神と共に歩む幸せ
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 創世記 5章18節~24節
5:18 ヤレデは162年生きて、エノクを生んだ。
5:19 ヤレデはエノクを生んでから800年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
5:20 ヤレデの全生涯は962年であった。こうして彼は死んだ。
5:21 エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。
5:22 エノクはメトシェラを生んでから300年、神と共に歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
5:23 エノクの全生涯は365年であった。
5:24 エノクは神と共に歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。創世記 5章18節~24節
コロナウィルス問題は続きますが、久し振りにご一緒に礼拝することができ、感謝でございます。ひと時、神の御言葉・聖書に聞きたいと思います。
ご承知のように、聖書は大切な教えや戒めだけでなく、私たち人間にとって、結局、どういうことが本当に幸せかを教えようとしています。では、それは何でしょう。色々ありますが、今朝は「神と共に歩む」という点に注目したいと思います。
先程、創世記5:18以降を読みました。1節から分かりますように、5章は人類の始祖アダムから始まる全人類の系図の一部を伝えています。これらがいつ頃のことかは今では分かりませんが、随分大昔であることは確かです。そして皆、大変長生きでした。
注目したいのはエノクという人です。もう一度、21~24節を読みます。「エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んでから300年、神と共に歩み、息子たち、娘たちを生んだ。エノクの全生涯は365年であった。エノクは神と共に歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」ただこれだけですが、前後の記述と比較しますと、興味深いと思います。
第一に、彼は365年生きましたが、彼の前後に生きた人たちの平均寿命と比べますと、半分かそれ以下でしかありません。彼の一生は短かったのでした。
第二に、他の人たちは「こうして彼は死んだ」と皆同じように書かれていますが、エノクは違います。24節「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」とあります。
聖書は何を伝えようとしているのでしょうか。エノクについて、ずっと後の時代に書かれました新約聖書のヘブル11:5はこう説明しています。「信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。」
エノクは、死を見ることなく、天と地を創られた真(まこと)の神の所にそのまま移されました。しかも、神の所に移される前から、彼が「神に喜ばれていた」と伝えます。要するに、エノクは本当に幸せだった、と聖書は言うのです。
幸せな人生というと、一般的にはどう考えられているでしょうか。もう20数年前、或いは30年位前かも知れませんが、ある新聞は「今は元気印の時代」と書いていました。とにかく、元気であることは幸せで素晴らしい、と言いたかったのでしょう。
他にも色々考えられます。多彩な趣味を持ち、楽しんで生きる!多くの人に注目され、名声を得、社会的地位を得る!ドラマティックで、エピソード一杯の波乱万丈の人生を送る!素敵な人と巡り合って結婚し、楽しい平和な家庭を築く!多くの友人を持ち、世界中の色々な所へ旅行できる!これらはどれも素晴らしく、感謝なことだと思います。
しかし、これらが私たちの人生の幸福度を決める決定的な要素であり条件かというと、果たしてどうでしょうか。
そこで、聖書はといいますと、先程見ましたように、信仰者エノクは本当に幸せだったと教えます。では、どういう理由で彼は幸せだったのでしょうか。聖書は、ただ一つ、彼が神と共におs歩んだことを取り上げます。神と共に歩むことこそ、何より大切で尊いと聖書は言います。
では、神と共に歩む、つまり、神と共に生きるとは、どういうことでしょうか。
第一は、創り主であられる真(まこと)の神から離れず、神の近くにいることと言えるでしょう。
無論、エノクも私たち同様、生れながらに罪人であり、決して完全な人ではありません。気持が神から遠のくことも、たまにはあったでしょう。しかし、それに気付くと、すぐ神を仰ぎ、詩篇73:28にありますように、神のそばにいようとしたのだと思います。物事がうまく運ぶ順境の時も、その反対の辛い逆境の時も、とにかく神から離れず、神の近くにいようとした、と言えるでしょう。
第二は、神の聖(きよ)い戒めや御心に素直で従順なことと言えます。神の戒めに従わないでいて、神と共に歩むとは言えません。実はエノクという名前は、ヘブル語で「従う人」という意味です。両親がそう願って名付けたのでしょう。とにかく彼は、神の嫌われる偶像礼拝を決してせず、父と母を敬い、結婚関係を尊び、性的罪を犯さず、盗まず、偽らず、神と隣人を愛し、神と隣人に仕えるなど、神の戒めをよく自覚し、完璧ではなくても心から従おうとしたのでしょう。
第三に、遜(へりくだ)って神を仰ぎ、礼拝し、神によく祈る、つまり、神との親しい交わりの内に生きることと言えるでしょう。神に対して傲慢で、神を仰ぐとか、神に祈り、神に語りかけることも殆どしないなら、神との交わりに生きているとは言えません。私たちが誰かと共に歩むとは、その人と親しく語り合い、気持を通わせ、交わりのあることを言います。神と共に歩むことも同じですね。
そう言えば、信仰の父と言われたアブラハムは、どこへ行っても神に礼拝を献げ、祈り、神と親しく交わり、神と共に生きました。ですから、神は彼をイザヤ41:8で「私の友」と呼ばれた位です。エノクもそうだったと思います。
第四に、この世のことに執着せず、神が待っておられる天のゴールを目指して生きることと言えましょう。神と共に歩む人は、この世の色々なことも、無論、神の前に大切にし、無責任な生き方は決してしません。けれども、この世の生活は永遠に続かず、いつか終りが来ます。ですから、しっかり天のゴールを仰ぎ見て、この世のことに執着せず、ヘブル11:13が言いますように、地上では「旅人」「寄留者」として生きる、と言えます。
他にもあるでしょうが、神と共に歩むとはどういうことかを、4つばかり見ました。
では、神と共に歩む人は、何故幸せでしょうか。一つは、神に喜ばれるからです。
もし、私たちのとても尊敬している人がいて、その人に自分が喜ばれるなら、私たちはどんなに幸せでしょうか。まして、それが全ての善きものの源なる生ける真の神、しかも御子イエスをプレゼントして下さった程に私たちを愛しておられるその神に私たちが喜んで頂けるなら、どんなに幸せでしょう。でも事実、神と共に歩む人は、色々欠点はあっても神に喜ばれます。先程のヘブル11:5は、エノクが神に喜ばれていたことを伝えています。幸せの第一は神に喜ばれることです。
第二に、その人は神に永遠に受け入れられますから、幸せです。創世記5:24は、エノクについて「神が取られたので、彼はいなくなった」と言います。実は「取られた」と訳されているヘブル語には「受け入れられる」という意味もあります。神の素晴らしい永遠の懐(ふところ)に受け入れられるという意味です。神は、ご自分と共に歩む者を、この世においても喜ばれますし、やがて神の国で永遠に受け入れて下さいます。何という幸せでしょう!
第三に、その人は困難の多いこの世の旅路でも必ず神が、また神の御子イエス・キリストが、共にいて守り導いて下さいますから、幸せです。
聖書には、良い羊飼いに伴われる羊の譬が所々出て来ます。羊は弱く、目も悪いそうです。しかし、良い羊飼いがそばにいるなら、どんなに危険な所でも安心、安全で、幸せです。
神と共に歩む人も同じです。潰れそうになっても、神が必ず手を差し伸べ、抱き抱え、最後は必ず慰めに満ちた天の国へ伴って下さいます。詩篇23:1、2で、作者は自分を羊に譬えてこう歌います。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴われます。」
第四に、私たちにとって最も深刻な問題の一つ、孤独から守られます。
コロナウィルス問題がひどくなってから、結構多くの人が精神的に変になっているといいます。人と接する機会が減り、独りでいることが多くなったためです。
聖書の言う通り、私たちは皆、罪人です。ですから、人と一緒にいると摩擦も起り、独りの方が楽な面もあります。けれども、神は元々人間を社会的存在として創られました。従って、人との関係が絶たれますと、人間は、人から教えられことも支えられることもなくなり、心が渇き、活力を失います。これは今だけでなく、人間が基本的に抱えている問題です。
しかし、この点で神と共に歩む人は幸せです。先程、神がアブラハムを友と呼ばれたことを紹介しました。事実、神と共に歩む人に、神はいつでも友であられ、寄り添い、語りかけ、やがて死を迎える時も、御子イエスは傍らでずっと手を握り続け、友でいて下さいます。何と幸せでしょうか。
最後、第五に、ますます感謝し、神を賛美することが多くなりますので、幸せと言えます。
神と共に歩みますと、神は私たちの心を徐々に清め、真実なものや美しいものへの感受性を高めて下さいます。例えば、紫陽花(あじさい)の見事な色の変化!どんな芸術家も真似のできない夕焼け空の絶妙な色、そのグラデイションや雲の形!見事に上手に飛べる小鳥たち!言葉にならない感動を覚えます。その全てを神がデザインされ、造られたことを思いますと、嬉しくて神に感謝し、思わず「神様って、すごい!」と賛美しないではおられません。神と共に歩む者は必ずそのようにされていきます!こんな贅沢で勿体ない幸せが、他にあるでしょうか。
短い生涯でしたし、エノクには特別なエピソードもなかったかも知れませんが、彼は神と共に歩み、最後は神がご自分の所に移されました。そんなエノクを通して、神は今日、静かに私たちに大切なことを語りかけておられると思います。