2021年09月05日「木は実によって分かる」

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木は実によって分かる

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章15節~20節

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなた方のところに来るが、内側は貪欲な狼です。
7:16 あなた方は彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなた方は彼らを実によって見分けることになるのです。 マタイによる福音書 7章15節~20節

原稿のアイコンメッセージ

 偽預言者、つまり、偽牧師を警戒せよとの、主イエスの大事な教えを今日も学びます。

 クリスチャンは、人を本物の信仰者にせず滅びに至らせてしまう偽牧師を、16節「実によって見分け」なくてはなりません。実とは、第一に牧師の言葉、特に説教であり、第二は行いや態度です。

 前回は偽牧師の説教の特長を見ました。人間の罪、神の裁き、また人を永遠の命に至らせる13、14節、狭い門と細い道を余り語らず、耳障りの良い話をすることなどです。

 しかし、牧師だけでなく、指導的信者の影響力も大きく、またどんなクリスチャンにも言葉で人を誤らせる危険性があります。誰をも警戒する必要があります。

 時々、「教会では何を話しても許される」と言う人がいます。でも、これは要注意です。「あの人は、絶対間違ったことは言わない」などという保証はないからです。

 無論、イエスはクリスチャン同士の粗探しを求めておられるのではありません。ただ、19節「良い実を結ばない木は皆切り倒されて、火に投げ込まれ」るということに決して至らず、皆で神を愛し、皆で永遠の命に至る狭い門と細い道を進むために、健全な判断をお求めになっておられるのです。偽物か本物かを識別することは、私たち皆の義務なのです。

 ガラテヤ2章によりますと、ある時、パウロは重大な問題のために、ペテロを皆の前で非難しました。パウロがそうしたのは、そのままだとペテロが弱い信者に悪影響を与え、つまずかせかねないからです。が同時に、ペテロを真に愛し、彼を偽善の罪から救い、神の真理をハッキリさせたかったからでした。

 狭い門と細い道を持つ純正なキリストの福音だけが人を救い、それ以外のものは、人を表面的なクリスチャンにしても、本当には救いません。偽預言者を用心せよとの教えは、誰の言葉にも適用されるべきであり、クリスチャンは自分の言葉をも警戒するのです。

 今朝は、外に現れる行いや態度を見分ける点に進みます。

 主は言われます。16~19節「あなた方は彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木は皆良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木は皆切り倒されて、火に投げ込まれます。」

 イエスは、木と実の喩により、人の内面と外との密接な関係を語られます。木の品質は必ず実に現れますが、人間も同じです。聖霊により内面が霊的に真に生れ変っている人とそうでない人では、外からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエスが問題にされるのは、人間の内面、本質です。クリスチャンであるとは、人格の中心に関ることであり、単に行いのある部分がキリスト教的であることではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加わることでもありません。本物のクリスチャンは内面が変質しています。人格の座である心そのものが、自分中心から神中心へと変る根本的なものです。自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられることです。

 イエスが言われるのは、人格の座である心は、外に現れずにはおれないということです。「つい心にもないことを口にしてしまいました」と人は時々弁解します。それは違います。イエスは12:34「心に満ちていることを口が話す」と言われます。人の本性は、言葉と行いという実になって必ず外に現れるのです。

 無論、これを見分けるのは簡単ではありません。けれども、私たちが聖書の教えと教理に親しみ、そうして人の行動や態度を見るなら、識別できる、と主は言われます。

 あるクリスチャンは、教理的に殆ど間違わず、振る舞いも立派!しかし、よく観察すると、キリスト教の大事な所が抜けているということがあります。

 随分昔のことですが、ある教会のある長老は、祈りの中で、自分が不完全な人間だとは言うものの、神の怒りと裁きに価する罪人とは言わなかったそうです。これはゆゆしき問題です。しかし、あり得ます。こういう点を私たちは見抜く必要があります。

 人が何を話し、何を行うかだけでなく、何を話さず、何をしないかを、聖書と照し合せる時、その人の本性が見分けられます。人の言葉、また行いや態度は、その人の本性の現れなのです。イエスは言われます。16、17節「茨から葡萄が、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木は皆良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。」

 更に言いますと、人が何か良いことをした時、それをどんな考えや動機でしたかを見ることも大切です。人のため、社会のため、教会のため、神のためと言いつつ、人の評価や褒め言葉がほしいという動機や自分の満足のために、ということもあり得ます。

 信仰上の名目でする行為でも、クリスチャンになる前からの習性でする場合もあります。端(はた)から見れば、その人の振る舞いも態度も立派で、クリスチャンとして恥じないかも知れませんが、神の目からはそうでない場合もあります。ヘブル11:6は言います。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」

 キリスト教信仰の根本教義を信じていないとか分っておらず、真にイエス・キリストに結びついていない人には、言葉と共に行動や振る舞いや態度にどこか問題が見られます。特にこれといった問題はないようでも、何となく中心的な所が変でこの世的です。真に霊的な人なら必ず身につけているある種の雰囲気が欠けている。こういう点を私たちは見分け、自分をもテストするのです。

 もう少し具体的に見ます。

 イエスは17節「良い木は皆良い実」を結ぶと言われます。では、どんな実でしょうか。

 ここが、5章から始まるイエスの山上の説教の締め括りであることを思い起したいと思います。従って、良い実について、山上の説教のどこかで語られていたと見て良いでしょう。では、どこなのか。何といっても冒頭の幸福の教えでしょう。イエスは5:3~10で真のクリスチャンの特徴を描かれました。良い木は必ず良い実を結ぶ。どうしてもそうなる。イエスに一切の希望を置き、自分の内に神の形が回復されている人は、幸福の教えに描かれている良い実を結ばずにはおれません。

 その人は5:3、心が貧しく謙遜で、5:4、自分の罪を深く悲しみ、5節、柔和です。6節、義に飢え渇き、7節、憐れみ深く、8節、心が清く、神に対して真直ぐです。9節、自分が犠牲を払い、損をしてでも、平和を造り、10節、義の為に迫害される。これが真のクリスチャンの結ぶ実です。偽牧師や偽クリスチャンには結べません。

 良い実は、他の御言葉からも分ります。ガラテヤ5:22、23に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあります。これらを私たちは、人と自分の中に見分けるのです。聖霊により神の子としての性質を頂いた人は、これらの良い実を結びます。

 真のクリスチャンは、神の聖さと自分の罪深さを知り、自分が神の裁きに価する者であることも自分の無力さも、よく知っています。そして、こんな自分のために神の御子が人となって十字架で死なれ、この御子によらなければ、自分がどうしようもない罪人であることをよく知っています。ですから、自ずと言葉や態度で、そう言って良ければ、ある種の印象を人に与えないではおれません。信仰による強さと共に謙遜さがあります。聖書的に見て何とも言えない意見や考えには固執せず、他のより聖書的な良い意見に譲ります。

 主イエスの山上の説教によれば、クリスチャン生活がどんなに長くても、神の前に謙遜でない人には、十分注意する必要があります。そういう人からは、自分が惨めな罪人で、ただ神の憐れみにより救われたとの印象は受けにくい。神の前に自分が如何に無力で汚れた罪人かという自覚の有無!これが人に印象を与えずにはおれないのです。

 しかも不思議な優しさ、愛、喜び、平安が見られ、寛容で親切です。善意や誠実さ、柔和さ、自分を律する自制心が見られます。責任感が強く誠実です。

 見栄や外見の飾り立てに興味がなく、絶えず神とその真理に、また神と自分との関係に強い関心を持ち、心を注ぎます。義に飢え渇いています。

 しかし、究極のテストは、何といっても主が幸福の教えの一番最初に言われた心の貧しいこと、すなわち、神の前での謙遜さでしょう。ですから、地位、家柄、経歴、知識、技術、持ち物を誇り、生活に奢りの見られる人がいるなら、警戒すべきでしょう。いいえ、何より自分自身を警戒したいと思います。木は実で分かるのです。

 今朝、私たちは改めて自分を神に明け渡し、ダビデと共に是非、真剣にこう祈りたいと思います。詩篇51:7、10「ヒソプで私の罪を除いて下さい。そうすれば私は清くなります。私を洗って下さい。そうすれば、私は雪よりも白くなります。…神よ、私に清い心を造り、揺るがない霊を、私の内に新しくして下さい。」

 そして何より、恵みと慈しみに満ちた主イエス・キリストに、どんな時にもしっかり留まっていたいと思います。感謝なことに、主はこう約束し励まして下さっています。ヨハネ15:5「私はぶどうの木、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人に留まっているなら、その人は多くの実を結びます!」

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