この世の因習やしきたりなどから自由になります。もっと言えば、この世の精神から解放されます。
この世には、挨拶や礼儀も含めて昔からの良い習慣や良いものが沢山あります。神が許しておられるのであり、それは大切にしたいですね。しかし、真理そのものであられる神の御心と照らし合せると、無意味で空しいものや罪深いものもあります。しかし、世間体を気にし、世間の評価が怖く、またよく分らず、よく考えもせず、それらに縛られている人も多いですね。
しかし、神と共に生きる時、私たちは色々なことを神の前に一旦相対化でき、本当に良いものなら行い、良くないならやめる、という判断と選択の自由を与えられています。
実際には、神の前で判断する時も周囲に配慮しますが、少なくとも主体性をもって自分で考え、判断し、選び取ることのできる自由があることは、やはり尊いと思います。
第三に、古い自我からの解放と自由があります。自分の面子(めんつ)やプライドに、人間はどんなに縛られやすいでしょうか。頑なな自我のために人を傷つけ攻撃し、家庭を壊し、自分を滅ぼす人も少なくありません。マタイ5章から始まりますイエスの山上の説教を主の日の礼拝で学んで来ましたが、その中で自我がどれほど厄介かを、私たちは繰返し教えられました。
しかし、それでも私たちがイエスの言葉に留まっているなら、御言葉と共に働かれる聖霊が私たちを古い自我から少しずつでも解放して下さり、要するに自分自身からの解放と自由を味わわせて下さいます。本当に感謝なことです。
第四に、今のこととも関係しますが、神が喜んで下さる本当に善いことのために自分を差し出すことのできる自由と主体性を、イエスは与えて下さいます。
単に自分のしたいことができるのが真(しん)の自由ではありません。神の喜ばれる真に正しいこと、善いことができてこそ、真に自由なのです。
宗教改革者M.ルターは1520年に書いた有名な『キリスト者の自由』の冒頭でこう書いています。「キリスト者は全てのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は全てのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。」本当にこの通りだと思います。クリスチャンは、究極的には神とイエス・キリスト以外の何ものにも支配されない自由な者ですが、同時に、神の御心に従い、誰に対しても自分を低くし、喜んで自由に人に仕える者だということです。本当にそうだと思います。
最後ですが第五に、幼子が自分を愛してくれている親の懐(ふところ)に安心して飛び込むように、クリスチャンは最終的には天の父なる神に「お父様」と呼びかけ、イエス・キリストのお蔭で、おおらかに自由に神に近づき、永遠の神の懐に飛び込むことができます。神御自身を喜ぶことができます。神の子としての魂の自由です。何と感謝なことでしょうか。
イエスは言われます。「あなた方は、私の言葉に留まるなら、本当に私の弟子です。あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」この祝福に一人でも多くの皆様と是非ご一緒に与り(あずかり)、これを味わいたいと願っています。主の導きをお祈り致します。