私たちを試みにあわせないで下さい
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 6章9節~13節
6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
(新改訳聖書2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節
今朝は、イエスが祈りの模範として教えられた主の祈りの第6祈願を学びます。13節「私たちを試みにあわせないで、悪からお救い下さい。」
最初に、先程、文語文で唱えた主の祈りの最後の「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」について少し触れます。新約聖書には膨大なギリシア語の写本が残っていて、この言葉は5世紀の写本の極一部にありますが、他は全て9世紀以降の写本であり、のちに教会がⅠ歴代誌29:11~13のダビデの祈りなどから付け加えたようです。伝統的に唱えられてきましたが、聖書本文ではありませんので、説教では扱いません。
さて、前回は罪の赦しを願う第5祈願を学びました。では、第6祈願は何を特に願う祈りでしょうか。犯した罪の赦しではなく、これは罪そのものからの救いを願う祈りと言えます。ここに、私たちの弱さをよくご存じの主イエスの深い愛を示されます。実際、主は何と私たちの弱さと問題点をよくご存じでしょうか。
私たちは自分の犯す罪が神の怒りに値することをよく知っています。そこで、赦しを真剣に祈り願います。そして神は、御子イエスへの信仰の故にご自分の子供にして下さった信仰者の祈りを喜んで聞かれ、お赦し下さいます。
しかし、罪の力は底知れません。この世にいる間、私たちには罪の性質があり、思いと言葉と行いにおいて過ちを繰り返します。私たちはそんな自分が腹立たしく、詩編32篇や51篇のダビデの詩のように、良心が疼きます。もう罪を犯したくありません。
が、そのことに真剣であればある程、私たちは自分の弱さや罪深さに打ちひしがれます。罪の力は強力です。それに負ける情けない自分に、私たちは絶望的になります。結局、神の憐れみしか、自分を罪に勝たせるものはない!が、まさにこのように罪の力と自分の無力さをとことん知っている悔い砕かれた者に、イエスはこの祈りをお教えになるのです!「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」
実の所、私たちにはこう祈る外ありません。でも、魂を絞り出すようにこう祈る者を、天の父は憐れまれ、徐々にでも罪に打ち勝てるようになさり、罪そのものから助け出されるのです。ここに私たちは、私たちの弱さをよくお分りで、だからこそ、この祈りにより私たちを助けようとされるイエス・キリストの熱い愛と憐れみを、改めて知らされます。
お分りのように、私たちには大きな問題が二つあります。一つは、繰り返しますが、信仰があっても尚残る罪の性質故の私たちの弱さ、無力さです。この自己認識が希薄ですと、到底私たちは罪に勝てません。このことを私たちは改めてしっかり認識しておく必要があります。
もう一つ大きな問題があります。悪魔・サタンの存在とその恐ろしい力です。
サタンは、イザヤ14:12~15などから、堕落した天使と言えます。そして最終的には黙示録20章が伝えますように、神に滅ぼされます。イエスはルカ10:18「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、私は見ました」と言われました。サタンは、イエスを荒れ野で誘惑しましたが、失敗しました(マタイ4章)。またイエスが十字架で人間のために贖いを完成されるのを阻もうともしましたが、それにも失敗し、最後は神に裁かれ、永遠に滅ぼされます。
しかし、簡単には滅ぼされません。自分と同じ滅びに一人でも多くの人間を引き摺り込もうとして働いています。神への報復であり悪あがきです。それを全力でしかけます。ここにこの問題の深刻さと危険性があります。
実際、サタンは何でも利用し、クリスチャンか求道者かを問わず、無神論者でも他宗教の者でもお構いなしに、真の神と救い主イエス・キリストから引き裂こうとしています。
第6祈願で「試み」と訳されているギリシア語は、試練とも誘惑とも訳せます。神が、ご自分の子とした信仰者を霊的に鍛えるために与えられる試練であっても、そこにサタンが働きますと、たちまち罪と滅びへの危険な誘惑となります。サタンは、ヨブ記から分りますように、私たちを直接手に掛けて滅ぼすことは出来ません。しかし、神が許可された苦痛や苦悩を利用して私たちを掻き乱し、不信仰と罪へと巧妙に引き込みます。ここが恐ろしいところです。
聖書を読みますと、サタンは何でも利用して人を神から引き離し、罪を犯させ、永遠の滅びに至らせようとすることが、よく分ります。例えば、創世記3章の人類の始祖アダムとエバの堕落の出来事からは、サタンは、何を使ってでも人間の欲に働きかけること、また私たちの身近な人をさえ使って誘惑することが分ります。
ヤコブの息子たちの姿からは、人間の妬みを利用することがよく分ります。
出エジプト後のイスラエルの民の様子からは、不安を煽っては偶像を拝ませ、困難の中ではすぐ神への不満を煽り、異教徒の堕落した生活に妥協させ、神の御心を伝える人たちを疎ましく思わせることも分ります。
ダビデの子ソロモンは優れた知識と知恵を授かりましたが、強大な王国を築きますと、その安定と維持のために外国の異教徒の王の娘たちをも含めて何百人もの女性を妻とし、やがてそれは国を亡ぼす要因となりました。
旧約聖書は、人間のどうしようもない罪と弱さと愚かさ、しかし尚これを憐れまれる神の計り知れない愛と忍耐の歴史を伝えていますが、悪魔の巧妙なやり方をも伝えています。
新約聖書ではどうでしょうか。イエスに最も近く恵まれた所にいた使徒ペテロにさえ悪魔が臨み、またイスカリオテのユダを裏切らせた恐るべき事実を伝えます。
ペンテコステの時、約束の聖霊が教会に臨まれ、教会は力強くイエス・キリストの福音を証しし、非常に祝福されました。けれどもすぐ、アナニヤとサッピラ夫妻が自己顕示欲からサタンの罠にはまり、教会を欺きました。
サタンは時に仕事や人間関係などのストレスを利用します。国家権力や教育、思想、同調圧力を用います。それでも駄目なら、脅しや迫害などで恐怖心を与え、教会と信者を攻撃し、信仰を潰そうとします。ですから、Ⅰペテロ5:8、9は言います「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなた方の兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。」
それだけではありません。親しい内側の者たちからも、時には優しい甘い言葉と巧みな方法で、信仰なんて適当でいいんだと思わせ、罪意識を鈍らせ、信仰を骨抜きにします。あるいは、私たちの大きな失敗を利用し、自分を失いそうになるぐらい惨めにさせます。ライバル心を煽り、信者同志の不満や不信感や不協和音を増幅させます。何でも利用するのです。ですから、黙示録2:24は「サタンの深み」と言って、強く警戒させるのです。
こうして見ますと、悪魔の恐ろしさを聖書が教えていることは、何とありがたいでしょう。これを知っているのと知らないのとでは、大違いです。
しかし正直な所、こんな悪魔のやり方に、私たちは勝てるのでしょうか。勝てます!そのために、イエスは第6祈願を下さったのです!
確かに教会も個々のクリスチャンも一時は負け、神を悲しませ、自分がひどく惨めになることもあります。でも、その都度悔い改め、泣きながらでも主に寄りすがる者を、神は決して退けず、赦し、慰め、励まし守ってこられました。ですから、旧約時代も含め、全歴史を通じて、また今も、全世界に真の教会と真のクリスチャンは存在しています。神はご自分の民を知っておられます。
最後に四つ程確認して終ります。
第一に、断じて自分を過信せず、心底謙ってこの祈りを神に捧げたいと思います。戦国武将の一人、山中鹿之助は、三日月に向って「我に七難八苦を与え給え」と願ったといいます。がクリスチャンにはこういうことはあってはなりません。サタンの深みを決して忘れてはならないのです。傲慢さほど、サタンのつけ込みやすいものはありません。
第二に、罪の強い誘惑を感じる時、主イエスがマタイ4:10や16:23で言われましたように、「サタンよ、退け」と叫ぶ位、断固、サタンと罪の誘惑を退けることです。中途半端では駄目です。
宗教改革者ルターは、ヴァルトブルク城に匿(かくま)われ、新約聖書をドイツ語に翻訳しました。その時、悪魔が現れ、彼がインク壺を投げつけた時にできたという染みが今も残っているそうです。実際にルターが何を見たかは分りませんが、サタンと罪の力を感じる時、それぐらい断固とした姿勢で退けることが大事です。
第三に、試みにあっても、まだそれは罪ではありませんが、もしそれに負けたとしても、何もかも終ったのではないことを覚えておきたいと思います。自分はもう駄目だ、と自暴自棄になってはいけません。直ちに悔い改め、罪の赦しと罪そのものからの救いを、神に祈るのです。M.ロイドジョーンズは「祈りとは、恵みの神に手を差し出すことだ」と言いました。その通り、祈りの手を差し出すなら、神の恵みの御手は必ず私たちの手を掴んで、救って下さいます。
第四に、主が「私たち」を試みに遭わせず、悪から救って下さい、と教えられた通り、親しい方々や教会員を、必ず心に覚えて祈りたいと思います。試みは、どんな人にも天に召される時まで続きます。主がお教え下さったこの祈りを、他の誰かに祈ってもらう必要のないような強い信仰者など、この世に一人もいません。
罪と悪魔に勝つためには、御言葉の武具を身に着けることが誰にも不可欠です。それと共に、この祈りを繰り返し唱え、試みの多いこの世で、私たちのために主イエスが既に踏みしめ勝利して下さったその主の道を、是非、皆で支え合い、踏みしめて行きたいと思います。