聖書の言葉 ヤコブの手紙 1章5節~8節 メッセージ 今日も祈りについて学びます。14回目となります。 カルヴァンも『キリスト教綱要』Ⅲ・20で述べていますが、祈りは必ず聞かれるという確かな希望を持って祈る大切さを、今日は改めて心に留めたいと思います。 「祈りは必ず聞かれるという確かな希望」と今言いました。無論、どんな祈りでも必ず聞かれるわけではありません。あくまでも御心に沿った祈りが聞かれるのですが、今日確認したい大事な点は、疑わずに信じて祈り求めることの大切さです。 ヤコブ1:6~8は言います。「少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かを頂けると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。」 ヤコブは、一方では信じ、他方では疑う人を、二心の者と呼びます。この表現を4:8でも使い、こう述べます。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいて下さいます。罪人達、手を清めなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」 「二心の者」という表現は、旧約聖書にも少し出てきます。詩篇12:2には「人は互いに空しいことを話し、へつらいの唇と、二心で話します」とあり、119:113には「私は、二心のある人たちを憎み、あなたの御教えを愛します」とあります。詩篇における「二心」というこの表現は、どちらも口で言うことや表で見せる顔と、心の中で考えていることや裏の顔とが違っていること、ですから、特に宗教的、倫理的によこしまなことを指します。 ヤコブ1:6におけるこの表現は、そこまでのことは意味していないと思われますが、それでもこの表現を使うことで、疑いながら神に求めることの不信仰さ、或いは信仰との矛盾を指摘しているのでしょう。 さて、神に何かを願い求める時の私たちの心の中を振り返ってみます。私たちはどうでしょうか。無論、神を根本から疑うことはないと思います。もしそうであるなら、私たちはもはやクリスチャンとは言えないでしょう。 しかし、今問うているのは、神のご存在もご人格もご性質も信じているのですが、私たちの弱さや信仰の薄さから、自分のある願いや希望や求めを、神は聞かれるだろうか、駄目なのではないだろうか、とつい疑い、心にもやもやしたものを持つことです。 求める内容によっては、正直な所、私たちにはこういうことがあるのではないかと思います。神は聞いて下さるという信仰と希望を持ってはいます。けれども他方では「無理なのでは…」と、疑いというか、半ば諦めている。それも割合早い段階から諦めていることが、時として私たちにはないでしょうか。 私たちの信仰は、地上にあっては全く不完全で、まだ途上にあります。従って、こういうことは一生の中で何度も起り得ます。 問題なのは、それで終らず、いつしか段々神に期待しなくなり、「まあ、こんなものさ」と冷めた気持で、神への信仰まで冷えていくことです。そうなりますと、例えば、純粋で熱い信仰をもって礼拝や奉仕、学びや交わりに一生懸命励む他の教会員をも、冷ややかに皮肉っぽい目で見たり、批判するようになります。 怖いのは、こういう状態に私たちが段々変っていくことです。サタンは絶えず働いています。勿論、疑いを全く持たないことが一番良いことです。しかし、この世ではそれが中々難しい。 しかし、その都度、Ⅰペテロ5:8が言いますように、身を慎み、目を覚まし、私たちの敵である悪魔が吼え猛る獅子のように誰かを食い尽くそうと探し回っていることを思い、御言葉によって「違う。これはいけない。私は、最終的にはご自分を愛する者には万事を益として下さる神とその愛、その御力、その真実を信じ、神に期待するのだ」と、自分に繰り返し説教するのです。そして神にこう祈るのです。「御名を崇めさせ給え。御国を来らせ給え。御心の天になる如く、地にもなさせ。我らの日用の糧を今日も与え給え。我らを試みに会わせず、悪より救い出し給え。」 マルコ9:14以降には、悪霊に憑かれた息子を連れてきたある父親が、弟子たちにはその子を癒せなかった時、イエスに「おできになるから、私たちを憐れんでお助け下さい」と頼んだことが伝えられています。イエスが「『できるなら』と言うのか」と彼に問われると、父親はハッと自分の不信仰に気付き、即座に「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と答え、その子は主に癒されました。私たちも、つい疑って心が二つに分かれてしまいそうな時、この父親のように「信じます!不信仰な私をお助け下さい!」と主に申し上げ、ご自分を愛する者には必ず万事を益とし、最善にして下さる神に改めて信頼し、期待し直し、一切を天のお父様の愛と御力に委ねたいと思います。 関連する説教を探す 2021年の祈祷会 『ヤコブの手紙』
今日も祈りについて学びます。14回目となります。
カルヴァンも『キリスト教綱要』Ⅲ・20で述べていますが、祈りは必ず聞かれるという確かな希望を持って祈る大切さを、今日は改めて心に留めたいと思います。
「祈りは必ず聞かれるという確かな希望」と今言いました。無論、どんな祈りでも必ず聞かれるわけではありません。あくまでも御心に沿った祈りが聞かれるのですが、今日確認したい大事な点は、疑わずに信じて祈り求めることの大切さです。
ヤコブ1:6~8は言います。「少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かを頂けると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。」
ヤコブは、一方では信じ、他方では疑う人を、二心の者と呼びます。この表現を4:8でも使い、こう述べます。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいて下さいます。罪人達、手を清めなさい。二心の者たち、心を清めなさい。」
「二心の者」という表現は、旧約聖書にも少し出てきます。詩篇12:2には「人は互いに空しいことを話し、へつらいの唇と、二心で話します」とあり、119:113には「私は、二心のある人たちを憎み、あなたの御教えを愛します」とあります。詩篇における「二心」というこの表現は、どちらも口で言うことや表で見せる顔と、心の中で考えていることや裏の顔とが違っていること、ですから、特に宗教的、倫理的によこしまなことを指します。
ヤコブ1:6におけるこの表現は、そこまでのことは意味していないと思われますが、それでもこの表現を使うことで、疑いながら神に求めることの不信仰さ、或いは信仰との矛盾を指摘しているのでしょう。
さて、神に何かを願い求める時の私たちの心の中を振り返ってみます。私たちはどうでしょうか。無論、神を根本から疑うことはないと思います。もしそうであるなら、私たちはもはやクリスチャンとは言えないでしょう。
しかし、今問うているのは、神のご存在もご人格もご性質も信じているのですが、私たちの弱さや信仰の薄さから、自分のある願いや希望や求めを、神は聞かれるだろうか、駄目なのではないだろうか、とつい疑い、心にもやもやしたものを持つことです。
求める内容によっては、正直な所、私たちにはこういうことがあるのではないかと思います。神は聞いて下さるという信仰と希望を持ってはいます。けれども他方では「無理なのでは…」と、疑いというか、半ば諦めている。それも割合早い段階から諦めていることが、時として私たちにはないでしょうか。
私たちの信仰は、地上にあっては全く不完全で、まだ途上にあります。従って、こういうことは一生の中で何度も起り得ます。
問題なのは、それで終らず、いつしか段々神に期待しなくなり、「まあ、こんなものさ」と冷めた気持で、神への信仰まで冷えていくことです。そうなりますと、例えば、純粋で熱い信仰をもって礼拝や奉仕、学びや交わりに一生懸命励む他の教会員をも、冷ややかに皮肉っぽい目で見たり、批判するようになります。
怖いのは、こういう状態に私たちが段々変っていくことです。サタンは絶えず働いています。勿論、疑いを全く持たないことが一番良いことです。しかし、この世ではそれが中々難しい。
しかし、その都度、Ⅰペテロ5:8が言いますように、身を慎み、目を覚まし、私たちの敵である悪魔が吼え猛る獅子のように誰かを食い尽くそうと探し回っていることを思い、御言葉によって「違う。これはいけない。私は、最終的にはご自分を愛する者には万事を益として下さる神とその愛、その御力、その真実を信じ、神に期待するのだ」と、自分に繰り返し説教するのです。そして神にこう祈るのです。「御名を崇めさせ給え。御国を来らせ給え。御心の天になる如く、地にもなさせ。我らの日用の糧を今日も与え給え。我らを試みに会わせず、悪より救い出し給え。」
マルコ9:14以降には、悪霊に憑かれた息子を連れてきたある父親が、弟子たちにはその子を癒せなかった時、イエスに「おできになるから、私たちを憐れんでお助け下さい」と頼んだことが伝えられています。イエスが「『できるなら』と言うのか」と彼に問われると、父親はハッと自分の不信仰に気付き、即座に「信じます。不信仰な私をお助け下さい」と答え、その子は主に癒されました。私たちも、つい疑って心が二つに分かれてしまいそうな時、この父親のように「信じます!不信仰な私をお助け下さい!」と主に申し上げ、ご自分を愛する者には必ず万事を益とし、最善にして下さる神に改めて信頼し、期待し直し、一切を天のお父様の愛と御力に委ねたいと思います。