2021年04月25日「涙を拭って下さる主イエス(召天者記念礼拝説教)」
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涙を拭って下さる主イエス(召天者記念礼拝説教)
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
ヨハネの黙示録 21章1節~4節
聖書の言葉
21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられて、
21:4 神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。」
ヨハネの黙示録 21章1節~4節
メッセージ
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新型コロナウィルス禍が続く中、感染に十分注意しながらですが、召天者記念礼拝をこうして持つことができ、特に和田宣子さんのご遺族もご出席頂き、本当に感謝でございます。今朝も神の御言葉・聖書により、大切なことを心に留めたいと思います。
今、2階の納骨棚にはお二人のご遺骨があります。2000年7月4日、81歳で亡くなったS.花さん、2016年4月28日、68歳で亡くなったW.宣子さんです。このお二人と、生前とても親しかった方もあれば、面識のない者もここにはいますが、大切なことをご一緒に心に留めたいと思います。
第一は、私たちは皆いつか必ず死ぬという厳粛な事実です。これらのお二人を、今、私たちは天に召された方として見ています。彼らをそう見ている私たちは、今、あくまで生きている側にいます。しかし、それはいつまでも、ではありません。お二人が私たちにとって如何に大切な方であっても、彼らは世を去りました。去らねばなりませんでした。そして彼らと同じように、今ここにいる私たちも、早いか遅いかの違いはあれ、必ずいつか死にます。如何に優れた人、元気な人、有名な人、活躍した人でも、人は100%死ぬのです。
実は神の言葉と言われる聖書は、人が死ななければならない根本的な理由を、人を創られた命の源であられる真(まこと)の神との関係の断絶また捻じれにあると教えます。聖書はそれを罪と呼びます。
具体的には、罪は、人を創られた真の神と人を愛し、神と人に仕えるよりも、自分が第一、自分ファーストで、自己中心であることです。どの時代のどの国の人であれ、皆この生れながらの罪があるため、この世から嘘やごまかし、盗み、搾取、暴力、殺人、戦争、差別、虐めなどがなくならず、自然界も混乱を被り、人間には様々な苦難も襲い、最後には死が待ちます。ローマ6:23は言います。「罪の報酬は死です。」ヘブル9:27はこう言います。「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…。」何と重い事実でしょうか。
ある人が特に罪深いから、その人に苦難が襲い、或いは早く死ぬというのではありません。人類全体が創り主なる神から離れ、命の源であられる神と断絶しているため、私たちには皆、死が臨むということです。この厳粛な事実を今朝まず心に留めたいと思います。
しかし第二に、自分の罪や不信仰を心から悲しみ、救い主として世に来られた神の御子イエスを只々心から信じ依り頼む人は、罪を皆赦され、特に永遠に生きることが出来ることを覚えたいと思います。
先程、黙示録21:1~4を読みました。詳しい説明は省きます。要するに、ここは今お話した救い主イエスを心から信じ、イエスを希望として生きた人が、世の終りに神から頂く最高の慰めについて語ります。3、4節は言います。「神は人々と共に住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、共におられる。神は彼らの目から、涙をことごとく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
大切なことは、イエスと共に生きた人は、人類の罪を背負って十字架で命を献げられた神の御子イエスのお蔭で罪を全て赦され、しかも復活されたイエスから永遠の命を受け、神と共に永遠に生きるという点です。
もっと具体的に言いましょう。例えば、晩年に神の御子イエスを幼子のように素直に信じ依り頼んで歩まれたW.宣子さんは、確かに5年前の4月28日、68歳で亡くなりました。しかし、実は神の御許(みもと)で神と共に今も生きておられることを、聖書は私たちに告げるのです。それも喜びと感謝と賛美の内に生き生きと彼女は生きておられるのです。
神の御子イエスがわざわざ人間となり、十字架で命を献げて贖われたW.宣子さんの魂が、永遠に失われ滅んでしまうなど、どうしてあり得ましょう。彼女の魂は、イエス・キリストの父であられる全知全能の神が、神と人に仕えた全世界の全ての信仰者の魂と共に、強い御腕をもって守って下さっているのです。彼女は天の国で神の前に今生きておられる!それも、十字架の死から復活されたイエス・キリストから、もう二度と死ぬことも失われることもない清い永遠の命を頂き、感謝と喜びと賛美の内に生きておられるのです。
ところで、その彼女の願いは今何だろうか、と想像します。特にご家族を心から愛しておられた彼女の最も強い願いは、今何でしょうか。
犬や猫など動物でもそうですが、愛し合う者同士は一緒にいたいのですよね。くっついていたい。まして、人間はもっと一緒にいたい。一緒に喜び、一緒に笑い、一緒に泣き、或いは一緒に感謝し、一緒に感動し、一緒にくつろぎたい。特にクリスチャンは一緒に神を賛美したい。愛とはそういうものです。
実際、天に召されたクリスチャンは、この世にいた時と違い、イエス・キリストにより完全に聖くされた真実な思いと愛とで、地上に残されている愛する者といつか天で再会し、時間を超えた永遠の世界で共に生きることを切に願い、楽しみにし、待っています。そのように天の国で生きている。Wさんも、そのように生きておられる。これが、今日ご一緒に心に留めたい二つ目の点です。
最後、三つ目を聖書に教えられて、本日の説教を終りたいと思います。それは要するに、信仰者はこの地上の旅路を終えた後、父なる神、また御子なる主イエス・キリストから計り知れない慰めを必ず与えられることです。先程の黙示録21:4は言います。「神は彼らの目から、涙をことごく拭い取って下さる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
神また主イエス・キリストは、信仰者の目から涙をことごく拭い取って下さる!もう死も、悲しみも、叫び声も、苦しみもない!人類の罪故に辛いこと、涙することの一杯ある今の世は、やがて永遠に去り、新しい世界に代わるのです。
実は黙示録7:17も「神は彼らの目からことごく涙を拭い取って下さる」と伝え、その数百年前に書かれた旧約聖書のイザヤ25:8も「神である主は、全ての顔から涙を拭い取り」と述べ、聖書全体がこれを強調し、私たちを励まし慰めています。先程、信仰者は神の前で永遠に生きることを許されると言いましたが、それだけでなく、涙をことごとく神に拭われ、限りない慰めを御子イエスから頂くのです。
実際この世では、どんなに涙することが多いでしょうか。重い病気ゆえの苦しさ、痛み、不自由さ、不安、焦り、絶望感。また周囲の人の無理解や鈍感さに対する悲しみの涙もあります。自分ではどうにも出来ない生れながらの環境から来る理不尽な苦しみ、孤独、差別、社会の不条理ゆえの涙もあるでしょう。旧約聖書の時代の信仰者は、周りの人々が神の教えを守らないので、悲しくて神にこう祈りました。詩篇119:136「私の目から涙がとめどなく流れ落ちます。彼らがあなたの御教えを守らないからです。」
W.宣子さんはお若い頃、今問題のミャンマーで日本の医療ボランティア・ティームの栄養士として働かれました。ミャンマーは、英国から独立後、1962年にクーデターが起り、ビルマ社会主義計画党の独裁政権となりました。1988年に民主化運動でそれは崩壊しましたが、今度はミャンマー国軍がクーデターを起して軍事政権を開始し、国名も変り、ようやく民主化したかと思いますと、再びこの度、軍事クーデターが起きました。
一連の混乱の中、政治家や軍の横暴さ、特に苦しむ多くの人々を見て、彼女も涙することがあったのではないでしょうか。晩年には病気から来る辛さはどれ程だったでしょうか。これ ばかりは病人にしか分らず、密かに涙することがあっても、変ではないと思います。
しかし、そんな中、彼女は主イエスを仰ぎ、涙を拭われ、慰められ、天国の前味を味わわれたことがあったのではないでしょうか。ですから、あとで歌います『讃美歌21』の227番(『讃美歌』85番)を彼女は愛されました。それこんな内容です。1節「主の真理(まこと)は 岩の如し。逆巻く(さかまく)波にも 揺るぎもなし/ 尊きかな 天の神は 力にあふるる とこしえの主」、3節「弱きわれも こころつくし わが主にすがらば 力をぞ得ん/ 尊きかな 天の神は 力にあふるる とこしえの主」
実はイエス・キリストも、神の御子ですのに人となられ、人の苦しみ、涙をことごく味わわれました。ですから、私たちの涙がお分りなのです。ヘブル4:7は言います。「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いを献げ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」
天に召されたWさんたちに倣い、願わくは、弱い私たちも全ての涙を主イエス、また天の父なる神に拭われ、一切の労苦が報われ、豊かな慰めの待つ天の国を静かに仰ぎ望みつつ、この世の旅路を一歩一歩丁寧に踏みしめて行きたいと思います。