2021年04月04日「イエスの復活と神の愛」
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イエスの復活と神の愛
- 日付
- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書
コリントの信徒への手紙一 15章3節~8節
聖書の言葉
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。コリントの信徒への手紙一 15章3節~8節
メッセージ
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イエス・キリストの復活を祝うイースターを今年も迎えることができ、感謝でございます。今朝は、イエスの復活の事実と神の愛について、根本的なことを確認したいと思います。
イエスは、紀元30年頃の春のある金曜日、十字架で死なれました。しかし、三日目の日曜日の朝、約束通り甦られました。それは旧約聖書も預言していました。ですから、パウロは言います。Ⅰコリント15:3、4「私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(=旧約聖書)に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に書いてある通りに、甦られたこと…。」
しかし、死者の復活など、あり得るのでしょうか。イエスは仮死状態ではなかったのでしょうか。しかし、十字架のそばにいたローマ兵たちは処刑に沢山立ち会ってきたプロですし、イエスの脇腹から心嚢を槍で突き刺して死を確認しています(ヨハネ19:34)。
では、幻覚だったのでしょうか。しかし、イエスは5節「ケファ(=ペテロ)に現れ…12弟子に」現れました。イエスが捕えられた時、「私はイエスを知らない」と言って逃げたそんなペテロに、また12弟子にも、イエスは現れました。それどころか、6節、そののち、イエスは500人以上の人たちに同時に現れました。従って、幻覚などではあり得ません。
それでもイエスの復活を疑うのであるなら、まだ大勢生き残っていた500人の中の誰かに会えば、確かめられます。イエスの復活から20数年しか経っていなかったからです。
それに、復活が嘘ならば、これを人々に伝えていた弟子たちは恐ろしい罪を犯していることになります。ですから、パウロは15節「私たちは神についての偽証人ということにさえ」なると言います。これは、神を幼い時から恐れてきたユダヤ人である弟子たちには考えられないことです。
それと、嘘をついても何ら益はなく、命の危険が増すだけです。人は嘘と分っていることに命はかけられません。イエスは本当に甦られ、弟子たちに現れられました。ですから、これまでユダヤ人を恐れていた弟子たちは「イエスは神の御子であり、私たちを救い得る者は天の下にこの方以外、一人もいない」と大胆に言える者になり(使徒4:12参照)、その後、二百数十年間もローマ帝国からの迫害に耐え、ついにローマ帝国もキリスト教を公認したのでした。
イエスの復活の事実性については十分でしょう。大切なのは、ここに私たちへの神の愛が示されていることです。次にそれを見たいと思います。
第一に、神はイエスが私たち罪人の救い主であられることを見事に示されました。
聖書の言う罪は、神の清い御心に反する全てのことであり、神は私たちの行いだけでなく、言葉も心の思いも問われます。例えば、人を蔑み、「お前などいなくていい」と思うなら、それは心の中の殺人です。淫らな思いで異性を見るなら、心の中の姦淫です。また私たちは今まで一体何度嘘をついたでしょうか。他の人が知らなくても、悪いことをすると、私たちの良心は疼きます。神は私たちの良心を通して罪を告発しておられるのです。しかし、私たちはしばしば良心の声に耳を塞ぎ、しらを切ります。私たちは何と多くの罪の履歴書を持って、死後、神の裁きの座に立つのでしょうか。誰が救われるでしょうか。
自分を救い主だと言い、人からそう言われて死んだ人も、世の中にはいます。けれども、救い主の証拠などなく、皆死んで滅んでしまいました。
では、私たちは絶望的ではないでしょうか。いいえ、ここに福音があります!神はご自分の御子を人間イエスとして世に遣わされ、罪の全くないイエスの十字架の死により、イエスを心から信じ依り頼む者の罪を全部イエスに償わせ、またイエスを復活させ、イエスが全世界を贖って、なお余りある救い主であることを、ただ私たちへの愛の故に公然と示されたのです。
イエスを信じても、なお、信仰の薄い私たちですが、イエスの背後に輝く神の愛の故に奮い立ち、天の国に向かう道を、ご一緒に固く踏みしめて行きたいと思います。
第二に、罪と共に人間の最大の問題である死からの救いの道も、神はイエスの復活により示されました。
私たちは人生で絶えず問題に遭遇し、それと戦い、片づくと一息つきます。でもまた別の問題が起ります。この罪の世では、一生その連続です。が、最大の問題は何といっても死です。ですから、まともな哲学や宗教は皆、死の問題を扱ってきました。もっとも、本当に解決出来たかどうかは分りませんが。
しかし、イエスの復活により、神は御子イエスに死の究極の解決のあることを示されました!ここに神の愛があります。
「罪の報酬は死」だ、とローマ6:23は言います。動物と比べ、人間の死に特別な恐れや悲惨が伴うのは、神への人間の背きの罪に原因があることを聖書は教えます。しかし、イエスの復活は、この点でも私たちに救いの道を示します。すなわち、イエスを心から信じ依り頼む者は、イエスの十字架の故に罪を全て赦され、その上、今、天におられる復活のイエスから、神と共に生きる永遠の命を与えられます。誰も何もこれを奪うことは出来ません!ここに死の究極の解決があります。
もう少しお話致します。第一に、イエス・キリストを心から信じる者に、死はもう決して永遠ではありません。
なるほど、イエスを信じても人はいつか死にます。でも、それは一時(いっとき)のことです。イエスも死なれましたが、三日目に復活されました。これは、神の恵みにより、信仰者には死は一時のものでしかなく、やがて神の国で主イエス同様、一人一人にピッタリの完全な体に復活し、神との愛の交わりの内に永遠に生きる者とされることを示しています。
従って、クリスチャンにとって、死は、ドアを開け、次の明るい光に満ちた憧れの部屋に入るように、一時の通過点に過ぎず、永遠ではありません。何と感謝なことでしょうか。
第二に、イエスを心から信じる者に、死はもはや耐えがたい恐れではなくなりました。
死の恐れには少なくとも二つの面があります。一つは、自分という存在が消滅し、永遠に失われることへの恐れです。元東京大学の宗教学者、岸本英夫氏は、ご自分が癌の宣告を受けた時の心境をこう書かれました。「私はこの2週間の間に、今さらながら人間の生命への執着の強さを知った。一度生命が直接の危機にさらされると、人間の心がどれ程たぎり立ち、猛り狂うものであるか。そして如何に人間の全身が手足の細胞の末に至るまで必死でそれに抵抗するものであるか。私は身をもってそれを感じた。一日の生活をようやく終えて夜が来ると、身も心もヘトヘトに疲れ切っていた。ベッドに横たわると、もう手も足も動かすことができない程であった。それははなはだしい精力の消耗であった。ただ冴えているのは頭だけであった。」ここには自らの存在が消滅していくことへの強い恐れと抵抗が伺えます。
死の恐怖の二つ目は繰り返しますが、やはり私たちの罪と不信仰の問題です。
長い間、死刑囚のカウンセラーをされた作家で精神科医の加賀乙彦氏は、死を前にした死刑囚の心境をこう書かれます。「死よりも死後のことが怖い。本当に怖いのは、この世で犯した罪の赦しが得られないことである。」死を前にしながら、自分の犯した罪に対する罪責感におののかなければならない。何という苦しみ、また恐怖でしょうか。
これは他人事ではありません。私たちも思いと言葉と行いにおいて犯した罪を全て、死後、神の前で裁かれる時が来るからです。
しかし、ここに福音があり、神の計り知れない愛があります。すなわち、神が私たちに賜った救い主イエス・キリストを本当に心から信じ受け入れ寄り頼む者は、決して絶望する必要はありません。御子イエスは、十字架で私たちの罪を全部償って下さいました。ですから、間違った文字を消しゴムで消すように、イエスはご自分を信じる者の罪状書きを全て拭い去り、私たちの罪の履歴書を全部廃棄して下さるからです。旧約時代の信仰者ヒゼキヤは、神に「あなたは私の全ての罪を、あなたの後ろに投げやられました」と祈りました(イザ38:17)。そのように、神は本当に私たちの罪を後ろに投げ、二度と思い出されません。
そして死の時、信仰者の魂は、聖霊により瞬時に清められて御国に引き上げられ、神の溢れるばかりの愛の内に、神と共に、また同じように主を信じ、主を愛する兄弟姉妹たちと共に永遠に生きることを許されるのです。
不信仰に固執するなら、死は永遠に私たちを神から引き裂き、滅びへ呑み込んでいくでしょう。けれども、ただ主イエスを仰ぎ、心から主に依り頼むなら、ローマ8:39が言う通り、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すこと」は決してできません。イエスの復活は、私たちに死を超えた永遠の命の世界を保証する神の愛を歴史の真只中で証ししているのです。
辛いことも多い私たちの人生ですが、今年もこの最も大切なことを確認させて下さった神に感謝し、夫々が改めて主の業(わざ)に、特に神と人に誠実に仕えることに励みたいと思います。
最後に、Ⅰコリント15:58を読んで終ります。「私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなた方は、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」