2021年07月18日「求めなさい」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
7:9 あなたがたのうちだれが、自分の子がパンを求めているのに、石を与えるでしょうか。
7:10 魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものをあたえてくださらないことがあるでしょうか。マタイによる福音書 7章7節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 文語訳で「求めよ、さらば与えられん」というマタイ7:7のイエスの御言葉は大変有名です。しかし、これを私たちは正しく理解したいと思います。例えば、これだけを取り出し、何度も口で唱えて自分に言い聞かせるという人もいますが、これは一種の自己暗示であり、間違いです。或いは、「こう書かれているのだから、私の願うものは何でも与えられるはずだ」と思う人もあるかも知れません。こういう人は自分の要求だけをもって神の所に行きます。これも間違いです。

 私たちはこういう愚かさを避けたいと思います。聖書は、私たちを神の形に造られた知的存在と見なし、私達の知性と理性に向って語ります。私たちは常に文脈の中で正しく解釈する必要があります。

 ではここはどうでしょうか。7:1で、イエスは人を裁くなと教え、何よりまず自分の内にある問題と罪を見つめ、自分自身を裁けと言われました。では、聖書という鏡で私たちが自分を隈(くま)なく映し出すと、どうでしょうか。信仰も愛も貧弱で、何度も同じ失敗をし、大事な教えも時には本気で実行しようとせず、本当は神の前に顔も上げられない罪深い自分に気付かされるのではないでしょうか。

 キリスト教は単に美しい生き方を教えるものではありません。聖書を真(しん)に自分に当てはめると、私たちは打ちのめされ、使徒パウロのように、「私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです」(ローマ7:15)と呻くのみです。私たちは、どうしてもイエス・キリストが必要で、自分が神の恵みによって作り変えられ、清められなくてはならないことを痛感させられると思うのです。

 しかし、まさにそういう悔い砕けた魂にイエスは言われます!「求めなさい。そうすれば与えられます。」ですから、他の求めも時には神の憐れみにより含まれることもあるかも知れませんが、中心は何より霊的必要についてなのです。

 自分の余りの弱さや欠けを知る故の信仰者の魂の飢え渇きをよくご存じの主は、私たちを励まし約束されます。「求めなさい。そうすれば与えられます。」

 そこで、この約束が実現し、神の恵みを体験して私たちが霊的に高められるために、大切なことを四つ確認します。

 第一は、私たちが自分の霊的必要を真に自覚していることです。これはとても大事な点です。

 どこかで、いい話や講演があると聞くと、すぐ飛びつく人もいます。それも悪くはありませんが、それでは、人は殆ど変りません。人間にとって最重要な問題である罪を教えられ、自分が神の助けを必要とする惨めな罪人であることを自覚しない限り、人は変りません。

 実はそれこそ、私たちの多くが抱えている問題です。自分がそこまで足りないとは、あまり思っていない。ですから、何年経っても変らないのです。

 救いとイエス・キリストにある素晴らしい助けを頂く上で不可欠なことは、自分が霊的に欠けた惨めな者であり、キリストの恵みと助けを全面的に必要としているという自覚です。パウロと共にローマ7:24「私は本当に惨めな人間です」と心から思う人だけが、イエスによる救いを真剣に求めます。「求めなさい」とイエスが言われるのは、何より自分の霊的必要を真に自覚している人に対してなのです。

 ルカ18:9以降にパリサイ人と取税人の譬があります。パリサイ人は、「神よ。私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、あるいはこの取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ている全てのものから、十分の一を献げております」と祈ります。彼には自分の霊的必要の自覚が全くありません。

 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸を叩いてこう祈ります。「神様、罪人の私を憐れんで下さい。」彼には切実な霊的求めがありました。義とされ、霊的必要を満たされたのは、この人だった、イエスは言われます。第一は、私たちが自分の霊的必要を真に自覚していることです。

 第二は、その自覚に基づく熱心で忍耐強い求め方です。

 マタイ7:7でイエスは「求めなさい、探しなさい、叩きなさい」と強調して三つ語られます。元のギリシア語では「求め続けよ、探し続けよ、叩き続けよ」という意味です。執拗な程の熱心と忍耐をイエスは教え、「簡単に諦めてはならない」と言われます。

 創世32章が伝えますように、ヤコブは兄エサウに会うことをひどく恐れました。昔、エサウを騙したからです。ヤコブは、惨めな罪人の自分に神の助けを求めないではおられず、一晩中祈って神と格闘し、神にすがりました。神は応えて下さいました。

 ルカ11:5以降に、イエスの語られた譬があります。ある人が真夜中に客の訪問を受け、やむなく彼は友達の家に行き、パンを三つ貸してほしいと頼みます。友達は断ります。しかし、執拗に頼むので、とうとうパンを分け与えます。

 ルカ18章でも、イエスはしつこいやもめの譬を話され、失望せず、忍耐強く祈ることをお教えになります。

 一番良くないのは、場当り的な願いで終ることです。もし自分が多くの優れたクリスチャンのように、真に神と共に歩み、神の豊かな霊的祝福を本当に経験したいなら、失望せず、熱心に粘り強く続けることです。

 第三は、神が信仰者の父であられることをハッキリ自覚することです。

 7:9~11でイエスは、求める私たちと与えて下さる神との関係を、子供と親の関係で説明されます。実は多くのクリスチャンに見られる問題の一つは、神を自分の父として十分知っていないことです。祈る時、「天の父なる神様」と呼びかけはしますが、毎日の生活で、神が父であられることをどれ位自覚しているか。これが良く分っているなら、将来にどんな不測の事態が起っても、私たちは随分違う気持で歩めるでしょう。

 無論、私たちは生れながらの神の子ではありません。イエスは弟子たちにさえ、11節「あなた方は悪い者」と言われました。人は皆生れながらに罪の内にあるからです。エペソ2:3は「生れながら御怒り(みいかり)を受けるべき子ら」と言い、ローマ5:10は、本来、私たちは神の「敵」であったと言います。

 私たちは生れながらに神の子ではなく、ただイエス・キリストへの信仰と聖霊による新生によってのみ神の子とされます。そして神の子とされている者が、「神は私の父として私のために計画をお持ちであり、常に私に関心を持っておられる」という確信と信頼をもって天の父のところに来て求める時、与えられるのです。

 第四は、神は私たちに最善のものしかお与えにならないという確信です。

 イエスは言われます。7:11「あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えて下さらないことがあるでしょうか。」

 人間の親でも、子供のことを考えて与えます。もっとも、人間の親には、その時は良いと思って与えたものが、後で有害であったりすることがあります。けれども、天の父にそういう間違いはあり得ません。私たちの一切をご存じの神は、イエスを信じてご自分の子とされた者に、益であること以外、決してなさいません。もし私たちが、このような神の御手の中にいることを本当によく知っているなら、将来に対する私たちの見方は一変するでしょう。

 イエスは「良いもの」(11節)と言われます。神の目からご覧になって、益となる良いものという意味で、私たちの願うものとは違うこともあります。使徒パウロは、辛い肉体の刺を取り去って下さいと懸命に祈りましたが、病は癒されませんでした。けれども、主の恵みは彼の弱い所に完全に表れるという答えを得、高慢になる危険からも守られました。これが神の賢い答でした。

 クリスチャンの祈りと願いに対する神の答は、注文通りのものが注文通りの時に与えられるというのではなく、神のご判断で私たちにとって最善のものを下さるということであり、そういう神の愛と配慮が必ず払われるということです。ですから、今朝のマタイ7:7以降の御言葉の並行箇所であるルカ11:13では、天の父が「聖霊を与えて下さる」と、イエスは約束なさいます。聖霊こそ、私たちにとって一切の善きものの源だからです。私たちの外側に何かが与えられる以上に、私たちの内面に聖霊がお働き下さる!これ以上、良いものはありません!

 イエスの約束は、私たちの願い通りのものが与えられるという現世ご利益的なものとは全然違います。もしそうであるなら、私たちは確実に堕落するでしょう。私たちが場当り的に求めたことを、神がすぐその通りに叶えて下さらないことに感謝したいと思います。

 究極的に神は私たちにとって最善のものを必ず与えて下さる!これがイエスの約束です。「求めなさい。そうすれば、与えられます。」

 

 霊的なことを、熱心に忍耐強く、神を本当に父として、それも絶対に良いものしかお与えにならない天の父として心から信じ、求めたいと思います。

 神の前に自分を真に変えられ清くされたい人、真実な愛や優しさ、罪の誘惑をはねつける強い意志、霊的な洞察力や知恵、大切な人に素晴らしいイエス・キリストの福音をお伝えできる力、死を超えた永遠の救いの確信と平安、神の国と神の義を熱心に求め続ける人を、私たちの主イエスは温かく励まし、はっきりお約束下さいます!「求めなさい。そうすれば、与えられます!」

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