神か富か
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- 田村英典 牧師
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マタイによる福音書 6章22節~24節
聖書の言葉
6:22 体の明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
6:23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。
6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。マタイによる福音書 6章22節~24節
メッセージ
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神の御子イエスが弟子たちに語られた御言葉に、今日も注目します。22、23節「体の明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたの内にある光が闇なら、その闇はどれ程でしょうか。」
これと似たことをイエスはルカ11:34、35でも言われます。「体の明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、体も暗くなります。ですから、自分の内の光が闇にならないように気をつけなさい。」但し、ルカ福音書の方では「あなたの光を皆の前で輝かせなさい」という教えの中での言葉であり、意味が異なります。
では、マタイ6章の方の意味は何でしょうか。少し分りにくいと思います。そこで前後の文脈を見ます。前回の19~21節では、イエスは地上に宝を蓄える危険性と、天に宝を蓄える大切さを語られました。
では、あとの24節はどうでしょうか。「あなた方は神と富とに仕えることはできません」とあります。つまり、主イエスは、富に対する私たちの姿勢に警告を与え、私たちの心を創り主なる真(まこと)の神に向け、神にのみ仕える重要性とその祝福を語られます。以上が前後の文脈です。
従って、22、23節でイエスが目と明るさの比喩によりお教えになるのは、神とその御心に自分の心の焦点を合せるのか、それとも、地上の宝、特にその最たるものである富に焦点を合せるのかで、私たちの人格と人生は非常に大きな影響を受けるということです。
そして無論、創り主なる真の神にいつも心の焦点をシッカリ合せているなら、22節で言われますように、目は健やかで、その結果、私たち自身が明るくなる!すなわち、色々な能力をも含めた私たちの人格と人生の全体、それどころか、必ず迎える永遠の行先をも明るくし祝福する!
他方、自分を喜ばせるこの世の願望や夢を満たす地上の宝や富に絶えず心を向けているなら、必ず心の目が曇り、そのため、不幸なことに全身が暗くなる!すなわち、私たちの知性や感性をも含めた人格と人生全体、更に永遠の行先をも暗くし、私たちを永遠の暗闇へ滅ぼす危険があるということです。
23節後半の「ですから、もしあなたの内にある光が闇なら、その闇はどれほど」かも分りにくいですが、要は、心の目が地上の宝や富に余りにも向けられて曇るなら、どんなに最悪の結果に至るかということでしょう。
つまり、22、23節は19~21節の教えの続きで、更なる展開なのです。私たちが何を自分の一番の宝、富としているか、すなわち、私たちが自分の心の目をいつも何に一番傾けているかどうかで、私たちの現在と将来と永遠の行き先に、驚く程、大きな影響を与えるということです。
私たちの心の目をいつも何に最も傾けているかが、私たちの人間性や人格、私たちの今と将来、それどころか、永遠の行先にも決定的影響を与えるというこの主イエスの教えは、何と深く私たちを探るでしょうか。
これとよく似たことをイエスは5:8でも既にこう語っておられました。「心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」
これを学んだ時に申しましたが、心が清いとは、どんな状況にあっても心が真の神に向いていることです。神に対しては常に謙虚で素直。また神の愛を覚え、何とか神に喜ばれるように生き、神の御心に従いたいという純粋な思いと熱心のあることです。
実際には欠けだらけで、「神様、お赦し下さい」としょっちゅう赦しを請う。でも、心が神に向いている!イエスを信じて罪赦され、いつか天国に入れるというだけでなく、この世で少しでも神に喜ばれ、神ご自身を喜ぶ者になりたいと願い、常に自分の喜びを神に置いている!物事が順調な時も決して高ぶらず、神の恵みに感謝し、逆境の時には、何故こんな辛いことが起るのを神はお許しになるのかと、普段のどの時よりも謙って考え、最終的には神に委ねる!つまり、心のアンテナが神に向けられていることです。
すると「神を見る」ことを許されると主は言われます。
すなわち、不信仰な人には決して見ることの出来ない神の愛や微笑みを心の目で見ることができ、やがて主に手を取られ導き入れられる天の御国で、文字通り顔と顔とを合せて神の御顔を仰ぎ見ることを許されるということです。
ただ、6:22、23では、イエスは、私たちの心を神にしっかり向けて生きるか、それとも、この世の宝や富に向けて生きるかで、大きな違いが生じるという点を強調しておられます。強調点は、「違いが生じる」ということにあります。これは人間の心を知り尽くした主イエス・キリストの見事な洞察だと思います。
実際、生ける真の神とその清い御心以外の地上的なものにいつも心を向けていると、人間はどうなるでしょうか。洗礼を受け、教会に属していても、段々霊的な事に暗くなり、疎く(うとく)なり、分らなくなります。信仰の目が濁り、霊的感性が鈍ってきます。神の前に何が大切で何を優先すべきかを見極める霊的な目が、どんどん暗くなります。
世の中には、人権とか良心の自由について、また差別を受けている方々とか、社会的に弱者とされている方々への温かい視点が、ますます欠落していく人たちがいます。心を金や自分の欲や安心、自分の損得などだけに向けていますと、他者の弱さや痛みに気付き、人に寄り添うといった感覚がどんどん鈍り、暗くなっていくのです。
一方、弱い立場の人に少し心を向けたことで、人や社会、国のあり方などへの健全な批判能力や弱い立場の人への温かい視点や行動力をますます身に着けていく人もいます。心を何に向けるかで、私たちの人間性にいつしか大変な違いが生じるのです。
これは、22、23節で教えられますように、更に深い人格的、宗教的、霊的でも同じです。そして主は、警告をお与えになると共に、何より私たちの心の目が健やかで全身の明るい者になることを願っておられます。私たちを愛する主は、私たちを父なる神の祝福にますます与らせようと願っておられます。
では、具体的に言って、私たちはどうあるべきでしょうか。第一は、地上の宝や富や楽しみにではなく、人間にとって最も尊い創り主なる真の神とその御言葉に従うことに、何より自分の関心と力と祈りを傾けることです。
詩篇97:11に「光は正しい者のために蒔かれている。喜びは心の直ぐ(すぐ)な人のために」とあります。「正しい者」とは、神を信じ、実際に神に従う人のことです。その通り、そういう人のために、神は光と喜びの種を蒔いて下さる!これはとても興味深い表現ですね。如何に辛い試練の時にも、神は、神に従う人を決して絶望させず、色とりどりの可愛い花の種を蒔くように、慰め、癒しを与える明るい光と喜びの種を蒔いて励まし、喜ばせ、重荷を軽くして下さいます。第一は、神とその御言葉に従うことに心を傾けることです。
第二は、自分の拠り所を、この世の宝や富にではなく、天地を創り今も総べ(すべ)治め、ご自分の御子イエスを救い主として賜った程に私たちを愛しておられる神に置き、自分の道を本当に任せることです。
この世は罪に満ち、決して嬉しいことばかりではありません。特に神に従って生きていますと、煙たがられたり、中傷されることもあります。私たちは悲しくなり、気持も滅入ります。しかし、詩篇37:5、6はこう約束します。「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。主はあなたの義を光のように、あなたの正しさを真昼のように輝かされる。」
聖書は「どんな時にもうろたえるな。あなたの道を神に委ね、神に信頼せよ。神はいつか、そして最後には天の国で、あなたの正しさを光のように、それも真昼のように輝かされる」と約束します。ですから、二つ目として、私たちは是非、自分の歩みを心から神に委ね、信頼したいと思います。
第三は、神が最も喜ばれ、天に宝を蓄えることでもありますが、愛の業にこそ努めたいと思います。
イザヤ58:10は約束します。「飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。」
地上の宝や富を求め、増やし、楽しむことにではなく、むしろ、辛さの中にある方々への愛にこそ、自分を献げるのです。すると神は、私たちの人間としての光をも一層輝かせ、やがて私たちは天の国で、同じように自分を献げて生きた無数の聖徒たちと共に、神の栄光に包まれ、例えようもない喜びと感謝と賛美の中にいる自分自身を発見することを必ず許されるでしょう。
22、23節で主は言われます。「体の明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ、全身が暗くなります。」この違いは必ず起ります。
ですから、神とその御心にこそ心の目を改めてしっかり向け、そうして神の祝福の明るい光が、私たちの人格また地上での歩みに注がれ、周囲の人の光とならせて頂き、やがてはまばゆい光に満ちた永遠の祝福に、ご一緒に与ることを、是非許されたいと思います。