2019年02月24日「神に生かされて生きる」

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神に生かされて生きる

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
創世記 2章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

2:1 こうして天と地とその万象が完成した。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざを完成し、第七日目に、なさっていたすべてのわざをやめられた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。
2:4 これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である【主】が地と天を造られたときのこと。
2:5 地にはまだ、野の灌木もなく、野の草も生えていなかった。神である【主】が、地の上に雨を降らせていなかったからである。また、土地を耕す人もまだいなかった。
2:6 ただ、豊かな水が地から湧き上がり、大地の全面を潤していた。
2:7 神である【主】は、その土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
2:8 神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神である【主】は、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
   (新改訳聖書 2017年度版)
創世記 2章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は「神に生かされて生きる」と題してお話致します。

 少し説明致します。ご承知のように、創世記1章は神が人を造られた時のことを天地創造の大きな視点から伝え、創世記2章は人間に的を絞って伝えます。特に創世記2:7は、人が身体的には「大地の塵」、すなわち、物質から創られ、霊的には神から「命の息」、つまり、魂を吹き込まれて「生きる者」となったことを伝えます。要するに、人は神に創られ、神に生かされている事実を、聖書は語ります。

 「人は、生きているというより、生かされている」と、近年、よく言われるようになりました。1995年に阪神淡路大震災で6434名、2011年に東日本大震災で死者・行方不明者が18432人という未曽有の体験を私たちはしました。また1990年代にバブル経済が壊れて生き辛くなり、1998年から14年連続で年間自殺者が3万人を超えました。一方、ホスピスや終末医療が普及し、人は死ぬ者であることが、オープンに語られるようになりました。そういう中で、「人は生かされている」と言われるようになったようです。

 もっとも、何に生かされているかとなると、夫々の宗教や哲学が出てきます。しかし、割合多くの人が、万物を超えた神を考えるようです。自然なことだと思います。

 私事ですが、私の家内の父、つまり、改革派静岡教会と静岡盲人伝道センターを立ち上げ、4年半前、天に召された青山輝徳牧師は、電気化学科の学生だった1945年(昭和20年)、20歳の時、横浜の自宅の裏庭に落ちた不発焼夷弾が爆発して、両眼と左手の指2本を瞬時に失い、体中、大怪我をして何日も死の淵をさ迷い、辛うじて一命を取り留めました。再び空襲があり、動ける患者や病院職員は病院から逃げました。しかし、彼はベッドに縛られたままで目は見えず、空襲が終るまで、ただただ恐怖に震えていました。ところが、逃げることの出来た人が大勢亡くなり、逃げられなかった彼が助かりました。その時、彼に信仰はありませんでしたが、「人は何かに生かされている」と心底思ったそうです。

 やがて戦争が終り、母も亡くなり、引き取られた岐阜の親戚の家で、アメリカ人宣教師の語るラジオ放送、ヨハネ福音書9章のお話ですが、生れつきの盲人について弟子たちがイエスに、「先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」(同9:2)と、いわゆる因果応報思想に基いて尋ねる話を聞きます。イエスはお答えになりました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(同9:3)苦難の意味に悩んでいた彼は、ここに何か答があるのではないかと思い、そこで、クリスチャンでもない叔父にお願いし、手を引いてもらって教会に通い始めます。そして、ついにイエス・キリストを救い主と信じ、クリスチャンになりました。やがて人を真に生かすキリストの福音を多くの人に伝えたいと願い、神学校へ行き、牧師になり、多くの人にイエス・キリストを伝えてきました。

 死の淵まで行き、が助かり、「私は今まで自分で生きていると思っていたが、そうではなく、生かされていることが分った」と言う人に、私は以前勤めていました淀川キリスト教病院で時々会いました。死の手前まで行ったことで、自分が生かされていることを、心底実感するのだと思います。

 では、神に生かされているのであるなら、聖書によれば、私たちはどう生きるべきでしょうか。

 第一に、何より謙虚でありたいと思います。創世記2:7が伝えますように、人は身体的には「大地の塵」で造られた者に過ぎず、死ねば、皆、土に帰ります。動物や植物と同じです。ですから、人間以外の命に対し、また何より私たちを造られた神に対し、本当に謙虚でなければならないと思います。

 第二に、生かされていることに常に感謝する者でいたいと思います。

 恐ろしく過酷な環境の大宇宙に漂う、まるで塵のように小さな地球に生命が存在すること自体、奇跡です。そこに自分が生れ、生きてこられたことは、決して当り前ではありません。

 私は時々昔を振り返ります。幼い頃、池や川で溺れ、枝が折れて高い木から落ちたことを初め、死んでいて当然のことが何度もありました。友人はもう何人も死にました。ですから、今、自分が生きていることは決して当り前ではありません。

 自分が生き、あるいは生かされていることが分るのは、人間だけです。人はそのように造られ、光や空気や様々な物を与えられ、生かされています。

 では、不信仰な罪人の私たちが、今、生かされているとは、どういうことでしょうか。一つ言えるのは、神は、私たちの罪や不信仰はお嫌いですが、なお私たちを憐れみ、まだ私たちに絶望されず、何かを期待しておられるということです。これを心底感謝したいと思います。

 第三に、いつ死んでも確実に天国へ行けるように、私たちを罪から救い、永遠の命を与えるために十字架で命を捧げ、復活された神の御子イエス・キリストを信じ、何があっても主(しゅ)イエスに固く繋がっていたいと思います。

 ルカ福音書12:16以降に、イエスの話された愚かな金持の譬があります。「ある金持ちの畑が豊作だった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産は全てそこにしまっておこう。そして自分の魂にこう言おう。「わが魂よ、これから先何年分もいっぱいものが貯められた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』」

 豊作も神に頂いたものですのに、彼には自分のことしか頭にありません。ですから、神は「愚か者、お前の魂は、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物は、一体誰のものになるのか」(20節)と言われます。

 「自分はもう少し生きるだろう」と私たちは考えますが、いつ死ぬかは全く分りません。先年亡くなられたある有名なお医者さんが、「人は自分が思っているよりも手前の、70%位のところで死ぬんですよね」と言われたことを思い出します。

 だからこそ、いつ死んでも、「神様、私はいつでもあなたの許(もと)に参ります」と喜んで言えるように、イエス・キリストに堅くつながっているかどうかを日々自らに問いつつ、皆で励まし合っていきたいと思います。ヘブル人への手紙3:12、13は言います。「兄弟たち、あなた方の内に、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『今日』と言われている間、日々互いに励まし合って、誰も罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。」

 第四に、今まで生かされてきたのですから、神を信じ、どれ程辛くても希望を持ち、神様に期待し、天に召される時まで命を簡単に放棄せず、生きることを大切にしたいと思います。

 

 第二次世界大戦の折、アウシュビッツ強制収容所を生き抜いたオーストリアの精神科医V.フランクルは言いました。「たとえどんな困難の状況にあってもなお、生命の最後の1分まで、生命を豊かに形づくる豊かな可能性が開かれているのである。」地獄のような収容所内で、彼は自分と他の多くの人を見、このことを体験しました。

私たちは神に生かされ、神が「もう良い」と決められたなら、世を去ります。従って、その時まで望みを失わず、生きることを簡単に放棄せず、むしろ、生きることを大切にしたいと思います。

 第五に、イエス・キリストへのただ信仰を通して永遠の命を下さる神の豊かな救いの愛を覚えて、特に人に仕えることを自分の生き方の中心に据えたいと思います。

 

 イエスはマタイ福音書22:37以降でこう言われます。「『あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」

 私たちを造られた神を愛し、神に仕え、また神に造られた人を愛し、人に仕える!ここに人間の最も尊い使命があります。マザー・テレサは祈りました。「主(=神あるいはイエス・キリスト)よ、私が空腹を覚える時、パンを分ける相手に出会わせて下さい/ 寒さを感じる時、暖めて上げる相手に出会えますように/ 不愉快な時、喜ばせる相手に出会えますように/ 私が乏しい時、乏しい人に会わせて下さい/ 私の十字架が重く感じられる時、誰かの重荷を背負って上げられますように/ 暇がない時、時間を割いて上げる人に出会えますように/ 私が屈辱を味わう時、誰かを褒めて上げられますように/ 気が滅入る時、誰かを力付けて上げられますように/ 理解してもらいたい時、理解して上げる相手に出会えますように/ かまってもらいたい時、かまって上げる相手に出会わせて下さい/ 私が自分のことしか頭にない時、私の関心が他人にも向きますように/ 主よ、私たちの手を通して、日毎のパンを、今日人々にお与え下さい/ 私たちの思いやりを通して、主よ、人々に平和と喜びをお与え下さい。」

 人が最も幸せな時とは、自分が誰かに大切に思われていることが分かる時ですよね。ですから、インドのコルカタの道端で、まるでぼろ布のように横たわって死を待つだけの人たちを、マザー・テレサはどこまでも神に造られ生かされている人として、その尊厳性を尊び、自分の命を使って生涯ぶれることなく仕えました。「使命とは命を使うことだ」というクリスチャン作家の三浦綾子さんの言葉を思い起します。

 約十年前、あるクリスチャンの女性、Yさんが淀川キリスト教病院のホスピスで亡くなりました。癌が転移し、別の二つの病院でも治療を受け、でも、うまく行かず、その都度、落胆し、気持も荒れました。

 ついにホスピスに移られ、初めは沈んでおられました。しかし、2、3日後辺りから「私、ほんまに恵まれ過ぎてます。感謝ばっかりです」と、毎日訪問する度に満面の笑みで言われました。ある時、天国の話になりました。私は彼女に「Yさん。天国では、イエス様は別として、誰に一番会いたいですか。僕は、20世紀最大の説教者の一人、マーティン・ロイドジョンズ、それとクラシック・ギタリストのナルシソ・イエペスですね」と言いました。彼女は笑いながら、「天国でイエペスさんから、『田村さん、ギターの練習がまだ・まだ・まだ足りませんね』と言われるんと違いますか」と言い、ニコニコして「私はバッハです」と、教会で長年オルガンを弾いてこられた彼女らしく言われました。

 何が彼女をこのように平安にし、「私、ほんまに恵まれ過ぎてます。感謝ばっかりです」と言える人に変えたのでしょう。彼女の長年のキリスト教信仰と苦痛が和らげられたことは当然です。ただ、私は端(はた)から見ていて、ボランティアも含めた病院スタッフの皆が彼女を本当に大切にし、心から仕えたことも大変大きいと思います。「私はこんなに皆に大切にされている。神様、何と感謝なことでしょう。もう思い残すことはありません」という気持が大きかったと思います。

 神に生かされてという認識が私たちにもたらすものは、まことに尊いと思います。「私は、今この瞬間も生かされている。だから、私は神に命をお返しする時までイエス・キリストにしっかりつながり、イエス様に手を握って頂きながら、少しでも多くの方と神様の愛を分かち合うことをこそ使命とし、天の国を仰ぎながら、命をしっかりと、でも丁寧に使わせて頂こう。イエス様、あなたを信じ、あなたに委ねます。」このように私たちも決意できればと思います。

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