2021年06月06日「今日を精一杯」

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分の体のことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、体は着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、もっとよくしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてもよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものがすべて必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。マタイによる福音書 6章25節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 「心配するな」という主イエスの教えに、今朝も耳を傾けたいと思います。

 人間誰しも好き好んで心配するわけではありませんが、つい心配し過ぎる不本意な現実があり、しかもそこに私たちを神から引き離そうとするサタンの働く時があります。ですから、イエスはマタイ6:25以降で大切な御言葉を私たちに下さいます。

 心配しないための秘訣を、私たちは今まで二つ見てきました。第一は、私たちの信仰を大きくすることです。イエスによれば、心配の第一の原因は、30節「信仰が薄」く小さいことにあります。イエスを信じて天国の希望を持つだけでなく、今や私たちクリスチャンの父となられた真(まこと)の神は、ご自分の子とされた者をご計画により天に召される時まで、必ず地上での生活も支えて下さるという、神の愛と支配を心底信じることが第一の秘訣です。

 第二は、33節「まず神の国と神の義を」求めることです。心配の原因が、「神の国と神の義」という最も大切なことではなく、食べていけるか生きていけるかといったことが心を占めていることにあるからです。

 今日は三つ目に進みます。何でしょうか。明日のことまで心配せず、今日のことに全力を傾けることです。主は言われます。34節「ですから、明日のことまで心配しなくても良いのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

 少し整理します。

 第一に、将来のことを心配し過ぎるのは、主によれば無益で愚かなことです。これは将来に備えることは無益であり、信仰一筋で何も備えないことが良い、というのではありません。人間をご自分に似せて造られた神は、完全な計画をお持ちの方です。ですから、私たちが将来を計画して生きるのは当然です。けれども、人間には限界があります。分りもしないことまで今から心配するのは、エネルギーのロスですし、無益で愚かです。

 第二に、心配し過ぎは有害ですらあります。「今日こんな調子なら、明日は、明後日は?」と、将来起るかも知れないことを前もって全部考えるなら、誰でもノイローゼになります。

 怖いことに、心配や不安は悪魔的力を持っています。一旦存在し始めると、それはどんどん膨らみ、私たちを虜(とりこ)にします。今日私たちを悩ますことができないとなると、必ず次の段階に進み、「では明日は、明後日は、来年は?」と進みます。心配の持つこういう危険な性質を知っておくことは、とても大切です。

 繰り返します。心配はそれ自体でどんどんエスカレートし、不安を煽り、ついに私たちを虜にします。例えば、誰かに相談し助言を求めるとします。しかし、本気で自分がそこから抜け出たいのか分らない位、人を虜にします。折角誰かが親切に熱心にアドバイスをくれても、「ありがとう。確かにそうだ。しかし、今はそれで良くても、半年後は、来年は、どうなのか?」と心配は広がり、ついに私たちから神への信頼を奪い取ります。心配がサタンの手口だというのは、こういうことです。心配は無益で愚かなだけでなく、非常に有害で危険でもあります。このことをよく知っておきたいと思います。

 では、どうすれば良いでしょうか。ここからが大事です。

 第一は、心配により機能が落ちている自分の信仰を目覚めさせ、力を取り戻させ、具体的な問題に適用させることです。

 ここで大事なことを確認しておきます。信仰は決して自動的には働かず成長しません。聖書にはパン種、つまり、イースト菌の譬が時々使われますが、マタイ16:6やⅠコリント5:6のように、どちらかというと悪い力や悪い教えや罪の例として使われます。パン種は、練った粉に混ぜられると、放っておいても自動的に粉全体を発酵させ膨らませます。悪い考えや欲望や力、心配などには、確かにそういう特徴があります。

 一方、信仰については、パン種の譬は聖書で一切使われていません。つまり、信仰は自動的に機能し成長するものとして私たちの心の中に置かれてはいないということです。洗礼を受け、礼拝や祈祷会にも欠かさず出席することは、計り知れない恵みですが、信仰はそれだけで自動的に成長するのではありません。信仰は、私たちが御言葉を具体的に自分に適用して、初めて成長します。ですから、問題を抱えている自分に尋ね、自分と論じ、自分に命じ、自分を従わせることが大切です。

 詩篇42:5で、旧約時代のある信仰者は、自分にこう呼びかけています。「わが魂よ、何故、お前はうなだれているのか。私の内で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」これこそ、自分の信仰を成長させ機能させる方法です。間接的な方法ですが、私たちがこうすることで、御霊が私たちの信仰を成長させ、機能させて下さるのです。

 ですから、私たちは、自分をよく観察することが大切です。自分のどこが問題で何が足りないかを自分に問い、自分の魂に向って「何故うなだれているのか。何故そんなに心配で不安なのか」と尋ねるのです。

 そして詩篇作者が自分の魂に「神を待ち望め」と命じたように、私たちも自分の魂を信仰により奮起させるのです。御霊を頂いているクリスチャンには、それができます。自分に語りかけ、筋道をたどって自分と論じ、自分を揺り動かし、自分の信仰を目覚めさせるのです。その瞬間から、私たちの信仰は機能し、成長し始めます。御霊がそうなさいます。

 神の御前で自分と対話し、自分と向き合う。私たちは、心配が始まったら、すぐこれを始めたいと思います。

 もう一つ、非常に大事なことを学びます。それは今日一日のことに全力を傾けることです。

 34節「苦労はその日その日に十分あります。」つまり、今日には今日の苦労があり、真剣に今日一日のことに取り組み、解決しようと思えば、明日のことまで心配している余裕はないということです。

 例えば、33節「まず神の国と神の義を求めなさい」を今日、自分に当てはめると、どうでしょうか。飲むにも食べるにも何をするにも神の御心がなるように自覚的に努め、Ⅰテサロニケ5:16~18が教えますように「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい」を本気で実行すると、どうでしょうか。世界の問題や家族の救い、苦しんでおられる方々のために心から祈ると、どうでしょうか。自分の不信仰や罪が抉り(えぐり)出され、頭のてっぺんから足の爪先まで、私たちの体も魂も全部罪から救われ清められ、イエス・キリストに似ることを真剣に求めると、どうでしょうか。今日一日かけても到底足りないことが分ると思います。

 神は、今日を、単に明日への通りすがりとして作られたのではありません。今日には今日固有の意義と意味を神は与え、明日ではなく、今日私たちが主と共に精一杯生きるように、私たちに期待しておられます。イエス・キリストの素晴らしい命が、今日、私たちの中で躍動し、体ごと神への芳しい献げ物となるように生きる!今日の私たちの一切合切が、神に仕える礼拝なのです。ローマ12:1は言います。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」

 今日という日の価値と重みを知り、これを満たそうと思えば、明日の心配をわざわざ今日に持ち込んで背負うことが、如何に不可能かが分るでしょう。ですから、明日のことまでひどく心配することは、今日を私たちは精一杯生きていないのかも知れませんね。

 主は私たちに対してどうであられるでしょうか。ヘブル13:8は言います。「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方…。」

イザヤ46:4で、主は私たちにこう言われます。「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す。」つまり、主は昨日も今日も明日も変らず、私たちを担い、背負って下さるのです。主の慈しみと愛は永遠に変りません。

また詩篇68:19は歌います。「ほむべきかな、主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ、私たちの救い。」信仰者を神は日々担われます。ここに「日々」とあります。ヘブル語の原文では、一日を表すヨームの複数形ヨーミームではなく、わざわざヨーム ヨームと繰返されています。一度にまとめて「日々」ではなく、神は一日また一日と私たちを担って下さる!これが真の神なのです。ですから、私たちも今日を主と共に、そして今日を主と愛する人々のために生きるのです。

 これは、信仰や救いに関することを初め、大切なことは明日に回さないことを意味します。というのは、明日になれば、私たちはまた翌日に伸ばしてしまうからです。今日神の前に真剣に生きなければ、明日も明後日も私たちはそれを先送りし、結局その機会を失います。大切なことは、今日出来ること、今日すべきことを、今日精一杯することです。そして、二度と戻って来ない今日をそう生きることが、実は将来への最善の備えともなり、将来を確実なものにするのです。ここに主イエスの素晴らしい知恵があります。

 思い煩いやすい弱い私たちを主イエスはよくご存じです。そして私たちを愛する故に、主は最高の知恵をお与え下さいます!34節「明日のことまで心配しなくて良いのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」

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