2021年05月16日「心配するな」

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分の体のことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、体は着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、もっとよくしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてもよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものがすべて必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。

マタイによる福音書 6章25節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 「心配するな」という主イエスの教えに今日は進みます。

 イエスは、25~34節で何を一番問題にしておられるのでしょうか。私たちを神から遠ざけ、滅ぼそうとするサタンの働きです。

 私たちクリスチャンは日々神との関係に生きますが、この世の様々な関係にも生きるため、しばしば神との関係を損う危険があります。19~24節で地上の宝や富の持つ危険性を語られたイエスは、25節以降でも、この世に属するものに私たちが心を奪われ、神との関係を損う危険のあることに注意を促されます。

 サタンの狙いは何でしょうか。地上のものに私たちの心を引き付け、神から遠ざけ、自分と同じ永遠の滅びへ落すことです。自分が神に滅ぼされることを知っているサタンは、神の愛される人間を一人でも多く自分と同じ運命に巻き込もうとして全力を傾けています。恐ろしいです。

 感謝なことに、神はサタンのやり方をも聖書で教えておられます。しかし、その恐ろしさをイエスは私たちにとって自明のこととはされず、お話下さいます。サタンのやり口を全部ご存じの主の警告を、誰も聞き流すことはできません。

 イエスは私たちの弱さをよくご存じです。ですから、単に「~に注意せよ」と言うだけでなく、空の鳥や野の花の例まで持ち出して、私たちのレベルにまで降りて下さいます。イエスの深い愛を思います。

 またイエスは「心配するな」と繰り返され、31、34節でも「ですから」「ですから」と言って、順次まとめながら論証されます。イエスは繰返しの重要性をよくご存じです。繰返しは最良の教育方法の一つです。一度だけでは、私たちには十分でありません。ここに教育する者とされる者の最良の心得があります。

 さて、「心配する」と訳されているギリシア語は「心が分れる」という意味で、自分を失うことです。ルカ福音書10章が伝えますように、マルタとマリアの家でイエスはこう言われました。ルカ10:41「マルタ、マルタ、あなたは色々なことを思い煩って、心を乱しています。」イエスをもてなそうとする動機は良かったのですが、忙しさの余り、マルタはマリアにだけでなく、イエスにも苛立ち、自分を失いました。心がバラバラになったのです。ここの「思い煩う」はマタイ6:25の「心配する」と同じギリシア語であり、結構重い言葉なのです。

 とにかくイエスは、心配の余り心がバラバラになり、神への信頼と神との生きた関係が失われる危険に注意を促されます。

 ところで、「心配するな」という教えに対し、「信仰は大切だが、それだけでは生活できない」という声もありますね。どうなのでしょう。

 無論、ただ信仰に励めば、神が食べさせて下さるなどとは、聖書は一言も教えていません。Ⅱテサロニケ3:10は言います。「働きたくない者は、食べるな。」

 それにイエスの教えからも、労働は人間の義務であることが分ります。確かに、空の鳥に神は食べ物を下さいます。でも、鳥はじっとしていて良いのではありません。飛び回っては餌を捜し、口ばしでつつき、働きます。野の花も根から水分と養分を摂り、働きます。

 問題は、信仰か生活かではなく、信仰を土台とした生活かそうでないか、なのです。

 また、これは将来計画や貯金は必要ないというのでもありません。将来を考えることは、神の形に造られた人間の大切な特徴です。神は無計画な神ではありません。

 けれども、イエスは、将来に対する考え方に注意されます。「将来についてよく考えなさい。しかし、心配し過ぎて、心がバラバラになってはいけない。あなたの魂が滅びないためだ」と。自分の今後についての考え方次第で、私たちの信仰は大きく左右され、永遠の救いまで危うくなります。

 では、心配し過ぎないためには、どうすれば良いでしょうか。イエスは実際的知恵を下さいます。34節までに三つ教えられていますが、今朝は信仰を大きくすることを学びます。

 30節「信仰の薄い人たちよ」とあります。「薄い」とは小さいという意味です。多くの英語聖書は「小さい信仰」と訳しています。ローマ2:3には「信仰の量り」とあります。つまり、信仰にも大きさがあり、信仰は大きくする必要があるのです。

 では、どうすれば良いのでしょうか。神こそが天地の支配者、命の賦与者、保持者であられることをしっかり覚えることです。

 25節で、イエスは、飲食することと命、着ることと体について問われます。古代社会では、衣服のあるなしは死活問題でした。要するに、ここでイエスは、私たちの生存そのものに目を向けさせられるのです。「あなたは食べる心配をしている。しかし、命の方が遥かに重要ではないか。あなたは着る心配もしている。だが、体の方が遥かに大切ではないか。そこであなたに尋ねる。あなたはその大切な体と命を、どうやって得たのか。」

 無論、神が下さった!ここが大切です。「命も体もあなたが造り出したのではない。人は自分で自分を造り出すことはできず、自分の意志で生れた者は一人もいない。あなたが今存在し生きていることも、ただ神の意志により、一切が神の御手の内にある。

 将来、食べていけるか、生きていけるかと心配するそのあなた自身は、どうやって存在したのか。『あなた方の天の父』(26節)となられた神の意志による!そうであるなら、神はご自分の子とされたあなたを、どうして生かされないであろうか。」

 イエスは、神が私たちを今後も生かされる具体的方法までは語っておられません。当然、私たちは勉強し、働き、努力し、知恵を絞ります。それらを通して神は私たちを生かされます。御計画に従って命を与えられた神ですから、御計画に従って天に召される時まで、決して放ってはおかれません。

 私たちのものは全て神が下さった。命と様々な必要の最終的鍵を握るのは神であるというこの根本事実を徹底的に覚えること。これが信仰を大きくする秘訣です。物質も私たちの命も、一切合切が神の御手の内にある。しかし、これが分らず、自分が偶然生れたというなら、私たちは自分の存在の土台を失い、また将来のことで絶対確かなものなど一つもないのですから、私たちは心配で心を病まざるを得ないでしょう。

 しかし、そうではありません。確かに神がその方が良いと思われるなら、私たちが生きたいと願っても、私たちは世を去ります。しかし、神が望まれるなら、何が起ろうと、神は私たちを生かし養われる!これが本当に分って、「アーメン、その通りです」と心底言えるかどうかが、信仰があっても、部分的で小さな信仰か、大きな信仰かの瀬戸際なのです。そして、これが分るかどうかで、私たちの将来に対する姿勢は大きく違って来ます。

 主は言われます。26、27節「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなた方の天の父は養っていて下さいます。あなた方はその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなた方のうち誰が、心配したからといって、少しでも自分の命を延ばすことができるでしょうか。」これをしっかり理解したいと思います。

 ヘブル書11章が伝える旧約時代の信仰者たちは、人生で分らないことにいっぱい遭遇し、生きていく困難と不安に絶えず直面し、死と隣合せでした。しかし、彼らは知っていました。「神がご存じであり、神が最終的に責任を取って下さる」と。

 彼らは信仰により、自分がどこから来て最後はどこへ行くのか、またどなたが自分を世に送り出し、どなたがゴールまで背負って下さるかも確信していました。それは神が約束しておられることでした。神は言われました。イザヤ46:3、4「ヤコブの家よ、私に聞け。イスラエルの家の全ての残りの者よ。胎内にいた時から担がれ、生れる前から運ばれた者よ。あなた方が年をとっても、私は同じようにする。あなた方が白髪になっても、私は背負う。私はそうしてきたのだ。私は運ぶ。背負って救い出す。」

 詩篇37:23~25は言います。「主によって、人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも、倒れ伏すことはない。主がその人の腕を支えておられるからだ。若かった頃も年老いた今も、私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを。」

 詩篇127:2は言います。「実に主は愛する者に眠りを与えて下さる。」ここは「主は愛する者に、眠る間もこのように与えて下さる」とも訳せます。私たちが疲れ果てて眠り、先のことも何も考えられない時も、神は私たちのために働いておられる!これが私たちの神です。

 旧約時代の信仰者たちは、やがて来られる救い主による罪の赦しと救い、また天の父としての神の永遠の愛と真実を知り、そこに希望と安心を見出し、天の故郷(ふるさと)を目指し、歩みました。彼らは自分たちを存在させ生かしておられるのが神であることを知っていました。そして神が「もう良い」と思われるなら、いつでも自分たちを召され、しかし、自分たちを生かそうと思われるなら、この世がどうなっても神は自分たち生かし、必要なものを下さることを信じて疑いませんでした。そして事実、神はそうされました!

 イエスは言われます。30節「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装って下さるのなら、あなた方には、もっと良くして下さらないでしょうか。」

 神への信仰をもっともっと大きくされたいと思います。どうか、御霊が私達に一人一人に強く臨んで下さいますように!

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