2021年04月15日「祈りについて (12)」
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祈りについて (12)
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- 田村英典 牧師
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マタイによる福音書 15章21節~28節
聖書の言葉
15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。あとについて来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ。私をお助けください。」
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒された。
(新改訳聖書 2017年度版)
マタイによる福音書 15章21節~28節
メッセージ
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今日も祈りについて学びます。12回目となります。
前回は、最も基本的なことの一つとして、神に祈る時、私たちはまず自分の罪を振り返り、心から遜り、悔い砕けた心であるべきことを、特にルカ18:9~14にあるイエスが語られたパリサイ人と取税人の譬から確認しました。今日も基本的なことですが、祈りは信仰の大切な修練であることを学びたいと思います。
宗教改革者カルヴァンは、『キリスト教綱要』3篇20章で祈りについて書きました。カルヴァンはそこで祈りについて52節も展開し、様々な角度から述べています。その表題を見るだけでも興味深いですので、少しご紹介致します。1節「まことの信仰は祈りなしにはあり得ない」、2節「祈りの定義 その必要性と有用性」、3節「全知の神に祈りを献げることは無用か」、4節「祈りを整える第一の法則 神との対話に相応しい思い」、5節「全神経の集中」、50節「時を定めて祈ることの益」、51節「祈りにおける忍耐」、「祈りが聞かれないかのように見える時にも、希望は空しくされない」。これらを見るだけでも大変興味深く、学びたくなりますね。
さて、20章全体の表題は「祈りについて。これは信仰の修練の主要なものであり、我々はこれによって日々に神の恵みを受けるのである」です。カルヴァンがこう語る意味を先程の1節1節から学ぶと良いのですが、今はそれはやめて、祈りが信仰の主要な修練だという点を、少しお話致します。
まず、祈ろうとする時、私たちは自分の信仰を試されるという点があります。
ある時は比較的容易に私たちは祈れるかも知れません。しかし、私たちは自分の内に残る罪のため、基本的に怠け者であり面倒臭がり屋です。自分の好きなことなら何の苦労もなくスーッと始められますし、続けられます。けれども、最も大事な信仰のこととなりますと、途端に私たちは怠惰になります。サタンも働きます。
しかし、こういう怠惰でだらしない自分と戦い、神の御前に自分を打ち叩いて服従させ(Ⅰコリント9:27参照)、神に祈ることで、私たちの信仰は堅固で真実なものに成長させられるのです。自分の罪や不信仰と戦わないでいては、私たちの信仰は決して強くならず、真実なものにもなりません。
実際、祈ろうとする時、私たちは自分の信仰を毎回試され、問われています。この世にいる間、私たち罪人は自分の不信仰と弱さとの戦いなしに、祈ることは出来ません。その意味で、祈りは、まさに信仰の主要な修練だと言えます。
これは感謝や賛美の祈りの時にもそうですが、特に自分や自分の家族とか教会の兄弟姉妹や親しい方々が辛い試練に直面し苦しんでいる時に私たちが神の助けを祈り求める場合、一層あらわになります。
無論、私たちクリスチャンは神に一生懸命祈ろうとします。しかし、その試練や苦しみ、艱難が非常に厳しく重い場合、私たちは自分の弱さから、つい、「祈っても、駄目ではないだろうか。無駄ではないのか」などと疑いを抱き、祈る気力を失いそうになることはないでしょうか。ここでも私たちはやはり自分の信仰を試され、問われているのです。そしてつい疑いから、神に祈り願う気力を失いそうになる、そういう自分と戦うという意味でも、まさに祈りは信仰の主要な、また大事な修練なのです。
先程、マタイ15:21~28を読みました。異邦人の住むツロとシドンの地方に、イエスが弟子たちと行かれた時、一人のカナン人の女が、22節「『主よ、ダビデの子よ。私を憐れんで下さい。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます』と言って叫び続け」ました。
イエスは敢えてお答えになりませんでしたが、女は尚も叫び、弟子たちは彼女を追っ払うようにとイエスに言います。そしてイエスと女の対話が続きますが、彼女は27節「主よ、その通りです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑は頂きます」と言います。自分も娘も小犬だと言い、しかし、ただ食卓から落ちるパン屑を頂きたいのだと、あくまで謙虚です。けれども簡単には諦めず、主イエスにすがりつきます。するとイエスは28節「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたの願う通りになるように」とお誉めになり、彼女の娘はすぐ癒されました。
彼女はイエスと弟子たちの様子から、やはり駄目なのかと最初はイエスを疑い、その場でへたり込み、諦めそうになったかも知れません。しかし、そんな自分と戦い、イエスに願い続けました。彼女は信仰を激しく試され、まさに修練に耐え、ついに主の恵みを獲得しました。彼女の信仰はますます堅固なものに成長したでしょう。
祈りは私たちの信仰の非常に重要な修練だということを改めてよく自覚し、自分と戦って祈りたいと思います。主イエスは私たちを本当に愛するが故に、祈りという恵みの手段により、私たちの信仰を強め、成長させ、そうして素晴らしい恵みをお与えになりたいのです。