人として成長を許され
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 テサロニケの信徒への手紙一 3章1節~13節
3:11 どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの救い主イエスが、私たちの道を開いて、あなた方の所に行かせて下さいますように。
3:12 私たちがあなた方を愛しているように、あなた方の互いの愛を、また全ての人に対する愛を、主が豊かにし、溢れさせて下さいますように。
3:13 そして、あなた方の心を強めて、私たちの主イエスがご自分の全ての聖徒たちと共に来られる時に、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められる所のない者として下さいますように。アーメンテサロニケの信徒への手紙一 3章1節~13節
振起礼拝と名付けられる礼拝を、昔から多くの教会が持ってきました。夏の暑さで心身の弱っていた私たちが、秋を迎え、特に信仰を神に力付けられて再出発するための礼拝です。そこで今朝はⅠテサロニケ3:11~13に注目したいと思います。
使徒の働き16、17章が伝えますように、テサロニケは、パウロがマケドニアに渡って最初の頃に伝道した町であり、困難な中にも教会が誕生しました。今、パウロは11節で、父なる神と主イエスが道を開き、彼らの所へ自分たちを行かせて下さるようにと祈ります。
また12節で「私たちがあなた方を愛しているように、あなた方の互いの愛を、また全ての人に対する愛を、主が豊かにし、溢れさせて下さいますように」と、彼らへの願い、すなわち、愛における成長を祈ります。それは信徒同志の愛に限定されず、「全ての人に対する愛」です。
では、何故パウロは「愛」を特に願うのでしょうか。続く13節で言いますように、彼らの心が強められ、イエスが世の終りにもう一度来られる時、「私たちの父である神の御前で、聖であり、責められる所のない者」に、イエスが彼らをして下さるためです。消極的には「責められる所のない者」にされ、積極的には彼らがイエス・キリストに似て「聖」なる者とされ、霊的成長と完成を許されるためです。
短い聖書箇所ですが、人への愛と、人格的・霊的成長と完成とが、密接に関っていることが分かります。
そこで今朝は、クリスチャンにとって常に最重要な使命である伝道を考えたいと思います。8月12日の教会修養会でも学びましたが、伝道は、マタイ28:19、20でイエスが命じておられますように、教会とクリスチャンにとって、世の終りまで常に最重要な光栄ある使命です。
伝道は、単にキリスト教の勢力を増やしたいというようなことではありません。一人でも多くの方々に、神の御子イエス・キリストへの信仰により、人間にとって最大の問題である罪と悲惨な永遠の死から救われ、永遠の命の幸いに与って頂くことに他なりません。
ところが、伝道がそのように尊いものであり、伝道すべきだと分っていましても、私たちにはそれがなかなか出来ず、気後れしたり腰が重いという現実があるように思います。
それにもまた理由や原因があり、例えば、自分は幼い頃から対人関係が苦手で、独りでいる方が好きというやや内向的性格から来ているかも知れません。或いは、誰かを誘っても、キリスト教について難しい質問をされたり、キリスト教を攻撃するようなことを言われると、どう答えて良いか分らない、というようなこともあるでしょう。
後者については、ある程度勉強すれば、かなり解決出来ます。しかし、前者については、すなわち、自分自身の救いは喜び、神に感謝していますが、人に接し、人に関るとなると、どうも苦手で気が重いという場合は、伝道の大切さは分ってはいても、簡単ではありません。伝道云々の前に、対人関係そのものが苦手だからです。
ここで一度、視点を変え、むしろ伝道という、人に接近し、人に関ることに、神が伴わせておられる恵みを心に留めるのも良いと思います。
そこで思うのが、先程少し見ましたⅠテサロニケ3:11~13で教えられることです。12節でパウロは「私たちがあなた方を愛しているように、あなた方の互いの愛を、また全ての人に対する愛を、主が豊かにし、溢れさせて下さいますように」と、彼らへの願い、つまり、愛における成長を語ります。それは信者相互の愛だけではありません。全ての人に対する愛です。ここが大切です。伝道へと私たちを促すものも、実はこの隣人愛でなければ変ですね。義務感だけでは、伝道は出来ません。
ヨハネ3:16は「神は、実にその独り子をお与えになった程に世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである」と言います。そうです!神は人を愛して下さっています!創り主なる真の神を無視し、神ならぬものを神とし、自己中心で罪深い私たち人間!けれども、神はそんな人間の世界に独り子イエスを救い主としてお遣わしになった程に、なおも人を愛しておられます!私たちも本当に愛されています!ですから、私たちも、無論不十分ですが、あくまでも愛を動機として人に伝道するのです。
しかし、その点はここまでにして、今朝確認したいのは、実際に私たちが人に接し、人に関り、人と交わることに、神が伴わせておられるとても大切な恵みについてです。どういうことでしょうか。
実際、パウロは12節で愛を語った後、13節で、皆の心が強められ、…そうです、愛は私たちの心を強め、悪に打ち勝たせます…、そしてイエスが世の終りに再臨される時、「私たちの父である神の御前で、聖であり、責められる所のない者」にイエスがして下さることを語ります。愛をもってとにかく人に接し、人に関ることを通して、…そこに伝道が含まれるのですが…、私たちは消極的には「責められる所のない者」とされ、積極的にはイエス・キリストに似て「聖」なる者とされ、全人格の成長と完成を許されるのです。
何か大事なことに集中するため、内に籠る(こもる)ことも、時にはとても大切ですね。しかし、外に向って、つまり、人に近づき、人と接し、人に関ることも非常に大切であり、それに伴う誠に尊い恵みを、私たちはここに教えられます。
もう少し具体的に考えてみたいと思います。お分りのように、人間は決して自分独りだけでは成長も完成も出来ません。人間は関係性の中で育てられ、生きてこそ、人格的に成長し完成することも初めて可能となります。その関係性の第一は、私たちを愛とご計画をもって造られた神との関係です。そして第二は、人との関係です。
第一の神との関係、すなわち、永遠者にして真理そのもの、またⅠヨハネ4:16で「神は愛です」と言われている創り主にして愛なる、また聖さと真実に満ちた生ける真(まこと)の神との親しい人格的関係なしに、人は真(しん)に人格的・霊的に成長し完成することは出来ません。
しかし第二の人との関係、すなわち、人に接し、人に関り、人と交流することも、とても大切です。
聖書が教える通り、この世は罪の世であり、どんな人にも例外なく罪の性質が生れながらにあります。ですから、人間関係ほど、面倒で煩わしく、私たちを疲れさせ傷つけるものはないでしょう。そのため、人と付き合うよりも、趣味に没頭したりペットと戯れる方が好きだと言う人も少なくありませんね。
けれども、それだけでは、私たちは人格的に成長することは出来ません。そもそも自分自身に欠けや偏りがあり、本来は自己中心で我儘な罪人ですのに、そんな私たちが自分独りの世界に閉じ籠ればどうなるでしょうか。単に成長がないばかりか、ますます独り善がりの醜い人間になります。何と不幸でしょう。
一方、煩わしい時もありますが、私たちが、教会の中では勿論、大切な伝道に繋がる可能性のある色々な人との交流に、神の愛を思って、少しでも自分を押し出すとどうでしょうか。必ず自分自身が訓練され、祝福されます。
例えば、自分の気持や考えをキチンと言葉にして人に話すことで、またそれに対し、人から質問や疑問やアドバイスを受けることで、私たち自身が整理されます。
時には自分を引込め、人に譲ることから、自分自身が人格的に広くされます。
人は皆、自分とは違う個性を持っていて、見つけようとすれば、必ず人から良い点を学び、吸収することも出来ます。
人と意見が対立し、食い違い、イライラする時も当然あるでしょう。しかし、そこでこそ、ヤコブ1:19「人は誰でも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」を思うのです。すると、ただ相手をへこませ、打ち負かすのではなく、何が正しく適切かを冷静に客観的に考えることで、…実はこれらは皆、人への愛の様々な形なのですが…、自分の内に誠実で柔和で高い人格が形成されていきます。
特に伝道について言いますと、自分が誰かに証しをするとするなら、何を語るかを考えて自分の過去を必ず振り返ります。Ⅰペテロ3:15に「あなた方の内にある希望について説明を求める人には、誰にでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」とある通り、よく振り返り、説明し弁明できるように、祈ってよく考えます。また、証しをする相手の人の状況や状態などによく配慮し、すなわち愛をもって考えずにはおれません。その結果、実は私たち自身が訓練され、品性が練られ、人格的・霊的に成長を許されるのです。
エペソ2:10は「私たちは神の作品であって」と言います。その通り、私たちは、神が手塩にかけて造られた神の作品として、またⅠテサロニケ3:13が言いますように、「私たちの父である神の御前で、聖であり、責められる所のない者」へと、イエス・キリストは必ず成長をお許し下さるのです。
そして私たちは、そういう自分自身をやがて、愛に満ちた天の父なる神に感謝してお返しさせて頂くのです。これが、私たちに託されています大切な伝道をも含む人との関りに、神が伴わせておられる素晴らしい恵みなのです。
どうか、主の御霊が、私たちの心を一層強め、全ての人への愛を豊かにして下さり、対人関係において、特に人が永遠の救いに与ることの出来る伝道において、私たちを神の作品としてご自由にお用い下さるように!そのようにして、今年の残る数か月を、是非ご一緒に歩んで行けますように!アーメン