聖書の言葉 11:1 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。11:2 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。 (新改訳聖書 2017年度版)ヘブライ人への手紙 11章1節~3節 メッセージ 今年も半分近くが過ぎました。そこで、今朝は信仰とはどういうものかを改めて学びたいと思います。 ヘブル11:1は言います。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させ…」と。まとまった表現ですが、これは信仰の定義ではありません。定義するなら、第一に神とその御心についての正しい認識、第二にその納得・確信、第三に神への信頼、第四に神への服従など、知・情・意にわたる包括的なものになるでしょう。 しかし、ヘブ書の著者は、自分の論旨に沿うものだけをここに書いています。つまり、10章に続き、11章でも特に信仰の忍耐について語ります。 初代教会のクリスチャンたちは様々な試練に遭い、中には信仰に留まることをやめ、背教する者も出ていました。そこで著者は、10:35、36「ですから、あなた方の確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」と教え、10:38では旧約聖書のハバクク2:4の神の言葉、「私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、私の心は彼を喜ばない」を引用します。つまり、神の恵みとキリストの十字架によって救われた者は、当然一切を信仰によって生きる。そこで著者は、忍耐して信仰を持ち続ける絶対的必要性を重ねて教えるのです。 今日の私たちも、信仰という最高の贈り物を神から頂きながら、困難に直面すると、その大切さを忘れ、信仰を脇に置いて生きようとすることはないでしょうか。しかし、本当にそれで良いでしょうか。「義人」、つまり、イエス・キリストによって永遠の救いに与った信仰者は、あくまで信仰によって生きる者に他なりません。 それでは、その信仰とはどんなものでしょうか。11:1「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。ここは少し違う翻訳も可能ですが、本質は同じですので、今はこの訳で学びます。 特に忍耐との関りで信仰の二つの面を見ます。 一つは「望んでいることを保証」しますので、それを素直にしっかり信じ続けることです。実際、2節「昔の人たち」、すなわち、旧約時代の優れた信仰者たちは、そういう信仰の故に神に「称賛され」、また6節「神に喜ばれ」ました。但し、「望んでいること」とは、私たちの望む全てではありません。私たちは信仰を持ってからも罪の残り滓があり、私たちの望むものは正しいものばかりではないからです。宗教改革者カルヴァンは言います。「私たちが義と宣告されても、罪は私たちの中に住み続ける。」 それに、私たちの望むこと自体は正しくても、神の御心でないこともあります。ですから、ここで言う「望んでいること」とは、聖書で神が明確に例外なくクリスチャンに約束しておられることに基く希望です。 では、どんな約束があるでしょうか。例えば、ローマ8:28は言います。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」とあります。それなら、クリスチャンは本当に神を愛し、神を信じて神の時を待つのです。 私たちを困惑させ苦しめる試練についてはどうでしょうか。Ⅰコリント10:13は言います。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」そうであるなら、私たちは神の前に静まり、むしろクリスチャンとしてなすべきこと、出来ることに一つ一つ誠実に努めつつ、忍耐して神の助けを待つのです。 救いの完成についてはどうでしょうか。この点で確信の弱いクリスチャンもいるでしょう。無論、不信仰な生活をしながら妙に自信のあるクリスチャンより遥かにましです。しかし、洗礼を受けて何年も経ち、教会にも続けて来ているのに、救いに確信がなく、未だに自分が信仰を持つ前と変らないような気がして不安なクリスチャンもいます。 これは、基本的には救いについての教理理解が不足し、それと忍耐も忘れられているようです。信仰は、赤ちゃんの成長と同じで、一挙に成長しません。全体がバランスを取りつつ、ゆっくり成長します。長いスパンで見る必要があります。 何よりピリピ1:6は約束します。「あなた方の間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させて下さる…。」そうであるなら、私たちはこれを幼子のように素直に信じ、何度失敗しても悔い改めては父なる神を仰ぎ、イエス・キリストと共に歩むのです!すると天の父は、必ず私たちの救いを完成して下さいます。 紀元1世紀同様、先行き不透明な21世紀です。私たちは今後どうなるのでしょうか。しかし、イエスは言われます。マタイ6:33「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」だったら、私たちはこれを信じ、どんな時も神の国と神の義、つまり、神のご支配と神の清い御心が私たちの中でなることを第一に求めて生きるのです。すると、神はご自分の時にご自分の方法で、必ず私たちを支えて下さいます。「信仰は望んでいる事を保証」しています。ですから、忍耐して神の時を待ちたいと思います。 第二に、信仰は「目に見えないものを確信させ」ます。これは目に見えない神の計画や御業(みわざ)の全てに関係している、信仰の誠に尊い側面です。とにかく信仰には素晴らしい力があり、神の見えない大切なことを私たちに確信させます。 その一例が3節で言われます。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものから出来たのでないことを悟ります。」 私たちは、この世界が出来た様子を決して見ることは出来ません。でも信仰は、世界が勝手に出来たのではなく、創世1章の伝える通り、神が万物を丁寧に造られたことを分らせます。 信仰は、神が無から有を呼び出すことの出来る全能者であり、人間には不可能なことも可能なお方であることを確信させます。 大切な神の摂理は目に見えません。しかし、信仰はその神の摂理を確信させます。 他にも信仰は目には見えないことを確信させます。例えば、聖餐式のパンは、イエス・キリストがご自分を信じる者にご自分の永遠の命を分け与え、魂を養っていて下さることを表し、葡萄酒は、十字架で流されたイエスの血により、神が私たち信仰者を救いの契約に入れ、その罪を本当に赦し、洗い清めて下さることを保証しています。ならば、私たちは本当にそれを信じるのです。 洗礼はどうでしょうか。宗教改革者ルターは、信仰の激しい試みを受ける度に、チョークで机に「私は洗礼を受けている」と書き、イエス・キリストの救いの恵みを何度も確認し、確信することが出来ました。 私たちも同じです。信仰は、過去、現在、未来に関らず、聖書でご自分を証しされる真の神による「見えないもの」、特に見えない恵みを確信させます。 しかし、私たちにはやはり先のことが気になります。そこで先程のローマ8:28を振り返ります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる…。」これは今、目に見えません。しかし、私たちが神を愛しているなら、この見えないことが神の愛と真実と力により必ずいつか実現します。ですから、私たちはこれを信じ、忍耐して持つのです。 ヨハネ福音書14、15、16章には「私の名によって願うなら与えられる」というイエスの約束があります。これは単に祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります」と唱えることではありません。イエスがこう約束されたことを心でしっかり確認し、事実イエスを通して神に真剣に祈り願うことです。私も今まで何度か困難な試練に遭い、「今度ばかりは駄目かも知れない」と思うこともありました。しかしその都度、この約束を思い起し、「そうだ、イエス様は確かにこうお約束下さっている!神様、この約束を信じます故に、どうか助けて下さい」と祈ってすがりました。そうして実際、色々な試練を乗り越えさえて頂いて来ました。これからもそうしたいと思います。 先程のⅠコリント10:13はどうでしょうか。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さ」る。 これも目に見えません。しかし、私たちがこれを再度しっかり信じるなら、本当にそうなります!御子イエスにより私たちを罪から贖い、私たちの永遠の父となって下さった全能の神が、まだ見えないことをも私たちに実現されます!末期癌のクリスチャンが、ベッド上でこの御言葉を信仰によって確認し、信じ直し、安心して主の御許に召されて行ったことを、私は病院で何人も見せて頂きました。 信仰とは何か。その一端を学びました。 私たちには色々なことが起ります。私たちは信仰を試され、時にひどくうろたえ、自分を失い、ボロボロになる時もあるでしょう。けれども、無数の信仰の先輩が、「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」その信仰を忍耐して固く守り、困難や試練の時にも誠実に歩み、ついに栄光の天の御国に召されて行きましたように、私たちも是非そうされたいと思います。 関連する説教を探す 2020年の日曜朝の礼拝 『ヘブライ人への手紙』
今年も半分近くが過ぎました。そこで、今朝は信仰とはどういうものかを改めて学びたいと思います。
ヘブル11:1は言います。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させ…」と。まとまった表現ですが、これは信仰の定義ではありません。定義するなら、第一に神とその御心についての正しい認識、第二にその納得・確信、第三に神への信頼、第四に神への服従など、知・情・意にわたる包括的なものになるでしょう。
しかし、ヘブ書の著者は、自分の論旨に沿うものだけをここに書いています。つまり、10章に続き、11章でも特に信仰の忍耐について語ります。
初代教会のクリスチャンたちは様々な試練に遭い、中には信仰に留まることをやめ、背教する者も出ていました。そこで著者は、10:35、36「ですから、あなた方の確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」と教え、10:38では旧約聖書のハバクク2:4の神の言葉、「私の義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、私の心は彼を喜ばない」を引用します。つまり、神の恵みとキリストの十字架によって救われた者は、当然一切を信仰によって生きる。そこで著者は、忍耐して信仰を持ち続ける絶対的必要性を重ねて教えるのです。
今日の私たちも、信仰という最高の贈り物を神から頂きながら、困難に直面すると、その大切さを忘れ、信仰を脇に置いて生きようとすることはないでしょうか。しかし、本当にそれで良いでしょうか。「義人」、つまり、イエス・キリストによって永遠の救いに与った信仰者は、あくまで信仰によって生きる者に他なりません。
それでは、その信仰とはどんなものでしょうか。11:1「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるもの」です。ここは少し違う翻訳も可能ですが、本質は同じですので、今はこの訳で学びます。
特に忍耐との関りで信仰の二つの面を見ます。
一つは「望んでいることを保証」しますので、それを素直にしっかり信じ続けることです。実際、2節「昔の人たち」、すなわち、旧約時代の優れた信仰者たちは、そういう信仰の故に神に「称賛され」、また6節「神に喜ばれ」ました。但し、「望んでいること」とは、私たちの望む全てではありません。私たちは信仰を持ってからも罪の残り滓があり、私たちの望むものは正しいものばかりではないからです。宗教改革者カルヴァンは言います。「私たちが義と宣告されても、罪は私たちの中に住み続ける。」
それに、私たちの望むこと自体は正しくても、神の御心でないこともあります。ですから、ここで言う「望んでいること」とは、聖書で神が明確に例外なくクリスチャンに約束しておられることに基く希望です。
では、どんな約束があるでしょうか。例えば、ローマ8:28は言います。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる」とあります。それなら、クリスチャンは本当に神を愛し、神を信じて神の時を待つのです。
私たちを困惑させ苦しめる試練についてはどうでしょうか。Ⅰコリント10:13は言います。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さいます。」そうであるなら、私たちは神の前に静まり、むしろクリスチャンとしてなすべきこと、出来ることに一つ一つ誠実に努めつつ、忍耐して神の助けを待つのです。
救いの完成についてはどうでしょうか。この点で確信の弱いクリスチャンもいるでしょう。無論、不信仰な生活をしながら妙に自信のあるクリスチャンより遥かにましです。しかし、洗礼を受けて何年も経ち、教会にも続けて来ているのに、救いに確信がなく、未だに自分が信仰を持つ前と変らないような気がして不安なクリスチャンもいます。
これは、基本的には救いについての教理理解が不足し、それと忍耐も忘れられているようです。信仰は、赤ちゃんの成長と同じで、一挙に成長しません。全体がバランスを取りつつ、ゆっくり成長します。長いスパンで見る必要があります。
何よりピリピ1:6は約束します。「あなた方の間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させて下さる…。」そうであるなら、私たちはこれを幼子のように素直に信じ、何度失敗しても悔い改めては父なる神を仰ぎ、イエス・キリストと共に歩むのです!すると天の父は、必ず私たちの救いを完成して下さいます。
紀元1世紀同様、先行き不透明な21世紀です。私たちは今後どうなるのでしょうか。しかし、イエスは言われます。マタイ6:33「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて与えられます。」だったら、私たちはこれを信じ、どんな時も神の国と神の義、つまり、神のご支配と神の清い御心が私たちの中でなることを第一に求めて生きるのです。すると、神はご自分の時にご自分の方法で、必ず私たちを支えて下さいます。「信仰は望んでいる事を保証」しています。ですから、忍耐して神の時を待ちたいと思います。
第二に、信仰は「目に見えないものを確信させ」ます。これは目に見えない神の計画や御業(みわざ)の全てに関係している、信仰の誠に尊い側面です。とにかく信仰には素晴らしい力があり、神の見えない大切なことを私たちに確信させます。
その一例が3節で言われます。「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉で造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものから出来たのでないことを悟ります。」
私たちは、この世界が出来た様子を決して見ることは出来ません。でも信仰は、世界が勝手に出来たのではなく、創世1章の伝える通り、神が万物を丁寧に造られたことを分らせます。
信仰は、神が無から有を呼び出すことの出来る全能者であり、人間には不可能なことも可能なお方であることを確信させます。
大切な神の摂理は目に見えません。しかし、信仰はその神の摂理を確信させます。
他にも信仰は目には見えないことを確信させます。例えば、聖餐式のパンは、イエス・キリストがご自分を信じる者にご自分の永遠の命を分け与え、魂を養っていて下さることを表し、葡萄酒は、十字架で流されたイエスの血により、神が私たち信仰者を救いの契約に入れ、その罪を本当に赦し、洗い清めて下さることを保証しています。ならば、私たちは本当にそれを信じるのです。
洗礼はどうでしょうか。宗教改革者ルターは、信仰の激しい試みを受ける度に、チョークで机に「私は洗礼を受けている」と書き、イエス・キリストの救いの恵みを何度も確認し、確信することが出来ました。
私たちも同じです。信仰は、過去、現在、未来に関らず、聖書でご自分を証しされる真の神による「見えないもの」、特に見えない恵みを確信させます。
しかし、私たちにはやはり先のことが気になります。そこで先程のローマ8:28を振り返ります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画に従って召された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となる…。」これは今、目に見えません。しかし、私たちが神を愛しているなら、この見えないことが神の愛と真実と力により必ずいつか実現します。ですから、私たちはこれを信じ、忍耐して持つのです。
ヨハネ福音書14、15、16章には「私の名によって願うなら与えられる」というイエスの約束があります。これは単に祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります」と唱えることではありません。イエスがこう約束されたことを心でしっかり確認し、事実イエスを通して神に真剣に祈り願うことです。私も今まで何度か困難な試練に遭い、「今度ばかりは駄目かも知れない」と思うこともありました。しかしその都度、この約束を思い起し、「そうだ、イエス様は確かにこうお約束下さっている!神様、この約束を信じます故に、どうか助けて下さい」と祈ってすがりました。そうして実際、色々な試練を乗り越えさえて頂いて来ました。これからもそうしたいと思います。
先程のⅠコリント10:13はどうでしょうか。「あなた方が経験した試練は皆、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなた方を耐えられない試練に遭わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えていて下さ」る。
これも目に見えません。しかし、私たちがこれを再度しっかり信じるなら、本当にそうなります!御子イエスにより私たちを罪から贖い、私たちの永遠の父となって下さった全能の神が、まだ見えないことをも私たちに実現されます!末期癌のクリスチャンが、ベッド上でこの御言葉を信仰によって確認し、信じ直し、安心して主の御許に召されて行ったことを、私は病院で何人も見せて頂きました。
信仰とは何か。その一端を学びました。
私たちには色々なことが起ります。私たちは信仰を試され、時にひどくうろたえ、自分を失い、ボロボロになる時もあるでしょう。けれども、無数の信仰の先輩が、「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」その信仰を忍耐して固く守り、困難や試練の時にも誠実に歩み、ついに栄光の天の御国に召されて行きましたように、私たちも是非そうされたいと思います。