2021年03月14日「私たちの罪をお赦し下さい」

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私たちの罪をお赦し下さい

日付
説教
田村英典 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章9節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。
   「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、ひとを赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。
(新改訳聖書2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 主イエスが祈りの模範として教えられた主の祈りの第五祈願に、今日は進みます。12節「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」

 「負い目」とは罪のことです。しかしここでは、新約聖書全体で罪を表わす言葉としてよく使われる「的外れ」という意味のギリシア語ではなく、「負債」を意味するギリシア語が使われています。ですから、償いというニュアンスが強いと言えます。

 罪とは、思いと言葉と行いにおいて、神の御心に適わない全てのことを指し、この祈りはその赦しを願います。多くのクリスチャンにとって、この祈りは簡単にスーっと通り過ぎることの出来ない特別な祈りだと思います。罪というまことに重いものに関わる祈りだからです。

 大切な点を三つ学びます。

 第一に、私たちには罪の赦しを繰り返し神に真剣に願うことが不可欠です。

 イエスはこれを弟子たちに、つまり、クリスチャンに教えられました。クリスチャンは、十字架で私たちの罪を償って下さったイエス・キリストを信じています。従って、既に罪を赦され、救われているのではないでしょうか。それでも、尚、罪の赦しを願う必要があるのでしょうか。

 これは救いの概念の基本に関ることですので、確認しておきます。

 神の戒めを全て守られ、全く罪のない神の独り子イエスが私たちのために命を献げられたのですから、その救いの効力は絶大です。全世界を贖って尚、余りあります。従って、イエス・キリストを心から信じるなら、人は罪を全て赦され、永遠の救いに与(あずか)ります。

 しかし、厳密に言いますと、これは救いの約束に与ったのであり、救いの完成は天国で、なのです。地上では腐敗した罪の性質がまだ一杯残っていて、私たちは思いと言葉と行いにおいて、毎日といって良いほど罪を犯しています。ですから、私たちは天におられる主イエスを仰ぎ、こう祈らざるを得ません。「主よ、あなた以外に私の希望はありません。何度も罪を犯す惨めな私を憐れみ、お赦し下さい。」そして実はそう祈ることで、私たちは自分が永遠の救いの約束に与っていたことを繰り返し確認させられ、ますます罪に死に、義に生きる者へと清められ、救いは一層堅固になっていくのです。

 「私は信仰を持ったあの時、救われた」と言う人が時々います。しかし、それは信仰によって救いの約束に与ったということであり、もう一切罪を犯さず、心は常に喜びと平安に満ちた者に救われた、という意味ではありません。そう誤解している人は、罪をまた犯したり、ひどく辛い目に遭ったりしますと、救いも神の愛も分らなくなり、混乱し、神から離れてしまう危険性さえあります。正しい救いの教理を知ることが大切です。

 繰り返します。クリスチャンは、イエス・キリストへの信仰により、救いの約束に与り、神との恵みの契約に入れられたことは間違いありません。けれども、尚、自分の内に残る罪の腐敗した性質のために、地上では何度も罪を犯し、失敗もするのです。

 実は、信仰が成長し深まるにつれ、私たちは自分の罪深さに一層気付くようになります。以前には、さほど感じなかった自分の罪深さが分り、ルカ18:9以降の例え話に出てくるの取税人のように胸を叩き、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈らずにはおれなくなります。

 使徒パウロは真に偉大なクリスチャンでした。しかし、彼は自分が決して完全でないことをよく知っていました。鋭くなった罪意識の故に、ローマ7:18、24で彼は、「(私には)良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できない…。私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか」と嘆き呻きます。しかし、だからこそ、真のクリスチャンは、パウロ同様、ますます謙り、古い自我に死に、天にあって絶えず私たちを父なる神に執り成して下さるイエス・キリストにのみ依り頼む者になります。神はそういう悔い砕けた魂を喜ばれます。詩篇51:17は言います。「神への生贄(いけにえ)は、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。」

 悪さをしては何度も泣いて謝る子供を、親はギュッと抱きしめ、赦します。そういう中で、子供は人間として成長していきます。同じように、何度も自分の罪と向き合い、罪を憎み、赦しを真剣に求める者を、神はご自分の子として赦し、御子イエスに似る者へと人格的に一層清め、成長させられます。こうして、救いの約束が実現していくのです。ここに、この祈りの素晴らしい祝福があります。

 二つ目は、人を赦すことの大切さです。

 「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」とあります。これは人の罪を赦すから、それを交換条件にして、私たちも神に罪を赦して頂く、というのではありません。罪の赦しと救いは100%、キリスト信仰によります。

 では、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦す」とはどういう意味でしょうか。

 第一に、これには私たちの身勝手を戒める目的があります。「自分は罪の赦しと永遠の救いを絶対にほしいし、天国へ入りたい。だが、自分への誰かの罪は絶対に赦さない」というのであるならば、それは身勝手でしょう。しかし、往々にして私たちにはそういう所があると思います。自分は赦されたい。だが人は赦さない。こういう身勝手を戒めるために、「私たちも、私たちに負い目のある人を赦します」という言葉をイエスは入れられるのです。クリスチャンは、神の一方的な愛と憐れみにより、ただ信仰により罪を赦されたのですから、その神の愛と赦しに倣い、今度は人を赦すことを神は願われるのです。

 これはとても大事なことです。ですから、主はこの点をもう一度わざわざ取り上げて、こう注意されます。6:14、15「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなたを赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しになりません。」主イエスは私たちの身勝手を戒め、自分が赦されたように、人を赦す真実な信仰をお求めになります。

 もう一つ大切な意味があります。それは人を赦すことにより、私たちが神による更に素晴らしい罪の赦しと救いの愛を一層確信させられ、自分が変えられることです。

 仮に、すごく腹が立ち、断じて赦せないという人が私たちにいるとします。しかし、その人への苦々(にがにが)しい思いや憎しみをずっと抱き続ける時、私たちは幸せでしょうか。心に絶えず重いものが引っかかり、過去を引き摺ってはいないでしょうか。普段は忘れていても、その人のことを思い出すと、急に苦々しい思いが蘇り、私たちは過去に引き戻され、そのことにまた支配されます。1981年、広島を訪れた当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ二世は、「赦しなさい、赦さないと、あなたはずっと相手の支配下にあります」と述べました。その通りだと思います。

 けれども、自分もただイエス・キリストの十字架の故に罪赦されたことを思い起し、それ故、人を赦す時、私たちには何と清々(すがすが)しい喜びがあることでしょう!自分が軽やかになります!自分のような者が人を赦せた!あの人とのイヤな過去を清算できた!それを知った時の爽やかさ、喜び、解放感は例えようがありません。

 私たちのような不信仰な者でも赦せたのであるなら、まして愛と憐れみにおいて無限、永遠、不変の天の神は、どれほど赦しに満ちたお方でしょうか。そのことが以前よりも一段とよく分ります。ですから、何度も罪を犯し、悔いてはまた犯す情ない私たちですが、希望をもって「私の罪をお赦し下さい」と祈り、大胆に天の父に近づき、赦される幸せをますます噛みしめることが出来ます。天の父は、私たちにそういう幸せを味わわせになりたいのです。

 三つ目は、人の罪の赦しのために祈る大切さ、尊さです。

 イエスは「私たち」の罪をお赦し下さい、と祈るようにお教えになります。主の祈りは元々教会という信仰共同体の中で祈ることが想定されていますので、主語が「私たち」なのですが、人のことも覚えて祈るという面があります。とりわけ、自分と同じように一杯罪を犯す他の人のためにも祈ることを、主は私たちに教えておられます。これも何と尊いことでしょう。

 私たちは生れながらに本当に自分中心な者です。自分の罪の赦しについてはよく祈っても、人の、特に人の「罪の赦し」のためにまで祈ることはせず、思い付かないこともありますね。しかし、それでは私たちは人として成長しません。まして、人を裁いてばかりでは、どうなるでしょうか。

 一方、人の罪の赦しのために祈ると、どうでしょう。感謝なことに自分が変えられ、必ず人として清められ、豊かにされ、神の愛も一段とよく分るようになります。

 人の罪の赦しのために祈る!このことで、私たちはヨブに教えられます。ヨブ1:5は、もう大人であった自分の子供たちのためにヨブが絶えず神に執り成しの礼拝を献げた理由をこう伝えます。「『もしかすると、息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。」ヨブはそこまで子供たちを愛し、真剣に執り成しました。

 私たちはどうでしょうか。自分の配偶者や子供や孫、自分の兄弟姉妹、それどころか自分の親の罪と不信仰の赦しのために、更には教会の兄弟姉妹を思い浮かべ、必ず罪と弱さのある一人一人の赦しのために、どれだけ具体的に祈っているでしょうか。他の誰かに祈ってもらう必要がない位、全く清く罪のない人など、この世には一人も存在しません。それなら、どうして他の人の罪の赦しのために祈らないでおれるでしょうか。

 主イエスは天において、私たち信仰者の罪のために、眠ることもまどろむこともなく執り成して下さっています。ですから、私たちも主に倣い、是非、人のために執り成したいと思います。

 第一に地上にある限り、自分の罪の赦しのために繰り返し真剣に祈り、第二に私たちに罪を犯す人を、神から頂いている無限の赦しの愛を思って赦し、第三に他の人の罪の赦しのために、改めて心から祈りたいと思います。そういう私たちを神はどんなに喜ばれ、ご自分の子として祝福して下さることでしょうか!

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