我らは霊に縛られて行く
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- 説教
- 堂所大嗣 神学生
- 聖書 使徒言行録 20章17節~24節
【新改訳改訂第3版】
20:17 パウロは、ミレトからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼んだ。
20:18 彼らが集まって来たとき、パウロはこう言った。「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。
20:19 私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。
20:20 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、
20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。
20:22 いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
20:23 ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。
20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
使徒言行録 20章17節~24節
私は2018年の春に神戸改革派神学校に入学しました。卒業まで残すところあと半年ほどになりまして、最近は時々、神学校に入学した前後のことを思い起こします。
神学校の入学試験には筆記と面接の二つの試験があります。筆記試験は基本的な教理や聖書知識、英語の試験があります。面接試験は、普通の学校や企業の面接と基本的には変わりません。ただ信仰暦や献身の動機について尋ねられます。
私も三年と半年前、教授陣が並ぶ中で緊張しながら面接試験を受けました。その時に校長の吉田先生から「あなたの長所と短所を教えてください」と質問されました。
その時に、長所については何と答えたかはよく覚えていないのですけれども、短所について「優柔不断な所です」と答えました。
右か左か、AかBか、すぐに決断することが出来なくて、どちらかに決めた後も「本当にこれで良かったのか」とくよくよ迷ってしまう優柔不断さがあることを私は自覚しています。
そういう私からしますと、使徒パウロという人は優柔不断さとは対極にいる人のように思えます。
右か左か即断即決出来て、一度決めたら誰が何と言おうとその道を貫き通すという決断力と意志の強さを持った人物であるように思えます。
今日の聖書箇所のパウロの言葉からも、私たちはそのような彼の意志の強い性格を感じることが出来るのではないでしょうか。
そこで今日はこのパウロの言葉から、特に22節以降の「御霊に縛られて」「自分の走るべき道のりを走り尽くす」という言葉に心を留めながら、私たちキリスト者が聖霊によって決断するということについて、ご一緒に考えてみたいと思うのです。
パウロはこの時、第三回宣教旅行と呼ばれる旅を終えて、再びエルサレムへ向かおうとしている途上にありました。そしてミレトスという町に立ち寄った時に、パウロはかつて自分が深い関りを持っていたエフェソ教会の長老たちを呼び寄せて、彼らに別れの挨拶しています。
パウロがこの時、エルサレムへ向かおうとしていた理由について、使徒の働きは、その詳しい動機については何も説明していません。
しかし私たちはローマ人への手紙のパウロ自身の証言から、その辺りの詳しい事情を推し量ることが出来ます。
それによれば、今回のパウロのエルサレム訪問の目的は、エルサレムにいるユダヤ人キリスト者の貧しい人たちのために、マケドニア州とアカイア州の異邦人キリスト者から捧げられた献金を、彼らの元に届けることでした。
興味深いのは、パウロはローマ書の中で、その自分が届けようとしている献金をエルサレムの人たちが快く受け入れてくれるように祈って欲しいと頼んでいることです。
つまり彼らユダヤ人キリスト者の中には、異邦人を快く思わない人たちがいて、もしかしたら彼らは異邦人キリスト者からの献金を受け取ってくれないのではないかとパウロは心配しているのです。
だからこそパウロは、ユダヤ人と異邦人キリスト者の一致を証しするためにも、この事はぜひ自らの手で成し遂げなければならないと考えて、このエルサレム行きを決意したのです。
しかしこの後の21章で、パウロに近い人々は、このエルサレム行きを思い留まらせようとして口々に忠告しています。
パウロは元々熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教の迫害者でした。しかしその彼がイエス・キリストとの出会いを経験してキリスト教の伝道者へと一大転換を果たした訳です。
しかし、これはユダヤ教徒の側から見れば、明らかに自分たちに対する裏切り行為です。
そこでパウロは回心した後、かつての仲間であったユダヤ教徒たちから命を狙われることになり、ダマスコやエルサレムから、仲間たちの手によって密かに逃れなければならなくなりました。ですからパウロがもう一度エルサレムへ赴こうとするのは、自らの命を狙う敵の本拠地に乗り込んでいくようなものです。
もちろん、当のパウロ自身もこのエルサレム行きが危険な旅であることを十分承知していました。
パウロはここで、エルサレムに行けば自分の身にどんな危険が起こるか分からないこと、二度とエフェソの兄弟姉妹とは生きて会うことは出来ないと覚悟していることを匂わせています。
ですからここでのパウロの言葉は単なる「お別れの挨拶」ではありません。それは自らの死をも覚悟したパウロがエフェソの人々に最後に残した「パウロの遺言」でもあります。
そこでパウロは、18節から21節で、かつてエフェソで行なった自らの働きについて振り返っています。
パウロはそこで、ユダヤ人の様々な陰謀によって試練に遭いながら、しかし謙遜と忍耐をもって主に仕えて来たこと、そしてエフェソの信徒のために昼夜を惜しまずに働いて、自分が主から与えられたものを全て余すところなく教えてきたと語ります。
そのパウロの伝道者としての働きの中心にあったのは「主に仕える」と訳されている言葉、ギリシャ語で“奴隷として仕える”という意味を持つ「ドゥーロス」という言葉です。
試練の中にあって涙を流しつつ働くパウロを支えていたのは、この「自らを捨てて、ただ主の奴隷として仕える」という僕としての信仰でありました。
そして22節から今度は、自身の現在と未来における働きについて語っています。「ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。」
ここでパウロは、エルサレムで自らの身に危険が待ち構えていることを知りつつ、そこへ向かおうとしていることを「御霊に縛られて行くのだ」と表現しています。
以前の新改訳ではこの箇所を「心を縛られて」という風に訳していました。
ここで新改訳2017年度版が「御霊」と訳している言葉は、原文では単に「霊」というギリシャ語が使われています。ですから以前の版では「霊に縛られる」という言葉をパウロの心にあるエルサレム訪問への強い思いに促される、という意味で解釈しています。そして今度の新しい2017年度版ではその「霊」を「聖霊」として解釈した訳です。
私自身は、パウロをエルサレムへと導こうとしているこの「霊」は、聖霊の働きとして理解する方が、どちらかと言えば自然な解釈ではないかと思います。けれどもこの「霊」を、あえて「聖霊」と「個人の霊」どちらか一方に絞らなくても良いのではないかとも思うのです。
受洗の証しや献身の証しでよく「聖霊に示された」とか「御霊によって導かれた」という表現を耳にします。しかしそれは、実際に聖霊の声が聞こえてきたり、夢枕に御使いが立ってお告げを語った訳ではありません。
私たちは祈りの中で、聖書を読んで思い巡らす中で、ふと自分でも思っていなかった思いが湧き上がってくることがあります。また不思議な出来事が重なって、思いもよらない形で道が開かれるという経験もあります。
第三者から見れば、それは単に自分の心に浮かんだ思いや偶然の一致を、神様の導きだと思い込んでいるだけに見えるかも知れません。
しかし私たち信仰者にとっては、それは私が心で考えて決断したのと同時に、聖霊によって導かれたとしか表現できないような事柄です。
このエルサレム訪問は、確かにパウロ自身が強く心に望んでいたことでした。しかし単にそれだけであれば、もしかしたらパウロは周囲の説得に耳を傾けて、あえて危険を犯してエルサレムに行こうとはしなかったかも知れません。
しかしこのエルサレム訪問はパウロにとって、単に自分の心の願いに留まらない、聖霊の迫りを受けて示された神の御心である、という確信がありました。ですから大きな危険があると分かっていても、パウロは今どうしてもそこへ行かなければならないと決心していたのです。
私たち信仰者が“霊に縛られる”とは、そのように私たちの願いや損得を超えて、聖霊が私たちの思いを神の御心へと向けさせて下さるということです。そしてその神の示される道へと私たちを押し出して下さるということ、それが私たちが御霊に縛られて行く、ということではないでしょうか。キリスト者は主に結ばれてこの聖霊の縛りを受ける時に、その心の不安や恐れを乗り越えて、大胆に新しい未知の世界へと踏み出していく勇気を与えられるのです。
そして24節でパウロは、この聖霊の導きに従い通す決意を自分の走るべき道のりを走り尽くすと表現しています。
確かにパウロのこれまでの伝道者としての歩みは、福音の働きのために全てを捧げて走り続ける競技者の歩みであったと言い表すことが出来ます。けれどもそのパウロの働きは、決して順風満帆に進んできたのではありません。むしろパウロの宣教の働きは、彼の願い通りに進まないことの方が遥かに多かったのです。
パウロはしばしば、ユダヤ教徒やローマの異教徒たちの妨害に遭い、その働きを中断せざるをえなくなりました。
またパウロを苦しめたのはそのような教会の外にいる敵だけではありません。彼は同じキリスト教会の中にいる反対者によっても多いに苦しめられました。そして自らが手塩に掛けて育てたその教会の信徒からも批判され、背かれるという事態も起こりました。
最初に、パウロという人は優柔不断とは無縁の人ではないかと言いました。一度決めたら一切迷うことのない意志の強い人ではないかと申し上げました。
しかしそのようなパウロの伝道者としての苦難の歩みを思います時に、私は彼もまた自身の選択に迷い、悩み、苦しむ瞬間があったのではないだろうかと思うのです。
アテネでの宣教で思ったような成果を挙げられず、失意のうちにコリントの地にやって来た時、そのコリント教会やガラテヤ教会で、信仰についての深刻な問題が発生した時、パウロは「あの時もっとこういう風にしていれば、こんなことにはならなかったのでないか、自分はどこかで選択を間違えたのではないだろうか」と自問自答する瞬間があったのではないでしょうか。
ところで、パウロがエルサレム訪問の第一の目的としていた異邦人からの献金を、エルサレムの兄弟姉妹は受け取ってくれたのでしょうか。使徒の働きにも、パウロ書簡にもそのことには触れていません。
何も書かれていないということはもしかしたら、パウロが懸念した通りユダヤ人キリスト者は、異邦人からの献金を快く受けとってくれなかったのかも知れません。
もしそうであれば、ここでもパウロはエルサレム訪問の当初の目的を果たすことが出来なかったことになります。しかもパウロは聖霊が予告していた通り、エルサレムでユダヤ人たちに訴えられて、裁判にかけられることになります。人間的に観ればこのパウロのエルサレム訪問は、やはり失敗に終わったように映るかも知れません。
しかしパウロは、エルサレムで捕えられた結果思いがけずに、積年の願いであったローマ訪問を(囚人という立場ではありますが)果たすことになります。
パウロの道のりは、彼の思い描いていた通りには進みませんでした。しかし神様はパウロの思いを遥かに超えた方法で「皇帝の前に立って私について証しすることになる」と語られた御計画を実現されたのです。
パウロは確かに、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うするために自分の走るべき道のりを最後まで走り尽しました。しかしそれは彼自身の計画や努力によってではなく、彼を働きへと縛られた聖霊によって成し遂げられたのです。
「自分の走るべき道のりを走り尽く」ために、私たちが必死に歯を食いしばって自分でその道のりを走り続けなければならないとしたら、私たちはどこかで倒れてしまいます。
私たちが決して選択を誤らないようにコースから外れないようにしなければ、ゴールへたどり着くことが出来ないのだとしたら、それはいつも不安と緊張を強いられて心の休まらない道のりになるのではないでしょうか。
先日、パラリンピックが行われましたけれども、その種目の一つに「ブラインドマラソン」と呼ばれる競技がありました。
そこで目の不自由な方がどのようにしてマラソンを走ることが出来るかと言いますと、伴走者と呼ばれる介助者が視覚障がい者の目となって、進むべき方向を伝えたり、障がい物を避けるよう教えたりする役割を果たします。
私たちは熱心に祈っても、何が神様の御心か分からないことがあります。あるいは御心だと信じて選んだ道が、結局うまくいかずに挫折してしまうこともあるかも知れません。
大きな失敗をして、自分の選択は果たしてこれで良かったのか、別の選択肢を選んでおけばこんなことにはならなかったのではないか、と後悔することも起こるでしょう。
しかし私たちは、自分では神様の御心に適う道を正しく選ぶことが出来ない罪人なのであって、常に失敗せず、正しい選択をすることは、私たちには到底不可能です。
聖霊は、目の見えない、心の鈍い私たちの傍らにいて、行くべき道を教えてくださり、躓かないように支えていてくださる私たちの伴走者です。
たとえ私たちが迷ったり恐れたりしても、愚かな失敗を繰り返したとしても、聖霊はそれらの弱さをも用いられて、私たちを主によって備えられた道から逸れないように、主に結び合わせて下さるのです。そしてそこで私たちの思いを超えた仕方で御業をなすことが出来る御方なのです。
私たちは自分の人生を振り返る時に、今日まで歩いてきたこの道以外の別の道があって、そちらを選んでいれば、今よりもっと幸せに生きてこられたのではありません。
私たちが今日まで生きてきたこの道のりは、そこに多くの過ちや挫折があったとしても、神様が私たちに与えて下さった永遠の命へと至ることが出来る唯一の道なのです。私たちはその唯一の道を、御霊に縛られて今日まで歩んできたのです。
私たちは、これから自分が行くべき道を見据えたとき、そこに一体何が待ち受けているのかは想像もつきません。苦しみや危険が待っているかも知れない道に、一歩踏み出すか否かの決断を迫られる日が来るかも知れません。
しかし私たちがこの先、どのような出来事に出会い、そこでどのような人生の選択をしなければならないとしても、私たちはその決断を一人で行うのではありません。私たちにはその決断を導いて、その道のりを伴走者として歩んでくださる聖霊なる神様が共におられるのです。
私たちは、この永遠の命へと続く旅路を御霊に縛られて、終わりの日まで決して倒れることなく、最後まで走り抜くことが出来るのです。
私たちは迷い易く、愚かな間違いを犯す弱い者であったとしても、この聖なる御霊が私たちと共に歩んでいて下さることを信じて、私たちは先の見えない未来へ一歩を踏み出す勇気を与えられて、今週も新しい週の歩みへと送り出されて参りましょう。