日毎の糧を今日もお与え下さい
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- 説教
- 田村英典 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 6章9節~13節
6:9 ですから、あなた方はこう祈りなさい。
「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」
(新改訳聖書2017年度版)マタイによる福音書 6章9節~13節
主イエスが祈りの模範として教えられた主の祈りの第四祈願を、今朝は学びます。11節「私たちの日毎の糧を、今日もお与え下さい。」
主の祈りは、まず神への呼び掛け、次に神に関する祈りが三つ、そして私たちに関する祈りが三つ続きます。自分のことから祈り、自分のことだけを祈る傾向もある私たちにとって、まず神のこと、次に私たちのことという順序は、大変大事です。祈りは信仰の根幹に関わります。この点を常に意識して祈りたいと思います。
さて、第四祈願から何を教えられるでしょうか。
第一に、私たちは生きるために必要なものを、神に祈り求めて良いことを教えられます。
聖書は私たちに、人間の人格の座である心と魂の重要性を常に教えます。それには無頓着で、食べることや外面のことだけに関心があり、その結果、永遠に自分の魂を滅ぼす人もいます。何と不幸なことでしょう。とはいえ、体のことや食べることはどうでも良いのではありません。それもとても大切です。
そもそも私たちの人生の目的は、私たちを創り、私たちを愛しておられる真の神をもっと知り、神の栄光を現し、神を喜ぶことです。Ⅰコリント10:31の「あなた方は、食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい」の御言葉に従って、この世で神の栄光を現し、神を喜ぶために、私たちは食べもし飲みもします。ここに第四祈願の究極の目的があります。
所で「糧」とあります。元のギリシア語ではパンのことですが、実は私たちの生存に必要な色々な物の代表としてのパンを意味します。服、住い、健康、仕事、太陽、空気、水など、生存に必要な一切のものです。イエスは、そういう具体的な必要のためにキチンと祈ることをお教え下さるのです。従って、「そんなことまで祈るのは、どうなのだろう」と迷う必要はなく、私たちは生きるために必要な様々なものを、率直に具体的に神に祈り求めたいと思います。
しかし第二に、それらを慎ましく願うことを教えられます。これに二つの面があります。一つは「日毎の」と言われている点です。「日毎の」と訳されているギリシア語の意味は、聖書以外には余り使われていないそうで、よく分りません。文語訳聖書は「日用の」、口語訳、新改訳、共同訳は「日毎の」、新共同訳は「必要な」と訳しています。「日毎に必要な」と取って良いでしょう。
何を教えられるでしょうか。慎ましさです。人間は生れつきの罪のために、しばしば必要以上のものを求めます。十戒の第10戒は貪欲を戒めますが、人は何と欲深く、そのために自分も人も不幸にし、魂を滅ぼしていることでしょうか。ヤコブ1:14、15は言います。「人が誘惑にあうのは、夫々自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」コロサイ3:5は「貪欲は偶像礼拝です」と言います。贅沢と貪欲を戒め、必要なものだけを求める慎ましさは、どんなに大切でしょうか。主は私たちを守るために、過剰に持つことも不足し過ぎることもないように、この祈りをお教えになります。箴言30:7~9はこう祈ります。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえて下さい。空しいことと偽りの言葉を、私から遠ざけて下さい。貧しさも富も私に与えず、ただ私に定められた分の食物で、私を養って下さい。私が満腹してあなたを否み、『主とは誰だ』と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」
もう一つあります。「今日」と言われている点です。「今日」であり、来月も来年も、ではありません。今日、必要な分を、ということです。
人間の不安と貪欲には際限がありません。ルカ12:13以降の愚かな金持の譬えのように、何年分も、いいえ、一生分さえ求めかねません。しかし、仮にそれを手に入れても、自分が罪と不信仰の内に突然死ぬなら、どうなるでしょうか。その愚かな金持ちに神が「愚か者、お前の魂は、今夜お前から取り去られる。お前が用意した物は、一体誰のものになるのか」(ルカ12:20)と言われる通り、悲惨な結末を迎えます。
人間には先のことまで考える能力を神から与えられており、計画的に生きることは、神の願われることです。落ち着いた生活をして神を賛美し、神と人に良く仕えることが出来るためです。しかし、基本は、余りに先々の物までではなく、今日必要なものを慎ましく求め、与えられた物に感謝し、今日を精一杯、神と共に生き、神と人に仕え、自分を大切にして生きることです。
第三点は神への心からの信頼です。
イエスは、私たちの生存に必要なものを神に祈り求めることをお教えになりますが、これは何と大切なことでしょうか。世界を見ますと、今も飢えて死んでいく人たちは驚くほど沢山います。食料は全世界に均等に行き渡っていません。一部の国の人たちが恐ろしいほど食べ、平気で沢山食べ残し、捨てられ、腐っています。
しかし、生きられなくなる危険は、本当は誰にもあります。太陽光が弱まり、雨が減ったら、どうなるでしょうか。たちまち食糧不足に陥り、奪い合いが起り、衣服の材料も建築資材も草木や森林もなくなります。
私たちの生存は、実は全く神の憐れみにかかっているのです。これを心底覚え、本当に謙り、命の根源者なる神に「私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい」と心から祈り願い、天の父への信仰と信頼に改めて堅く立ちたいと思うのです。イエスは弟子たちにハッキリ約束して下さいました。マタイ7:9~11「あなた方の内の誰が、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょう。このように、あなた方は悪い者であっても、自分の子供たちには良い物を与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなた方の父は、ご自分に求める者たちに、良い物を与えて下さらないことがあるでしょうか。」
第四に、私たちは隣人愛を促されます。
イエスは「私たちの」日毎の糧を、と祈るようにお教えになります。「私たちの」です。主にあって一つ家族とされた教会の兄弟姉妹のことは勿論、全ての人を覚えて、です。
Ⅱテサロニケ3:10、12は「働きたくない者は、食べるな。…落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と命じます。その通りです。しかし、社会には、働きたくても病気や様々な事情で働けない人も沢山います。主イエスは、私たちがそういう方々のことも覚えて、「私たちの」日毎の糧を、と祈ることをお教えになるのです。そして自分に出来る形で本当に支援したいと思います。
マザー・テレサは祈りました。「主よ、私たちの手を通して、日毎のパンを、今日人々にお与え下さい。私たちの思いやりを通して、主よ、人々に平和と喜びをお与え下さい。」
とはいえ、このことは、彼女のように、飢えている人たちの所に食べ物や必要な物を持って出向き、直接奉仕をする慈善的なことだけではありません。自分の力だけでは生きられない人のことも覚えて、健康な自分が神に感謝して誠実に働き、税金をキチンと納める形などで奉仕することも構いません。エペソ4:28は言います。「困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。」
第四祈願は、自分や自分の家族のことぐらいにしか思いが至らないこともありがちな私たちの意識を広げ、私たちを具体的な隣人愛へと促します。主のご期待に少しでも応えたいと願います。
最後、第五にこの祈りは、先程の第三点とも少し重なるところがありますが、神の様々な恵みと愛に、私たちがもっと気付き、感謝し、そうしてますます神への信仰が強められることを促します。クリスチャンにとって、気付きは何と大切でしょうか。
実は、私たちが気付きさえすれば、この祈りは既に神に聞かれ、もういっぱい叶えられているのです。どうでしょう。昨日一日食べ物がなく、ひもじい思いをした人が、今、私たちの中にいるでしょうか。いないと思います。
では、何故食べられたのか。毎週の礼拝を初め、色々な折に「我らの日用の糧を今日も与え給え」と私たちが祈ったからなのです。いいえ、それだけではありません。実は世界中で他の誰かもこれを祈ってくれていたからなのです!
私たちは、1日3回食べていても、主の祈りに神が応えて下さったとは、あまり思いません。私たちは祈ってはいても、その結果に案外無頓着で、祈ったことであっても本当に忘れやすいですね。しかし、よくよく考えれば、生きていく上で、この祈りは、実は驚くほど聞かれているのです。そのことに一つ一つ気付くなら、どんなに感謝なことでしょう!本当に励まされ、信仰を強められ、確信が増します。主は、こういう形をもってしても、私たちを励まし、強め、祝福なさりたいのです。主は本当に私たちを愛しておられるのです。
「私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい。」
特に食事の度に、自分が祈り、あるいは他の人が祈ったこの祈りが聞かれていることを体中で覚えて神に感謝し、まただからこそ、一層熱心にこの祈りを隣人と自分のために捧げ、一切を主に委ね、今週も主の道に喜んでご一緒に励みたいと思います。