2021年03月18日「祈りについて (9)」
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祈りについて (9)
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- 田村英典 牧師
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ヨハネによる福音書 16章23節~24節
聖書の言葉
16:23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。
ヨハネによる福音書 16章23節~24節
メッセージ
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神が私たちに下さった素晴らしい恵みの手段の一つである祈りについて、今日も学びます。9回目となります。
祈りにおいて私たちが成長するために、聖書の言葉を身に着け、それによって祈る祝福の大きさという観点から、詩篇の言葉をここ暫く取り上げてきました。これはもっともっと沢山見ることが出来、また大変意義深いですね。
しかし、今日はそれを離れ、イエス・キリストの名によって祈ることの意義を、改めて確認したいと思います。
私たちは、祈りの最後に「イエス・キリストの御名によってお祈り致します」とか「主の御名によって祈ります」などと唱えます。この言葉を唱えることは、実は聖書の中でそれ程多くの箇所で教えられてはいません。しかし、確かに先程お読みしましたヨハネ福音書16:23、24などで、イエスはお教えになっています。
ここは、イエスが明日、全世界の罪の贖いのために十字架で命を献げられるという非常に緊迫した状況の下で、何かしら不安を覚えていた弟子たちを励ますためにイエスが語られたものです。ここと殆ど同じ教えが、15:16と14:13、14にも見られます。イエスは弟子たちに言われました。15:16「あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選び、あなた方を任命しました。それはあなた方が行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなた方が私の名によって父に求めるものを全て、父が与えて下さるようになるためです。」
主に選ばれ召されたその尊い務めを果たせるように、イエスの名によって祈るなら、天の父は叶えて下さるという約束です。
ただ、14:13、14では、イエスご自身が叶えて下さると言われています。「また私は、あなた方が私の名によって求めることは、何でもそれをして上げます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなた方が、私の名によって何かを私に求めるなら、私がそれをして上げます。」
感謝なことに、私たちがイエスの御名によって祈るなら、父なる神も御子イエスも、祈りに応えて下さるということです。このように言って、イエスは、ご自分の名によって祈る恵みを強調され、大いに私たちを励まされます。私たちを愛して下さっているからです。ですから、キリスト教会は、いつでも、またどこにあっても、主イエスの御名によって祈ることを本当に大事にして来ました。
ところで、「イエスの名によって」とは、どういうことでしょうか。名はその人を表します。ですから、これは神の御子イエス・キリストを通して、ということです。
では、それは何を意味するのでしょうか。今日心に留めたい一つのことは、祈りはあくまで仲保者イエス・キリストの執り成しによって、ということです。
私たちは生れながらに不従順な罪人であり、本当は神に祈る資格もなく、エペソ2:3の言うように、「生れながらに御怒りを受けるべき子ら」なのです。そういう私たちが神に祈ることが出来るとすれば、それは一切私たち自身の内にある何かによってではありません。一重(ひとえ)にそれは、私たちの罪を一切合切背負って十字架で死に、また復活して天の父の右に座しておられる主イエス・キリストの執り成しのお蔭でしかないのです。カルヴァンは『キリスト教綱要 Ⅲ2:27で言います。「どんな祈りも、この仲保者(=キリスト)がそれを清めて下さるのでなければ、神を喜ばせるものとはならない。」
しかし、こういう点だけでなく、感謝なことに、イエス・キリストが執り成し、弁護し、助けて下さいますので、私たちは確信と信頼をもって神に近づくことができ、神は祈りを聞いて下さるのです。これについて、カルヴァンはローマ8:34の註解で、驚くべきことにこうまで言います。「言うなれば、我々はキリストの口によって祈るようなものである。キリストが入室、謁見、執り成しを、我々のために備えて下さっているからである。」ジュネーヴ教会信仰問答の問252でもカルヴァンは、キリストを弁護人として信頼し、神に親しく近づき、キリストお一人を通して祈る人についてこう語ります。「いわば彼(=キリスト)の口によって祈るように祈るのであります。というのは、その人はキリストの弁護によって己の祈りが支えられ、また推薦されていることを知っているからであります。」と。
私たちがキリストの名によって、すなわち、イエス・キリストを仲保者として祈れることは、本当は計り知れないぐらい、幸せなことなのです!
祈りの最後に私たちクリスチャンが唱える「イエス・キリストの御名によってお祈り致します」という言葉は、単なる祈りの最後の定型句、締めくくりの言葉ではありません。イエス・キリストによらなければ、私たちは、本当は神に近づくことも祈ることも出来ないこと、しかし、私たちがこれを唱える時、私たちの不完全な祈りであっても、恵みと慈しみに満ちた主イエスが、いわば、ご自分の口をもって弁護し代弁して、父なる神に執り成して下さることを、しっかり覚え、感謝し確信をもって大胆にお祈りしたいと思います。