2021年04月11日「偽善か、神への真実か」

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偽善か、神への真実か

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章16節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

 6:16 あなた方が断食をする時には、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなた方に言います。彼らは既に自分の報いを受けているのです。
 6:17 断食をする時は頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
 6:18 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いて下さいます。マタイによる福音書 6章16節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイの福音書6章は、紀元1世紀のユダヤで善行とされた三つのことに関する主イエスの教えを伝えます。1~4節で施し、5~15節で祈り、16~18節で断食についてです。今朝は断食に関するイエスの教えから、誰もが陥りやすい偽善を断固退けること、そして神への真実な姿勢をこそ、改めて自分自身に求めたいと思います。

 断食は宗教的目的のためにユダヤでよく行われました。旧約時代、イスラエルの民には、年に一度断食が命じられていました。レビ記23:27は言います。「この第七の月の十日は宥めの日であり、あなた方のために聖なる会合を開く。あなた方は自らを戒め、食物の献げ物を主に献げなければならない。」

 「自らを戒め」とは断食を指します。自分を戒め、神の救いの恵みを深く覚えるために、断食の日がありました。

 これ以外の例として、例えば、バビロン捕囚の解放後、90年位あとのことですが、ネヘミヤ記1:4は、ネヘミヤがエルサレムの城壁が崩れたままであると聞いて数日間嘆き悲しみ、断食して天の神に祈ったと伝えます。

 エステル記3、4章は、ユダヤ人絶滅の危機が迫った時、ペルシアの都スサにいた全ユダヤ人とエステルたちが3日3晩断食し、必死に神に祈ったことを伝えます。律法に定められてはいませんが、心底祈りと願いを献げるために人々は断食しました。

 新約時代にはどうでしょうか。マタイ4:2は、イエスが公の活動に入る前、霊的に整えられるために、40日40夜、断食されたことを伝えます。

 使徒13:3は、バルナバとパウロが伝道旅行に出る時、アンティオキア教会が断食して祈り、同14:23はパウロとバルナバが教会毎に長老たちを任命し、断食して祈ったことを伝えます。非常に大事な時、信者が自発的に断食して神に祈ったことがよく分ります。

 しかし、人間は罪深く、尊い宗教行為である断食でも偽善に陥ります。ですから、イエスはこれを取り上げられたのでした。イエスは言われます。マタイ6:16「あなた方が断食をする時には、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。」

 主は当時のユダヤ教の専門家、律法学者やパリサイ人を念頭において言われたのでしょう。ルカ18:12によりますと、彼らは週に2度断食し、また古い文献によると、それは月曜日と木曜日でした。ある本によりますと、これらの日に市が開かれたそうです。ということは、市に集った大勢の人に見られるために、彼らは月曜と木曜に断食したのかも知れません。

 彼らはわざと顔を汚くし、17節から見て、髪の毛も乱れたままにしたようです。何のためにでしょうか。皆の注意を引き、「あの人は何と敬虔な人だろう」と人から誉められたいためです。

 しかし、これはもう断食の本来の目的、すなわち、体の欲求をも抑えて自分の罪を悲しみ、体ごと自分が清くされ、もっと神に喜ばれる者にならせて頂きたいという祈りとは全く関係がありません。個人としても神の民全体としても重大な問題が起り、あるいは非常に大事なことをしようとしているので、食べ物を絶ち、神の導きと助けと祝福を何としても願おうとする、そのような熱い祈りとも無関係でした。彼らの心には、神への、人への、そして自分への真剣な思いもありません。あるのは自分が人から崇められたいという自己崇拝の欲求でしかない。それを満たすために、断食という宗教的装いをし、敬虔さを演じた。ですから、イエスは、それは偽善だと言われ、偽善の罪から何としても弟子たちを守ろうとされるのです。

 少し後の時代にも、自分が褒められたいために宗教的敬虔さと熱心さを装う偽善は、繰り返し教会に入り込みました。使徒5章の伝えるアナニアとサッピラ夫妻がそうですし、パウロは別の人たちについてピリピ3:19で「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望(元のギリシア語では、腹)を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たち」だと言って警告しています。「腹」は人間の欲の宿る所とされていました。従って、「腹を神とする」とは、自分の欲望を神とし、欲に仕えることです。どんなにうまく装っても、それは大変罪深い自己崇拝に他なりません。

 マタイ6:16に戻ります。イエスは、「彼らは既に自分の報いを受けている」と言われます。確かに、人々から「あの人は敬虔な偉い人だ」と称賛されるかも知れない。でも、それだけです。何より尊い神からの評価は決して得られません。神は私たちの心の中も全部ご存じです。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目には全てが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」(ヘブル4:13)先程のピリピ3:19が言うように、その人たちの最後は滅びです。本来は、神の前に平伏し、神に祈るという大変真実な宗教行為である断食をイエスが取り上げられた理由が良く分ると思います。

 これは今の私たちにも無関係ではありません。断食であろうとなかろうと、何かによって信仰深く装い、人の称賛を得たいという動機や計算を僅かでも自分の内に見出すなら、私たちは直ちにそれを私たちの内から追い出さなくてはなりません。「醜い自己崇拝の偽善の霊よ、私から今すぐ出ていけ!」とイエスの名によって叫ぶのです。偽善は、決して私たちをイエス・キリストに似る者へと清めません。むしろ私たちの信仰を蝕み、断食の中心である「神への意識と祈りの集中」という点を台無しにし、私たちを神から遠ざけ滅ぼします。

 では、私たちはどうすれば良いでしょうか。イエスは言われます。17、18節「断食する時は頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人にではなく、隠れた所におられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いて下さいます。」イエスは要するに、「あなたは一切人の目を引こうとするな。祈りに集中する時、あなたの意識から人の目を取り除きなさい。人の目を意識するあなた自身を、あなたの中から追い出しなさい。祈りに集中する時、あなたは普段と同じでありなさい。演技ではなく、心の底から神に祈り、神と教会と人に仕えることを何より喜ぶ者へとあなたが成長することをご自分の最高の楽しみとされる神の目をのみ覚えなさい。あなたを、ただ信仰の故にご自分の子とし、あなたを存在の根底から愛しておられる天の父の眼差しのみを喜びなさい」と言われるのです。

 すると、18節「隠れた所で見ておられるあなたの父が報いて下さる。」つまり、私たちは御霊により必ず内面から変えられ、神の赦しと愛を一層確信させられ、恵みと力を更に頂き、神と人のためにますます良く仕えることが出来る、真に幸いな者にされるでしょう。無論、天の国で驚くばかり豊かに報われるでしょう!

 こうして見ますと、主イエスはどんなに私たちを良くご存じで、私たちを気にかけて下さっていることでしょうか!私たちに関り、私たちを清めたい!その主の熱い愛を覚えないではおられません。ですから、『讃美歌』324番が「主イエスは救いを 求むるこの身に/豊けき恵みを 注がせ給えり/いよいよわが主を 愛せしめ給え」と歌い、同じく338番が「主よ、終りまで 仕えまつらん/みそば離れず おらせ給え/世の戦いは 激しくとも/御旗の下に おらせ給え」と歌うのも当然です。

 最後に、断食そのものを少し考えてみます。マタイ9:14以降から分りますように、イエスは弟子たちに断食を命じておられません。しかし、禁じてもおられず、断食はしてもしなくてもかまいません。

 私は今まで数回断食しました。1974年、靖国神社法案が衆議院で可決されました。この法案は、靖国神社を国が管理し支えるためのもので、憲法の政教分離原則に明らかに反します。神学生だった私は多くの人と法案審議の日に朝から断食し、これが廃案になることを神に一生懸命祈りました。結局、参議院で審議未了となり、廃案となりました。

 また聖書の言う宗教的断食ではありませんが、国際飢餓対策機構の働きを支援するため、昼食か夕食かを抜き、その分の金額を献げるということにも参加しました。

 話を戻します。断食の目的は「神への意識と祈りの集中」にあります。従って、自分や家族のこと、教会のこと、社会のこと、日本のこと、世界のことで、神への意識と祈りの集中が必要なことが起れば、断食すれば良いですし、自ずと断食しないではおれなくなるかも知れません。無論、断食しなくても不信仰ではありません。

 しかし、断食なんて無意味だと頭から否定するなら、それは違います。聖書の伝える例を先程幾つか見ました。ネヘミヤの断食と祈り。ユダヤ人絶滅の危機が迫る時、全ユダヤ人及びペルシア王妃となっていたエステルの3日3晩にわたる断食と切実な祈り。神が愛しておられる同胞の絶滅の危機が迫る時、どうして自分の楽しみをやめてでも祈らないでおれるでしょうか。

 新たな伝道が始まり、あるいは、長老の選出と任命というような大事な時、初代教会は断食し、祈りに集中しました。

 いいえ、何より主イエス・キリストは、私たち罪人の救いのために公の働きを始められる時、40日40夜、断食して天の父に祈られ、ご自分を霊的に整えられました。それはただただ私たちのためでした!

 義務ではありませんが、断食を伴う祈りについて、聖書には大事な示唆が沢山見られます。私たちもその都度よく考え判断し、全身全霊を傾けて神への真実な祈りに集中したいと思います。ただただ、人の救いと神の栄光のために、です!

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