2021年07月08日「祈りについて (17)」
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祈りについて (17)
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- 田村英典 牧師
- 聖書
使徒言行録 7章54節~60節
聖書の言葉
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向って歯ぎしりしていた。
7:55 しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、
7:56 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、一斉にステパノに向って殺到した。
7:58 そして彼を街の外に追い出して、石を投げつけた。証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受け下さい。」
7:60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」こう言って、彼は眠りについた。使徒言行録 7章54節~60節
メッセージ
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祈りについて、特に祈りが神との交わりであることを今日も学びます。
カルヴァンが、祈りを神との対話と述べたことは良く知られており、前回、『キリスト教綱要』Ⅲ・20・4、5、16を少し紹介しました。カルヴァン研究者のヘッセリンクがこう書いていることも紹介しました。「ロナルド・ウォレスが結論づけているように、カルヴァンにとっては、『祈りの精神と終極の目標は、神との交わりにある』というべきである。」
また前回、祈りが真に神との交わりとなり祝福されるために、心に留めたい点を四つ挙げました。第一に祈りが神との交わりであることをよく自覚して祈り、第二に心の底から神に語り、呼びかけ、第三に神が今、喜んで私に耳を傾け、応答し、私と交わろうとしておられるのを覚え、第四に神が下さった恵みを数え上げ、感謝することから始めることをお話しました。
今日はその続きです。すなわち、第五番目は、前にも言いましたが、三位一体の神の全ご存在、すなわち、父、子、聖霊を覚えて呼びかけることです。
私たちは、父なる神にはよく語りかけますが、御子イエスにはどうでしょうか。殉教する直前のステパノについて、使徒7:55、56はこう伝えます。「聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』と言った。」59、60節「ステパノは主を呼んで言った。『主イエスよ、私の霊をお受け下さい。』そして、ひざまずいて大声で叫んだ。『主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい。』こう言って、彼は眠りについた。」
石で打ち殺されるという残酷な死を前にした極限状態でこう祈ったということは、彼が普段からよく天を見上げ、愛する主イエスに呼びかけ、主と親しく交わっていたのでなくて、何でしょうか。
辛い肉体の棘(とげ)から解放されることを切に神に願ったことについて、パウロはどう述べているでしょうか。Ⅱコリント12:8、9「私は三度、主に願いました。しかし主は、『私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さの内に完全に現れるからである』と言われました」と、主イエスに言及しています。パウロも普段から愛する主イエスによく呼びかけ、主と交わっていたのでなくて、どうしてこういうことを書けるでしょうか。
私たちは、御子イエスを教理的に贖い主や仲保者として覚えて祈ることは多いでしょう。それは大変重要なことです。しかし、聖書の信仰者たちは、それに加え、愛し、慕い、信頼し、一切を委ねるお方としても、直接イエスに祈り、また祈りによって主イエスと大変親しく交わっていたことが分かります。私たちも是非そうしたいと思います。
では、聖霊・御霊に呼びかけることはどうでしょうか。その例は多分聖書にないと思いますが、それを禁じる理由はないでしょう。Ⅱコリント12:13には、有名な祝祷の言葉、「聖霊の交わりが、あなたがた全てと共にありますように」とあります。従って、Ⅰコリント3:16が言いますように、私たち信仰者の体をご自分の宮とされ、私たちの内に住まわれ、私たちを主イエスに結びつけ、妬むばかりに私たちを愛しておられる聖霊なる神に、私たちも親しく呼びかけ、豊かに交わるのです。とにかく、三位一体の神の全ご存在、父、子、聖霊を覚えて、親しく呼びかけ、交わりたいと思います。
六番目に進みます。それは特に神の全能の御力を覚え、信仰を告白しながら祈ることです。すると、私たちは随分励まされます。ですから、ローマ帝国からの厳しい迫害下に作られたローマ信条を土台にして信仰の先輩たちが作成した使徒信条は、「我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず」と告白しました。実際、私たちが不安で、心配で、苦しく、怖く、心がひどく騒ぐ時、神の全能性をしっかり覚え、それを告白しながら祈りますと、私たちはとても励まされ、勇気と希望と力が湧いてきます。
聖書が、神の力に満ちた驚くべき御業(みわざ)を、旧約でも新約でも沢山伝えていますのは、理由のないことではありません。何より神の全能の力を私たちに思い出させ、告白させることを通して、天の父は私たちを励まし、強めようとしておられるのです。
例えば、ローマ4:17に「無いものを有るものとして召される神」とあります。ここを口語訳聖書は「無から有を呼び出される神」と訳しています。とにかく、同じく神に呼びかけるにしても、こういう神の全能の御力をしっかり思い起し、心に覚え直し、告白しますと、非常に励まされます。マタイ8:26に基づき、「荒れ狂う湖を、ひと言、しかりつけるだけで、一瞬にして静められたイエス様」というような信仰告白も良いでしょう。他にも沢山あり、次回もこの点を学びますが、とにかく、切羽詰まっている時、ただやみくもに祈るのではなく、神の全能の御力と御業をしっかり覚えつつ、祈りたいと思います。神との交わりが嬉しくなるでしょう!