2021年05月30日「まず神の国と神の義を」

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まず神の国と神の義を

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章25節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分の体のことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、体は着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、もっとよくしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてもよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものがすべて必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。
マタイによる福音書 6章25節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 信仰があっても、何かと心配性で、自分を失いそうになりやすい私たちへのイエス・キリストの教え、「心配するな」を今日も学びます。

 将来についてよく考えることは、神の形に造られた人間にとってとても大切です。しかし、過度の心配は神の御心ではありません。過度の心配は私たちの心をバラバラにして自分を失わせ、サタンも働き、大切な信仰を破壊する危険があります。

 そこで前回は、信仰を大きくする必要性を学びました。イエスは30節「信仰の薄い人たちよ」と言って、信仰が薄く小さいことに問題の根を見ておられます。イエスを信じるなら、誰でも罪を赦され、天国に入れられる!この信仰は大切です。しかし、そこで留まり、それしかないという小さな信仰では、特に将来への心配という強大な敵に勝つことはできません。

 そこで、信仰を大きくするために、神が私たちの存在も命も全て支配しておられることを知る大切さを学びました。御子イエスを信じる者を神は愛し、最終的には私たちにとって一番良い時以外、私たちをこの世から召されることはありません!そういう神のご支配を心底信じ、神に一切を委ねることこそ、信仰を大きくする秘訣です。

 今朝は二つ目を学びます。何でしょう。33節「まず神の国と神の義を」求めることです。

 が、その前にイエスは大事なことを確認されます。31節「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と心配することは、イエスによれば、本来クリスチャンのすることではなく、32節「異邦人が切に求めて」いることであり、真(まこと)の神を知らないで生きている人のすることなのです。真の神を知らない人は、一般的に言って、何を食べ何を着るのかとよく心配し、話題や関心もそれらが多く、際限がありません。また持ち物をすぐ人と比べます。それらが心を占めていますので、それらのことで喜んではガッカリし、それら次第で幸福にも不幸にもなります。

 イエスはこれを愚かとされます。しかし、それだけでなく、クリスチャン本来のあり方をお教えになります。イエスによれば、クリスチャンとは、33節「まず神の国と神の義を」求める者なのです。

 これは何も耳新しいことではありません。聖霊により生れ変り、根本的な人生観、価値観の変革を体験したクリスチャンは、本来、「神の国」、すなわち神の聖いご支配と、「神の義」、つまり、罪人の私たちが神の聖いご性質にますます与る(あずかる)ことを、最重要なこととして生きている者です。

 イエスは前にもこの点を、5:6「義に飢え渇く者は幸いです」と言って教えておられました。しかし、この大切なことをイエスは私たちにとって自明のこととはなさらず、私たちの弱さをよくご存じですので、再確認されるのです。

 「まず神の国と神の義を求めなさ!」これは人間の構造をよく知り抜いた主の見事なアドバイスだと思います。あることが気掛かりで、ひどく心配している自分に私たちが気付くとします。そこで「あぁ、こんなことをいくら心配しても意味がない。やめよう」と思い、そうします。ところが、すぐまたそれが頭に浮びます。その堂々巡りです。

 こういう時に最も効果的なのは、全く別のことで頭を一杯にすることです。すると、前のことは自ずと消え去ります。「まず神の国と神の義を求めなさい。」主はいわば頭の切り替えを教えられます。

 しかし、これは単に心配しないための逃げのテクニックではありません。イエスは他のことではなく、「まず神の国と神の義を」求めよ、と言われます。クリスチャンは、自分を第一とする罪の生活から、私たちを愛し、憐れみ、責任をもって生かし導いて下さる神を第一とする義の生活に変えられた者です。回心とはそういうことです。

 祈り一つを見ても、自己中心的なものではありません。主の祈りで、クリスチャンは「我らの日用の糧を今日も与え給え」と自分の必要を祈り願いますが、あくまでそれは「天にまします我らの父よ。願わくは、御名を崇めさせ給え。御国を来らせ給え。御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と、まず神のことを祈った後です。クリスチャンとは、本来、崇められるべき神の知恵や力や聖さなどを、イエスによる神の絶大な愛に応えて崇め、イエスによる「神の国と神の義」に私たちの心と生活が満たされることを、何より第一に考えるものです。

 これはとても大切です。「まず神の国と神の義を」求めることが心を占めていないから、アレコレ心配が起るのです。自分の不信仰や罪深さを悲しむことも神の裁きも忘れ、「神の国」、神の恵みのご支配と、「神の義」、神の聖いご性質が私たちの内に作られることを第一に求めないから、色々な心配が私たちを襲うのです。心はバラバラになり、自分に信仰があるのかどうかもよく分らなくなり、信仰のない人と殆ど変らない位、すごく心配になり、気持が沈み、無気力の泥沼にはまり込むのです。

 繰り返します。クリスチャンは、26節や32節で主が言われるように、信仰によって既に神を「天の父」と呼べる者にされており、真の神を知らない「異邦人」とは明確に区別されます。クリスチャンの人生観、死生観、価値観、最高の喜びは、この世の人とは根本的に違います。

 もう一度確認します。クリスチャンとは、今までの自己中心的生き方から、私たちを極みまで愛し、責任をもって生かし、持ち運んで下さる天地の創り主なる真の神を中心とし、神を第一とする義の生活に変えられた者です。何を考え計画し、どんな夢を膨らませ、何にチャレンジし、どんな趣味に没頭しようとも、救われて主に結ばれているクリスチャンは、Ⅰコリント10:31が言いますように「食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すために」します。イエスが言われますように、一番大事な神の国と神の義を忘れず、このことが頭から離れず、特に世の終りが一層近づいていることを知って、このことを一生懸命考え、切に求めて祈らずにはおられません。

 そして、実はこのことに自分の心が占領されているなら、将来のことも無論一生懸命考えますが、心がバラバラになるまで心配することができず、そこまで心配している暇がありません。これをイエスは教えられるのです。

 しかし、これで終りではありません。真のクリスチャンにとって本質的なことをイエスは再確認して下さいましたが、これに天の父なる神の祝福が必ず伴うことも主は私たちに確認させ、励まされます!それを見て終ります。

 33節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」「これらのもの」とは、私たちの生存に必要なもののことです。最も大事な「神の国と神の義」をまず求めて生きるなら、神は、この世で必要な他のものも、いわば「おまけ」として必ず与えて下さるということです。贅沢は許されませんが、必要は必ず満たして下さるという約束です。

 しかし、これは本当でしょうか。神の国と神の義を第一に求め、誠実に神に従ったのに、食べていけなくなった人はいないのでしょうか。旧約時代の信仰者は言います。詩篇37:25「若かった頃も年老いた今も、私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを。」

 Ⅰ列王記3章は、ソロモンの祈りへの神の応答を伝えます。ダビデの後を継いでイスラエルの王になったソロモンは、他のものではなく、民を正しく裁き、善と悪を正しく判断できるように、最も大切な聞き分ける知恵を何より神に願いました。すると神は、知恵に満ちた賢明な心と共に、彼の求めなかった富と誉れをも与えられました。これが神のなさり方です。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる!」

 ここでも、私たちは神への信仰を問われます。どんなに神が聖書で約束しておられても、私たちが本気で信じなければ、それは実現しません。

 前回は信仰を大きくする必要を学びました。今回、問われるのも信仰です。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」これを本気で信じ、そうするのです。

 今は、誰にとっても先行き不透明な大変生き辛い時代だと思います。日本も世界も先々のことは誰にも分りません。けれども、私たちの前に生きたクリスチャンの先輩たちも皆そうでした。楽々と生きた人など、一人もいません。しかし、彼らは、分らないことは神に委ね、分っている所で生きました。私たちも、そうすることで、私たちを愛し、御言葉を与え、救いの完成へ導こうとしておられるイエス・キリストの約束の実現を、是非、体験したいと思います。

 最後に、ヘブル10:35~39を読んで終ります。「ですから、あなた方の確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。『もう暫くすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、私の心は彼を喜ばない。』しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じて命を保つ者です。」

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