2021年05月09日「神か富か (2)」

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聖句のアイコン聖書の言葉

6:22 体の明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
6:23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。
6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。マタイによる福音書 6章22節~24節

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 マタイ6:22~24は、2千年前、神の御子イエスが弟子たちに語られたものです。今朝は24節「誰も二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなた方は神と富とに仕えることはできません」に注目します。

 少し振り返ります。イエスは19~21節で「地上に宝を蓄えるな。天に宝を蓄えよ」とお教えになり、私たちが最も大切と思う宝は、地上のものではなく、決して失われることのない天の神の喜ばれるものでありなさい、と言われます。

 続く22、23節では、私たちの心の目を曇らせ濁らせ、人格と人生、それどころか永遠の行先にまで悪影響を与える地上の宝に執着するのか、それとも、私たちを必ず祝福し、明るい光で照らす神とその御心に焦点を合せて生きるのか、を問われます。

  今日の24節は、以上の教えの更なる展開また再確認と言えます。主は「あなた方は神と富とに仕えることはできません」と駄目押しし、「神にのみ仕えよ」と言われます。

 一体、何故イエスはここまで言われるのでしょうか。イエスを救い主と信じていても、私たちの内に残る罪の性質のために、私たちには、神以外のこの世の物も宝とし、それに仕える危険性があるからです。

 今、危険と申しました。神と富とに兼ね仕えることは危険なのでしょうか。神にも富にも仕えることは、無理なのでしょうか。主イエスによれば、それはできませんし、危険なのです。主はこの点を24節の主人と僕(しもべ)の譬によりお教えになります。

 24節の譬は、紀元1世紀の人にはよく分ったと思います。実は、「仕える」と訳されているギリシア語は、「奴隷として仕える」という意味なのです。無論、イエスは奴隷制度を認めておられるのではありません。当時はそれが広く見られたので、例話として使われたに過ぎません。

 かつて奴隷は主人にひたすら仕え、主人は奴隷の絶対的所有者でした。ですから、奴隷が二人の主人に同時に仕えることはできず、しかし万一そんなことがあれば、24節「一方を憎んで他方を愛する」か「一方を重んじて他方を軽んじるか」にならざるを得ません。

 主人と僕(しもべ)のこの比喩により、イエスは、私たちが神と富に兼ね仕えることは絶対にできないことを示されます。しかし、それでもそうしようとするなら、私たち罪人は必ず富の方を重んじ愛し、富に仕えるようになります。言い換えますと、私たちは真の神を必ず軽んじるようになり、徐々に神から離れ、遂に永遠の滅びに至ります。ですから、非常に危険だと主は言われるのです。

 主は私たち人間の心を実によくご存じです。私たちの心は、私たちが思っているほど器用ではありません。特に自分の全存在や喜びを傾ける位、大切に思っていることについては、二つのものに、同時に同じだけの愛と関心と熱心を傾けることはできません。

 私たちを創られ、御子を賜ったほどに私たちを愛しておられる真(まこと)の神を信じ重んじ、同時に他のものをも信じ重んじることを、聖書は二心と呼びます。ヤコブ1:8や4:8、旧約聖書の詩篇12:3や119:113に出てきます。聖書は二心を強く非難します。神に対して不遜で罪深く、私たち自身を、結局、滅ぼすことになるからです。ですから、昔、イスラエルの民が真の神である主を信じ、しかし偶像神バアルも信じた時、預言者エリヤはカルメル山で彼らにこう迫りました。Ⅰ列王記18:21「お前たちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であるなら、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」

 マタイ6:24に戻ります。イエスは言われます。「あなた方は神と富とに仕えることはできません。」「あなたは、神をあなたの主人として仕えるのか、富をあなたの主人として仕えるかのどちらかである。両方に同じだけ仕えることなどできない。が、もしあなたがこの点で曖昧なら、私はハッキリ言う。神こそあなたの創り主であられ、あなたを真(しん)に愛し、罪と死と永遠の滅びから、ただ信仰の故にあなたを贖い、永遠にご自分のものにして下さる方である。従って、あなたも神をのみあなたの主人とし、神にのみ仕えなさい」と。

 しかし、イエスがこうまで強く言われるのは、何故でしょうか。私たちを真に愛しておられるからであり、何としても私たちを富の持つ恐ろしい危険からお守りになりたいからです。ですから、御霊に導かれてパウロも、富や金銭の持つ危険についてハッキリこう教えました。Ⅰテモテ6:9、10「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」

 実際、既に初代教会時代にも、金銭を追い求め、金銭に執着したため、信仰から迷い出て、自分を滅ぼす者もいました。その最たる者は、イエスの12弟子の一人、イスカリオテのユダでしょう。このユダについては、イエスがユダヤをローマ帝国の支配から解放する救い主として行動を起さないので、仕方なく裏切って見せ、イエスを立ち上がるように仕向けたという解釈もあります。しかし、聖書の証言は違います。例えば、イエスがベタニヤ村へ行かれた時のことを、ヨハネ12:3~6はこう伝えます。「マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りで一杯になった。弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。『どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからである。」

 ユダは金のためにイエスを裏切り、しかし、イエスが十字架につけられるのを知って強く後悔し、自殺しました。ある一線を越えると、人はもう戻れない。とても怖いのです。

 お金のことぐらいで、と私たちは思うかも知れません。それは甘いです。心の隙を狙ってサタンが働く時、富や金は人間の心を支配し、正常な判断をできなくさせます。まさに人は金の奴隷になってしまうのです。

 私が中学生の時だったと思います。題名も全く覚えていませんが、ある映画をテレビで見ました。主人公の男は江戸時代の大阪の商人で、苦労して一生懸命働き、人も沢山使う大富豪になりました。しかし、家の奥のある部屋だけは鍵をかけ、家族をも入れませんでした。ある時、火事が起りました。皆は商品など大事なものを必死になって外へ運び出しますが、火の勢いは収まらず、ついに皆、外へ逃げるしかありませんでした。ところがその男は、皆が止めるのも聞かず、半狂乱の状態で鍵のかかった奥のその部屋へ入り、中から鍵をかけ、とうとう焼け死ぬ。沢山の富をそこに隠していたからでした。

 ルカ12:16以降にある譬話の金持は、豊作だったことに有頂天になり、すっかり安心し、しかし、人に命と喜びを与え生かしておられる神のことを忘れ、その夜、命を取られます。

ルカ16:19以降にある譬話の金持は「紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた。」しかし、自分の家の前で横たわり、毎日苦しんでいた貧しいラザロの姿は目に入りません。入らなくなったのです。死後、この金持は陰府で永遠に苦しむことになります。

 このように、時として富は私たちに神のことも他人のことも、そして実は自分自身のことも分からなくさせます。とても怖いのです。

 もう十分でしょう。主イエスは神の独り子ですのに、この世に来られ、私たちと同じように生活されました。ですから、私たち人間の弱さを本当によくご存じであり、でも、このような私たちを世界中の誰よりも愛して下さっています。だからこそ、富や金銭の持つ恐るべき危険から、私たちを何としてもお守りになりたいのです。

 更に言うと、私たち人間と親しく交わるためにご自身の形に私たちを造られ、しかも御子を賜った程に私たちを愛しておられる真(まこと)の神の僕(しもべ)であることの最高の幸せと、この世が決して与えることも奪うこともできない神の平安に与らせたいのです。このイエス・キリストの愛を良く覚えて、今朝の御言葉を改めて深く心の奥に刻みたいと思います。

 富やお金自体が悪なのではありません。金も富も、神が恵みにより私たちに分け与え、また暫く私たちに預けておられ、感謝すべきものです。けれども、富も金も決して神ではなく、私たちの態度次第でサタンの道具にもなり得ます。ですから、決してそれに支配されてはなりません。あくまで私たちがその主人で支配者であり、自分と隣人のために、特に素晴らしい福音が多くの人に届けられ、人が救われ、最終的には神のお喜びがもっともっと増し加わるために、しっかり管理し、良く用いたいと思います。

 最後に、Ⅰテモテ6:17~19を読んで終ります。「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちに全ての物を豊かに与えて楽しませて下さる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来るべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、真の命を得るように命じなさい。」

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