2021年06月13日「人を裁くな」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にる梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、「あなたの目からちりを取り除かせてください」と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。
7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。
マタイによる福音書 7章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 誰もが犯しやすい過ちの一つに対するイエスの教えを、今日は学びます。イエスは言われます。7:1「裁いてはいけません。」

 世間では、裁き合いなど、日常茶飯事で、お互い様かも知れません。しかし教会でそうであるなら、心からの礼拝はできませんし、神の教会を破壊します。主イエスのこの教えは、誰もが肝に銘じるべきとても大切なものです。

 ところで、この教えには、しばしば間違った解釈が見られますので、まずそれを正しておきます。それは「一切裁いてはならない」というものです。これは如何にもイエスの愛の教えのように思われがちですが、それは違います。

 例えば、7:6で、イエスはどう言われるでしょうか。当時のユダヤ的背景の下でですが、ある種の不潔で頑なな人を、イエスが犬や豚と呼んでおられることからも一目瞭然です。

 7:15でも、イエスは偽りの教えをする者を厳しく裁かれます。23:13では、偽善的な律法学者やパリサイ人を強く非難なさり、23:16でも「災いだ、目の見えない案内人たち」とまで言われます。

 ローマ13章は、犯罪人は法律に従って裁かれなくてはならないと教え、テトス3:10は「分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい」と命じます。

 Ⅱヨハネ10は言います。「あなた方の所に来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。挨拶の言葉をかけてもいけません。」当時は信者の家が教会でした。つまり、誤ったことを教える説教者は、教会に迎えて説教させるな、そういう説教者には「先生、いいお話でした」などと挨拶するな、という意味です。

 もう十分でしょう。「上辺で人を裁かないで、正しい裁きを行いなさい」と、ヨハネ7:24でイエスが言われる通り、正しい裁きはすべきなのです。

 人を正しく裁き、悔い改めに導くことは、クリスチャンの権利また義務でさえあります。神は昔、預言者エゼキエルに言われました。エゼキエル3:17、18「人の子よ、私はあなたを、イスラエルの家の見張りとした。あなたは、私の口から言葉を聞き、私に代って彼らに警告を与えよ。私が、悪い者に『あなたは必ず死ぬ』と言う時、もしあなたが彼に警告を与えず、悪い者に悪の道から離れて生きるように警告しないなら、その悪い者は自分の不義の故に死ぬ。そして、私は彼の血の責任をあなたに問う。」

 このことを私たちしっかり肝に銘じたいと思います。救いの真理や教会の本質に関することは、人情論で動いてはならないのです。色々な教会がありますが、ヒューマニズムの影響を受けている多くの教会では、イエスの愛の精神を真似て誰をも裁かず、イヤなことを言わず、いつも優しく、赦しをもって交わるのが神の御心とされやすいと思います。お互い、罪も犯し、欠けだらけで、戒めたりすると却って躓かせることになると考えます。

 しかし、主イエスは偽教師を追放する裁きの権能を教会に与えられました。つまり、イエスは教会に戒規権能を与えておられるのです。イエスは言われました。ヨハネ20:23「あなた方が誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 宗教改革者たちは、「教会の三つの印(しるし)」を主張しました。第一が聖書に基づく正しい説教、第二が聖礼典の正しい執行、第三が霊的訓練を含めた正しい裁き、すなわち、戒規の執行です。これらがあってこそ、真の教会なのです。

 ついでに言いますと、非常に不信仰で頑なな信者への教会による戒規・裁きは、第一段階が訓戒、第二段階が陪餐停止、第三段階が除名です。

 無論、これらは戒規の目的をよく理解した上で行わなくてはなりません。戒規の第一の目的は罪に陥っている人の救いです。戒規により、その人が真に神を恐れ、心から罪を悔改め、教会の交わりに復帰できるように、愛の鞭として行います。

 第二は教会の純潔のためです。「あんなに不信仰で罪を犯している人が教会にいても良いのなら、私だってかまわない」などという考えを防ぐためです。

 第三は神の栄光のためです。最終的には全て神の栄光のためです。

 以上、「人を裁くな」という教えに対する誤った解釈について見てきました。

 では、イエスは何を問題としておられるのでしょうか。私たち罪人に生れながらに存在する裁き癖です。

 7:1は、むしろ「裁き続けるな」と意味です。イエスは私たちの習性をよくご存じです。私たちは何とすぐ人を批判し、粗探し(あらさがし)をし、人の欠点には目聡い(めざとい)でしょうか。生れながらに私たちは、人をよくけなし、悪口を言い、口に出さなくてもそれが心にあるという習性を持っています。

 一度、自分をテストしてみると良いでしょう。例えば、それほど好きでもない人のことを想像し、その人の良い点と悪い点と思えることを夫々上げて見ます。間違いなく、後者の方が多いでしょう。素晴らしいと思う人と良くないと思う人のどちらが自分には多いかを考えても、同じでしょう。

 では何故そうなのでしょう。私たちは、他人の欠点には目聡く、すぐこうだと決め付けて人を裁く強い習性を持っているからです。主はこういう私たちの習性にまでなっている裁き癖を問題にしておられるのです。自分のことは棚に上げ、人をよく裁き批判する、そういう罪深い習性に私たちが気付くことを、主は願っておられます。私たちをそこから救うためです。

 イエスは、これを信仰のない人に語られたのではありません。マタイ5章から始まる山上の説教は、何より弟子たちに語られており、この戒めは、イエスの教えを愛し、神に従おうとしている信者や求道者に語られています。そして主は私たちを真に愛しておられますので、私たちを罪の習性から解放し、神の国に入るに相応しい者へと、お清めになりたいのです。

 イエスの教えは鋭い。それは私たちを永遠の死から救うだけでなく、今、罪から解放し、清め、ご自分の祝福にもっと私たちを与らせるためです。

 ところで、主は何故ここまでこの問題を扱われるのでしょうか。それは自己義認、すなわち、自分は正しいとする深い罪の表れだからです。自己義認の典型的な例が、ルカ18:9以降の例え話の中のパリサイ人に見られます。彼は祈ります。11節「神よ。私が他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。」自分が神の憐れみによって生かされていることなど、全く頭になく、「自分はいい人間だ」と優越感に浸っています。

 これは必ず傲慢にも人を見下し、人に対して過度に批判的になります。正しく批判的であることには建設的な要素があり、それは必要なものです。けれども、過度に批判的であることは罪深いです。人の欠点、弱点を捜し出すことに、一種の快感を覚え、楽しいのです。

 私たちは、何より自分の心を鋭く見つめたいと思います。私たちが誰かの問題点を知った時、それを少しでも喜ぶ気持があるとするなら、それこそイエスがここで警告しておられることです。こういう醜い喜びを自分の内に感じたならば、私たちは直ちに自分に対して、「人の弱点を喜ぶ意地悪い裁き心よ。イエスの御名によって命じる。直ちに私から出て行け」と命じるのです。気付いたなら、放置していてはなりません。直ちに追い出すのです。

 最後に、この裁き心、過度の批判精神の生れやすい原因を見ます。それは、聖書を規準にして人を見る癖が、私たちにまだ十分身についていないことにあります。聖書は私たちが物事を正しく見るための規準です。人を判断する時も、聖書の原則に照らしてすべきなのです。

 しかし、それが私たちにはなかなかできず、自分の経験と気紛れな尺度で人を量り、なお悪いことに自分が裁判官になり、時には、神だけが下せる最終判決まで下します。ですから、ヤコブ4:11、12は厳しくこう注意します。「兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟について悪口を言ったり、裁いたりする者は、律法について悪口を言い、律法を裁いているのです。もしあなたが律法を裁くなら、律法を行う者ではなく、裁く者です。律法を定め、裁きを行う方はただ独りで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人を裁くあなたは、いったい何者ですか。」

 正しい聖書の原則によらず、自分の主観的尺度で人を裁くのは罪深いことです。私たちは自分の心をよくチェックしたいと思います。

 「あの人のことを私はあまり好きではない。一緒にいるのは、どうも苦痛だ」と思うなら、私たちはそういう自分の心をよく分析し、何故そうなのかを落ち着いて考えたいと思います。聖書の示す原則によって自分がその人を判断しているかどうかをチェックすることが、何より先です。自分とよく向き合い、自分の心を分析するのです。

 「人を裁くな」とイエスが聖書でお教えになるということは、僭越にもすぐ人を裁き、粗探しをする罪深い習性が、私たちの誰にもあることを意味します。しかし、そういう厄介な習性を自分が持っていることを知るだけでも、どんなに大きな恵みであり、感謝なことでしょうか。主イエスに結びついて自分の裁き癖との戦いを始める時、私たちは御霊の助けを頂き、徐々にでも必ず清められるからです。

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