2021年07月04日「真珠を豚に投げるな」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にる梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください」と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。
7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。マタイによる福音書 7章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 主の御声に今日も耳を傾けたいと思います。

 罪が入ってきて以来、人間は自分を神のように絶対視して、人をよく批判し裁きやすい者になりました。この罪深い傾向のある私たちにとって、1~5節の「人を裁くな」との教えは、とても大切です。

 今日は6節に進みます。何を教えられるでしょうか。複眼的視点の大切さです。

 私たちには、どうかしますと極端から極端に走る傾向があります。「人を裁くな。裁き癖を捨てよ」と言われると、「私はもう一切人を批判しない。クリスチャンはどんな人も受け入れるべきだ。教会は一切厳しいことを言うべきでない」と言う人がいます。

 私たちには物事を単純化して考えたい傾向があります。その方が楽だからです。

 イエスは、人を裁くなというご自分の教えに対して、このように極端に走りやすい私たちの傾向を良くご存じです。ですから、6節「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなた方を噛み裂くことになります」と言い、物事を一つの原則だけで見るのではなく、複眼的視点の重要性を教えられるのです。

 これは聖書の教えの重要な一面です。例えば、箴言26:4は「愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ」と教えます。しかし、5節では「愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者だと思わないだろう」と教えます。

 これは、イエスご自身にも見られます。イエスは弟子たちに、ルカ9:50「あなた方に反対しない人は、あなた方の味方です」と言い、しかし11:23では、「私に味方しない者は私に敵対し、私と共に集めない者は散らしている」と言われます。これらは、どちらも真理なのです。状況により一つの原則だけで割り切るのではなく、複眼的思考と行動の大切さをイエスはお教えになります。

 さて、6節で、イエスは同じことを言い換えて論点を強調されます。

 「神聖なもの」とか「真珠」は、ヨブ28:18の「珊瑚や水晶は言うに及ばず、知恵の価値は真珠にも勝る」などから見て、神を畏れる霊的な知恵と言えるでしょう。

 イエスは、マタイ13:45、46で「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物全てを売り払い、それを買います」と言い、天国を真珠に喩えられます。従って、神聖なものとか真珠は、神の一方的な恵みによる永遠の救いと天国の福音と言えるでしょう。

 それでは、「犬」とは何でしょうか。昔のユダヤでは、犬は不潔なものとして軽蔑されました。箴言26:11は「犬が自分の吐いた物に戻ってくるように、愚かな者は自分の愚かさを繰り返す」と言います。

 また「豚」は、旧約律法では、神の民を汚れから遠ざけるために、汚れたものを表す教材の一つでした。レビ11:7、8は教えます。「豚。これはひずめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻(はんすう)しないので、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。」

 イエス・キリストによる律法の完成を信じるキリスト教は、こういった儀式的戒律に縛られず、その霊的な意味だけを尊びます。けれども、旧約律法に固執するユダヤ教やイスラム教は、今も豚を食べることを固く禁じます。

 では、犬や豚は、ここでは何を指すのでしょうか。一つは、救いの福音や神の真理に固く心を閉ざし、それを踏みつけ、噛みついてくる人のことです。そして、そういう人には大切な神の真理や救いの福音をもう与えるな、ということです。

 私たちが誰かに福音を伝える時、その人が最後まで頑なで裁かれる人かどうかは分りません。私たちは全ての人に救われていただきたいですので、誰にでも福音を伝えます。相手が乗り気でなく、義理で教会へ来ても、私たちは喜んで福音を証しします。そして、最初は福音が分らず、キリスト教を馬鹿にしたり攻撃する人が、いつしか神に心を開かれ、クリスチャンになるケースは珍しくありません。ですから、福音は誰にも提供されるべきであり、キリスト教はずっとそうして来ました。

 この世は神に心を閉ざす罪の世ですので、イエス・キリストと神の救いの愛を伝えることは、容易ではありません。でも、愛と忍耐をもって伝え続けたいと思います。

 ところが、相手が余りにも頑なで暴力的に出てくるような場合には、限度があります。イエス時代のパリサイ派のある人たちやある為政者たちがそうでした。ですから、イエスは十字架の前夜、ヘロデ王の質問に一切お答えになりませんでした。イエスはまた、ご自分を拒んだ町カペナウムを厳しく断罪されました。「カペナウム、お前が天に上げられることがあるだろうか。陰府(よみ)にまで落とされるのだ。お前の内で行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。お前たちに言う。裁きの日には、ソドムの地の方が、お前よりも裁きに耐えやすいのだ。」(マタイ11:23、24)。

 イエスは、弟子たちを伝道に派遣する時、こう言われました。マタイ10:14「誰かがあなた方を受け入れず、あなた方の言葉に耳を傾けないなら、その家や町を出て行く時に足の塵(ちり)を払い落としなさい。」これは抗議の徴です。弟子たちはこれに従い、ある町で伝道したパウロとバルナバを口汚く罵ったユダヤ人たちに、二人は言いました。使徒13:46「神の言葉は、まずあなた方に語られなければなりませんでした。しかし、あなた方はそれを拒んで、自分自身を永遠の命に相応しくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。」51節「二人は彼らに対して足の塵を払い落として、イコニオンに行った。」

 ユダヤ人からの攻撃は、コリントの町でもありました。使徒18:6「彼らが反抗して口汚く罵ったので、パウロは衣の塵を振り払って言った。『あなた方の血は、あなた方の頭上に降りかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人の所に行く。』」パウロは、イエスに従い、毅然とした態度を取りました。

 しかし、ここで注意したい点があります。使徒17章が伝えますように、パウロは、偶像の林立するアテネで憤り、アレオパゴスで、真(まこと)の神とイエス・キリストを伝えましたが、それを嘲笑い、体よく福音を断った人たちには、穏やかに接しました。

 確かに、神の教えを知っているのに、イエスと弟子たちが愛をもって伝える福音には頑なで、攻撃的なユダヤ人たち!そのように、足で踏みつけ、向き直って噛みついてくる人たちに、パウロは厳しい態度を取りました。しかし、キリスト教の話は初めてで、まだよく分らず、笑って、態度保留という形で去る人たちには、寛容でした。

 私たちの態度を分ける境目はどこでしょうか。聖書は明確な線引きをしていません。相手を見極めた上で、知恵深く態度を決めるように、主は私たちに求められます。

 さて、犬や豚と言われる人には、他にも、一旦イエスを信じ、しかし神を離れ、神の真理を弄び、罵る人のこともあります。Ⅱペテロ2:20~22は、警告を込めて厳しくこう言います。「主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終りの状態は、初めの状態よりもっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる戒めから再び離れるよりは、義の道を知らなかった方が良かったのです。『犬は自分の吐いた物に戻る』、『豚は身を洗って、また泥の中を転がる』という、ことわざどおりのことが、彼らに起っているのです。」

 つまり、彼らには今や神の真理を与えても無駄だ、と聖書は言います。甘い顔をしていると、彼らは増長し、神を一層侮り、そのため、彼らのことで躓く人が出るかも知れないからでしょう。確かに、ある時点できっぱり距離を置く方が良い人たちもいます。イエスは弱い私たちを守るためにも、これをお教えになっておられるのだと思います。

 しかし、ルカ15章の譬え話の放蕩息子のように、神から一旦離れた人が立ち返る可能性もイエスはよくご存じです。従って、こういう人たちについても、結論は性急に出せないことが分かります。

 今朝、私たちは、複眼的思考と行動の大切さを教えられました。主イエス・キリストに倣って限りなく柔和で寛容!けれども、時には厳しく毅然とした姿勢!伝道者3章が言いますように、全てのことに時があることを、改めて教えられます。

 実際には、これは簡単ではありません。しかし、このことを深く心に留め、その都度、神の御心を探り求め、祈りつつ判断し、行動したいと思います。神の栄光と人々の救いのために、どうか聖霊なる神が私たちを助け、導き、御心に叶う判断と行動をなさせて下さいますように!

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